『第七話・6(終章) : その甘さは、まだ胸にある』
リリアは立ち上がり、紅茶の香りにかすかに笑みを落とした。
「……わたしが欲するのは、ただの砂糖菓子じゃない。
心の奥に、そっと火を置くような──静かで深い甘美。
このマカロンは、それを持ってる。」
指先に残る甘さが、静かに溶けていく。
「……“美味しい”で終わらない味。」
(……いや今の言い方、ちょっとキザじゃね!?
俺、自分に酔ってないか!? これ普通に恥ずかしいだろ……!)
紅茶の湯気が、ふわりと揺れた。
甘さはまだ、胸の奥に留まっている。
「……ところで、ブッくん。
ザッハトルテの“本当に”美味しい店、知ってる?」
(いや待て俺。
つか……いつの間に俺、こいつのこと“仲間”って思ってんだよ。
……まあ、いいか。)
ブッくんのページが、ぴくりと跳ねた。
「ちょっと真面目に言わせてもらってええでっか……?
『ザッハトルテ』言うたらですな……その……」
すう、と紙の繊維の奥が熱を帯びる。
まるで“思い出”を引きずり上げるみたいに、声が低く沈んだ。
「……ただの菓子やと思ってたら──」
声が、ぷつりと裂けた。
「ただのチョコケーキと
思うてもらっちゃ困りまっせーーーーー!!!!」
店内の空気が、びくりと震えた。
「そらもう──王室御用達や。
選ばれた菓子職人は、生涯に一度しか“製法”を許されん。
魂の粉ほんまに削り倒して作り上げた……
“甘味界の覇王” や……っ!」
「ええか!? ザッハトルテ言うんはなァ!!
層で心を語る菓子なんや!!」
ページがバッサァッ!!と開く。
まるで演台に資料を叩きつける教授。
「チョコの艶。スポンジの密度。ジャムの湿度比。
この三つが揃わんと――“層”は歌わん。」
「ただ甘いだけなら、チョコでええ。
ただしっとりしたいだけなら、ガトーショコラでええ。
――せやけどな。」
声が、ひとつ落ちる。
店内の時計が、コト、と鳴った。
その小さな音が、空気の“甘さ”を一度だけ止める。
ブッくんは続けた。
紙の繊維の奥から滲む、記憶の熱。
「外側は薄く固うて、中は静かにぬくい。
齧った瞬間、時間を閉じ込めて……心に、そっと置いていく。
“甘美の記憶”そのものや。」
「せやから——」
バァンッ、とページが閉じる。
「店を間違えたら、人生が終わる。」
(いや重すぎだってそれ!!!)
(さっきまでのテンション芸どこいったんだよ!?)
セラフィーがそっと眉を寄せる。
「……もう宗教よね、それ。」
(……なんでそんな覚悟が必要なんだよ。
ザッハトルテって、修行? 試練?)
リリアは半眼で紅茶を回した。
表面に揺れた影が、ため息みたいに細くほどける。
「……で、その、“人生が終わらない”店、どこにあるの?」
「王都ミルフェリアですわぁぁ!!
そこに、“神のチョコ”がおわしますんやぁぁ!!」
ブッくんの声は震えながらも、どこか恍惚としている。
(こいつやべーぞ、なんか怪しい薬とかやってねーだろうな?)
リリアは笑わなかった。
ただ、紅茶の“あたたかさ”だけが、胸に静かに残っていた。
「いいわ。行きましょう──王都ミルフェリアへ。」
その声は、甘さと鋼のちょうど中間に静かに落ち着いていた。
まるで、旅の始まりを自分で静かに選んだみたいに。
わずかに息がこぼれる。
それは笑みとも溜息ともつかない、静かな熱だった。
(……王室御用達。甘味の頂とか言われるやつ。)
(“本物のザッハトルテ”って、どんな味なんだろう……)
(いや、違う。俺が食べたいわけじゃない。)
(あの子が、もう一度食べたかった味なんだ。)
セラフィーが、そっと湯の縁に指を添える。
その仕草は、言葉にできない何かを静かに撫でているようだった。
「……ねえ、リリア。」
呼びかけは優しい。けれど、どこか“迷い”がない。
その声だけで、次に来る内容がただの雑談ではないとわかる。
「甘さに心を寄せることは、悪いことじゃないわ。
あの子もそうだった。あなたがそれを抱いているのも知ってる。」
セラフィーの視線が、まっすぐこちらを射抜く。
「でも――忘れてはだめ。」
紅茶の表面が、かすかに揺れた。
その揺れは、過去の影と未来の予兆を重ねるように淡かった。
「“魔王カルマ=ヴァナス”と、七つの結界のこと。」
「第二の封印は、王都ミルフェリア近郊の――バラード地区にある。」
その名を口にした瞬間、空気がすっと冷える。
甘さが、薄い膜一枚ぶんだけ後ろへ退いた。
リリアは立ち上がり、最後に湯気をひとつ吸い込んだ。
「……なら、なおさら行く理由になるね。」
(なんでザッハトルテの聖地と、魔王の封印が重なるんだよ……
この世界は、甘さと死を同じ皿に盛る気なのか。)
リリアは、そっと足元に力を込めた。
静かに、靴音が床を叩く。
セラフィーは冷たく告げた。
「結界には当然、強力な守護者がいる。
“菓子のついで”なんて軽い気持ちで踏み込めば──命はないわ」
店内の時計が、からりと一度だけ鳴った。
ブッくんは、頁をぶるぶる震わせた。
「ひ、ひぃぃっ……!
よりにもよって、ザッハトルテの聖地と同じ場所とか……!
甘味巡礼と世界救済がセットとか、難易度バグり散らかしとるやろ……!」
――ころん、と。
ワン太が、リリアの肩の上で小さく手をあげた。
その仕草は、あまりにも静かで、あまりにも優しかった。
音はなかったのに、
胸の奥の何かが、そっと触れられたように揺れた。
リリアは、一瞬だけ目を伏せた。
胸の奥で、失われた声が、ほんのかすかに息をした気がした。
(……どんな危険があろうと関係ない。
俺は、ただザッハトルテに浮かれてるんじゃない。)
(これは“俺”の欲じゃない。
“リリア”が最後に願ったものだ。)
思い出は、言葉じゃない。
触れた温度だけが、胸の奥に、いまも灯っている。
ワン太の小さな手が、そっと揺れた。
それは、あの日の“息”と同じ、やさしいリズムだった。
……思い出す。
フォークの先でそっと表面を割ったときに漏れた、小さな息。
『ねぇ、これ……心があったかくなる味なんだよ』
その声は、胸の奥でいまも、かすかに灯っている。
ワン太の小さな手が、そっと揺れた。
リリアは、静かに目を閉じる。
紅茶は、まだ温かい。
その余韻だけが、
夜明け前の空気の中で、静かに息づいていた。
【第二部 完】




