『第七話・3 : デリート・オブ・スイート ― 頁は甘味を喰らう ―』
静寂を破ったのは、かすかな紙のざわめきだった。
焦げかけた古書がばたばたと震え、頁の間から手足を突き出して――全力で土下座を始めた。
「お願いやから、命だけは堪忍したってぇなあぁ!!」
「ワイなんざ駄菓子屋の10円グミやで!?
あんたは“王室御用達ザッハトルテ様”やんか!
格がちゃう、層が違う、カロリーも違うんや!!」
ページの端がばたばた震える。
「そらワイ、砂糖3グラムでできとる雑魚菓子や。
あんたなんか、バター200%の貴族スイーツ様やで!?
もう存在からして太るわ!!」
――ぷしゅーっ。
白い煙が上がり、甘ったるい焦げ砂糖の香りが漂う。
「呪いでもなんでも解きますわ!
ラムネでも飴ちゃんでも捧げます!
なんなら賞味期限ごと魂差し出しまっせぇぇ!!」
紙の両手を床に叩きつけ、額までずるずる擦りつけながら叫ぶ。
リリアが半眼でつぶやいた。
「……いやもう、それ“懺悔”やなくて“カロリー報告”やん。」
(そもそも……こいつ、さっきまで“呪いの王”とか名乗ってなかったか!?
急に大阪の土下座系ゆるキャラみたいになってんだけど!!……なんなん!?)
ページの端がぴくぴく動き、
いつの間にか「はんなりスマイル」のイラストが描き足されていた。
(――いや、そんなサービス精神いらねぇから!!)
(てか、誰が描いたんだよ!? お前、セルフ萌え絵仕上げか!?)
(――てか、今そんなこと気にしてる場合じゃねぇ!!)
(……俺、今日まだ糖分ゼロじゃね?)
リリアの眉がぴくりと跳ねた。
(――やばい。血糖値の限界突破してる……!)
「今日限定ドーナツの発売日なんだよ!!
早く行かないと売り切れるんだって!」
「俺、ケーキも食べ損ねたし、機嫌悪いんだよ!!
お前みたいな、バカ本にかまってる暇ないんだって!!」
「ドーナツ売り切れてたら、どうしてくれんのさ!!」
拳を握った瞬間、空気がビリッと震えた。
店の梁が鳴り、棚の瓶がからんと跳ね、
砂糖壺の中でスプーンがカタカタと踊った。
(……血糖値って、怖ぇな。)
「また、完全に男言葉じゃない! まあ、少し落ち着いて!」
セラフィーが呆れ半分でなだめる。
(……いや無理だろ。血糖値ゼロの勇者に落ち着けって言われてもな!)
その言葉が空気に溶けきる――その刹那。
床の上の呪いの本が、ぴくりと痙攣した。
焦げた頁が一枚、風もないのにめくれる。
その縁が、ぱちりと光を弾いた。
(……ん? 今、動いた?)
次の瞬間、空気が逆流するようにざわめいた。
「呪い解きますわ! すぐやります! ちゃっちゃと済ませまっさ、だからほんま堪忍してくだせえ!!」
“呪いの本”――いや、“呪いの王”は、慌てて頁をばさばさとめくり始めた。
その音は、まるで詠唱のように響く。
インクの匂いが濃くなり、空気がぱちぱちと帯電した。
「え、ちょ……ちょっと!? まさかその状態で解呪するの?
火ぃ出したら店ごと燃えるでしょ!!」
リリアの叫びもむなしく、頁の隙間から光の渦が吹き出した。
「《デリート・オブ・スイート・スペルキャンセル》ッ!!!」
(いや名前ふざけてんだろ!? お前!!)
光が弾け、紙片が雪のように舞う。
リリアの胸の痣が眩く脈打ち、次の瞬間――
黒い鎖がぶちぶちと音を立ててほどけていった。
体の奥で何かが“外れる”。
重さが抜ける。
けれど、痛みはない。
代わりに、ほんのりバニラと焦げ砂糖の香りが鼻先をくすぐった。
舌の奥に、焼きたてのカラメルの余韻のような甘苦さが残る。
胸の下に刻まれていた黒い符号が、まるでチョコレートを溶かしたようにとろりと光を帯び、
線がひとつずつ薄れていく。
焼き印のように残っていた痣は、やがて金色の砂糖片のような光へと変わり、
ふわりと空中に舞い上がった。
「……なにこれ、美味しそうな匂い?」
セラフィーが目を瞬かせる。
その光は胸の上でいったん渦を巻き、
やがて一本の細い糸となって――呪いの王の頁の隙間へと吸い込まれていく。
まるで“罪”を食べるように、本が静かに呑み込んだ。
「……おい本。今の、まさか食ったのか?」
リリアが半ば呆然と問うと、呪いの本が鼻を鳴らすようにページを閉じた。
「へへっ……呪いは甘味に変換してワイの“胃袋に封印”したんや。」
そう言って、胸(ページの中央)をドンッと叩く。
そこには、“食い過ぎ注意”と書かれた落書きのような文字が浮かんでいた。
「……ちょっと苦かったけど、後味はバニラや。
呪いの味は蜜の味やがな! ワイ、これで“呪い喰いの本”に進化やで!」
「お前の呪いの仕組み、雑すぎだろ!!」
「食レポすんな!!」
リリアの絶叫が店中に響いた。
粉砂糖みたいな光の粒が天井からふわっと舞い降り、
焦げた本棚の上に“おかわり厳禁”の文字が浮かぶ。
「……おかわりしようとしたんかい!!」
そのツッコミを最後に、光が完全に収まった。
痣はもう、跡形もない。
残されたのは――わずかに焦げたような香りと、胸の奥にじんわり残る甘い熱だけだった。
(……まるで心臓に砂糖を一粒、溶かされたみたいだ)
リリアは胸に手を当て、焦げた香りを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。
(ありがとな……バカ本)
呪いの本の頁がふわりと揺れ、
インクの香りが――まるで「お粗末様」と返事するように漂った。
……その香りが、ふっと途切れた気がした。
まるで時間そのものが、息を止めたかのようだった。
一瞬、空気が沈黙する。
そして――静寂の底で、“別の呼吸”が混じった。
頁の奥で、黒い何かがゆらめく。
微かな笑いの音が、紙の繊維をすべるように滲んだ。
ほんの一瞬――覗いた眼差しに、奈落を映すような深淵の闇が宿っていた。
(……いま、笑った?)
冷たい威厳が空気を震わせ、梁さえ軋む。
焦げ砂糖の匂いが再び立ちのぼり、甘さよりも苦みが勝る。
焦げた甘味が、ゆっくりと息を吹き返す。
“呪いの王”。
その名が――冗談から、儀式へと変わっていった。




