『第一話・3 : 忘れたくないものを胸に──旅立ちの朝』
朝靄の街は、まだ眠りの中にあった。
昨夜、灯りと人声であふれていた石畳も、今はひんやりとした湿気をまとい、夜の気配を名残のように抱えている。
パン屋の煙突からは細い煙が上がり、焼きたての匂いが風に溶けて漂う。
道端では、丸くなった猫がうっすら目を細めてこちらを見送り、再び眠りに落ちていった。
靄の粒子が街灯の残光を柔らかく包み、遠くでは小鳥がまだ半分眠たげに羽を震わせていた。
世界がゆっくりと目を覚ましながらも、“出立の一行”だけは早すぎる朝を歩いている──そんな静けさだった。
遠くで鐘の音が一度だけ鳴り、それすらも靄の中に吸い込まれ、静けさに溶けた。
リリアは、宿の扉を静かに閉めた。
背には旅支度を詰めたリュック、腰にはポーチ、そして背中には一本の剣。
黒鉄色の鞘に刻まれた古い魔法陣が、朝の光を受け、まるで呼吸するように淡く脈打っていた。
(……レーヴァテイン・ゼロ)
究極の魔法剣。
かつて魔王をも一閃し、その名が世界に刻まれた伝説の武器。
今は、命を預ける“現実”そのものになっていた。
柄に触れれば、掌を刺すような冷たさと、背骨にまで響く確かな重みが返ってくる。
その感覚は、画面の向こうでは決して得られなかった“本物”の証だった。
(……今回も、裏切るなよ)
剣から手を離し、視線を上げる。
通りの向こう、教会前の広場に赤いマントが揺れていた。
セラフィーが、朝靄の中で静かに立っていた。
高く結った銀髪が朝の風にそよぎ、その表情は昨日と同じはずなのに、どこか遠くを見ていた。
そして、距離を隔てたまま、彼女は小さく口を開く。
「……早いわね」
「眠れなかったんだ」
軽く笑ってみせる。だが、その笑みは頬の奥で固まっていた。
動かそうとした筋肉が、何かに引き止められているかのように重たく動かない。
セラフィーは短く頷き、視線を北へ向ける。
「ラグネルまでは、馬で二日。補給もない。……だから、気をつけて」
冷たい朝の空気よりも、その言葉の方が胸に深く沈んだ。
返事を探したが、唇はただ小さく頷くだけだった。
「……セラフィー」
「なに?」
「……昨日のこと、ありがとう」
彼女は一瞬だけ目を細め、その奥に言葉を飲み込むような色を浮かべた。
まつ毛に朝露がきらめき、ほんの刹那、声にならない“何か”がそこにあった。
そのとき、セラフィーの指先がマントの裾をきゅっと握った。
口にできない想いを、布に縫い留めるかのように。
けれど、それはすぐに霧のように消えた。
ほんの一瞬、彼女の唇が「行かないで」と震えた気がした──それでも声にはならなかった。
「行きなさい、リリア。忘れたくないものを、握りしめて」
胸の奥で、小さく痛みが走る。
握りしめるべき“何か”が、自分の中でぼやけていることに気付いてしまったからだ。
(俺は本当に“リリア”なのか、それともまだ“颯太”のままなのか)
答えの出ない迷いが、吐息の白に溶けていった。
──けれど同時に。
(……なんか、ちゃんと「行ってらっしゃい」って言われた気がした)
そんな、妙に温かい感覚も確かに残っていた。
息を深く吸い込み、肩のベルトを握り直す。
吐く息は白く、背の剣がわずかに鳴った。
馬のたてがみに手を置き、鞍へ体をあずける。
革が軋み、蹄が石畳を叩く乾いた音が、まだ眠る街に小さく響いた。
馬の体温が脚を包み、鞍の革の匂いが現実の重さを告げてくる。
ひと呼吸ごとに、冒険が“今ここ”から始まることを体が理解していく。
街門を抜けた瞬間、空気の温度が変わった。
胸の奥でわずかに緊張が跳ね、北の空を覆う霞が遠くで揺らめく。
世界はひとつ呼吸を変えた。
その呼吸に、颯太──いやリリアの鼓動が重なった。
(……それでも俺、やっぱり“男として”デートしたかったんだよな)
(もう、セーブデータ戻せないのかよ……! いやほんと、俺の青春、どこいった!?)
(昨日のチーズケーキを一緒に食べたあの時間──
勇者でも魔王討伐でもなく、“ただの俺”として笑っていたかった。
……けど、それも全部、俺の今の力になるはずだ)
小さな苦笑を胸の奥に隠し、北の大地へと馬を馳せた。
──こうして、“七つの封印”を巡る旅が始まった。
(……いや、始めちまった、のほうが正しいか。
ほんと、もう後戻りなんて──できねぇな。)




