『第七章・1 : 呪いの王と砂糖の匂い』
リリアの耳奥を灼くように響いた古代符号の囁きは、やがて意味を持ち始めた。
ただ、その意味は――
《頁は甘味を喰らう》
――たったそれだけだった。
だが、その短い一文がリリアの胸の痣を一層深く焼きつけ、心臓を縛る冷たい鎖となっていった。
「リリア、大丈夫……? その……痣……」
セラフィーが息を詰めて問いかける。
リリアが「大丈夫だよ!」と答えかけた、その時。
――ぱちん。
バッグの中から、小さな布地の音がした。
ワン太の瞳がかすかに揺れ、そこに黒い符号が一瞬だけ閃いた。
同時に、床に落ちていた古書がびくりと震えた。
ばさっ! 頁が勝手にめくれ、そこから黒い液体がにじみ出す。
ずるり、と。
頁の隙間から、ゆっくりと腕らしきものが這い出した。
それは骨でも肉でもなく、濃いインクのしずくが寄り合って形を成した、ぬめる影の肢体。
だが指先は妙に丸く、“ぺちん”と頼りなく床を掴む。
黒い滴が床に散り、そこからまた別の線が這い出す。
続いて脚がぽとりと落ち、影はよろけながら立ち上がった。
長い手足なのに、動きはどこかぎこちなく、まるで誰かが夢の中で作った“出来そこないのマスコット”のようだった。
(……おい、もっとホラーで出てこいよ! これじゃ学園祭の“手作りゆるキャラ”の怪物じゃねーか!)
影は胸を張る。
その瞬間、空気がふっと“甘い匂い”に変わった。
そして、古書店の奥にどや声を響かせた。
「フハハハ! ワイは呪いの王やでぇ!」
その声は明るく響いたが、わずかに二重に割れていた。一方の声は子供の笑い、もう一方は紙を裂くような音。
空気を凍らせるどころか、場違いな関西訛りが木霊する。
インクの身体からは黒煙ではなく、なぜか砂糖菓子のような甘い匂いが漂った。
さらに腕を振りかざし、高らかに吠える。
「ワイの呪いはどうや?強力やろ?苦しいやろ?だが今のワイは血も魂もいらん! ワイが欲しいんはただひとつ――甘味や! 砂糖こそ魔力の源やぁぁ!!」
声が木の梁を震わせ、空気が溶けるように甘ったるく歪んだ。
その甘気は舌の奥に張りつくようで、息を吸うだけで喉が焼ける。
(……いやどんな燃料システムだよ!? ラスボスの欲望が完全に“糖分依存”って、世界観バグってんだろ!!)
セラフィーは杖を構えたまま、目を丸くして固まった。
「……ちょ、なにこの……焦げた砂糖みたいな匂い……」
「……お菓子の亡霊でも召喚したの?」
リリアは息を吐き、片手をゆっくり掲げる。
掌の符号が淡く光り、その瞬間、空気が音を失った。
「……悪いけど、あなたにかまってる暇なんてないの! さっさと呪いを解いて!」
「いやや! 美味しいお菓子くれるなら、考えてやってもええけどな!」
影の口がねっとりと歪み、黒い唇の隙間から甘い蒸気がふわりと漏れる。
店内の空気が、焦げ砂糖の匂いを孕んでとろりと淀んだ。
「交渉の余地なし。」
リリアの声は冷たく、雷鳴の刃が世界を断ち切る。
「――ボルテス《雷符・即刻顕現!》」
「……短っ!?」
セラフィーが思わず口走ったその瞬間、世界が音ごと弾け飛んだ。
ズガンッ!!
雷槍が床下から突き抜け、影の身体を焦がしながら天井まで貫いた。
衝撃波が店内を揺らし、舞い上がった埃が閃光に照らされて銀色に煌めく。
焦げた砂糖と金属の匂いが混ざり、喉の奥を熱く焼いた。
光が書棚を走り抜け、呪いの本の頁に焦げ跡の影を刻む。
インクの身体がバチバチと弾け、溶けた活字の粒が雨のように散った。
「うぎゃあああっ!? 名乗り終える前に焼き払うとか……卑怯やんけぇ!」
「さっさと解呪しないからよ!」
それでも、インクまみれの呪いの本は呻いた。
「せ、せめて……チョコレートパイを……供物にくれたら考えてもええけどな……
甘味……砂糖が切れたら……ワイは霧散してまうんやぁ……」
リリアは片手を広げ、わずかに息を整えた。
掌の符号が浮かび上がり、光の文様が空気に静かに溶けていった。
光の粒は店内の埃をも照らし、ひとつひとつが符号のように瞬いて消えていく。
空気がわずかに震え、世界が息を潜めた。
――すべての音が、詠唱を待っていた。




