『第六話・4 : 世界が頁をめくるとき(When the World Turns a Page)』
(……やべぇな。ほんとにスイーツ地獄に閉じ込められるとか、ヘンゼルとグレーテルかよ……)
(いや待て……これ、“ラスボス直前でケーキ屋に寄ってお茶しちゃう勇者”ムーブじゃねぇか。ゲームならバッドエンド一直線だろ……!)
想像してしまう。“もし本物のリリア”が一緒にあそこへ飛ばされていたら、と。
――間違いなく大興奮でショーケースに突撃してただろう。
ザッハトルテを両手で抱えて、きらきらした瞳で「おいしそう!」なんて言って……。
(いや即死フラグだろそれ! “食べときゃよかった”なんて後悔する暇すらなく、秒でスイーツ同化エンド確定だわ!)
セラフィーが重い沈黙を破った。
「……もしあそこでケーキ食べちゃってたら……どうなってたのかしら?」
リリアは肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。
「……そうだね。食べた瞬間に、その場で菓子細工になっていたんじゃないかな? せめてクッキーくらいの耐久度にはなれたかも」
セラフィーが肩を落とし、ふっと笑った。
「……甘すぎる結末ね」
(おい! “HP1のクッキー勇者”とか悪夢でしかねえよ!ジンジャーマンかよ!)
バッグの中で、ワン太が小首をかしげ、そっと手を上げた。
“ぱた……”と、一度だけ――ゆっくり振られる。
その仕草は、いつものように明るいはずなのに、不思議と胸に刺さった。
(……お前……今ぜってぇ“おかわり”モーションしただろ!? 二回目突入したら即死確定だからな!?)
つぶらな瞳は相変わらず無垢。けれどさっきの奇跡を思えば――その無邪気さが逆に底知れない。
問いかけても、ワン太は「えへへ」と笑っているように両手を振るだけだった。
バッグの奥で、小さく“ぱた……”と音がした。
それが笑いなのか、警告なのか――誰にもわからなかった。
その時、古書店の奥から足音が近づいてきた。
「……甘さに呑まれず戻ってくるとはな」
ひょろりと姿を現した本屋の親父は、皺の刻まれた手で落ちた本を拾い上げた。
細い目がリリアの掌を見据え、ぎょろりと光った。
「その古書は、持ち主を選ぶ。……お前さんはもう、〈頁の向こう〉に名を刻まれてしまった。哀れにもな。選ばれた者ほど、頁の底へ沈むんだ。
選ばれた以上、逃げ場はない。たとえ望まなくても、頁は勝手にめくれる」
親父はそれ以上何も言わず、背を丸めて奥へと消えていった。
(呑気に去ってんじゃねえよ! こっちは死にかけたんだぞ!? 絞めて殺してやろうか?このジジイ!)
苛立ちの残響だけが、埃とインクの匂いに混ざって漂った。
――だが、そのとき。
痛み、ではなかった。けれど、焼けるような熱。
胸の奥が焼けつくように疼いた。
リリアの鎖骨の下に、黒い符号の痣がじわりと浮かび上がる。
それはネクロコードの紋様。細い鎖のように絡み合い、鼓動のたびに脈打ち、まるで心臓を縛る焼き印そのもののように光った。
「……っ! リリア、その痕……!」
セラフィーが息を呑む。
同時に――バッグの中のワン太の布地にも、うっすらと同じ符号が浮かんだ。
縫い目に黒いインクが滲み、布地の下からじわりと光が漏れる。
片方のボタンの目に、ひびのような光が走り、リリアの痣と同じリズムで脈打った。
(……見間違い……じゃねぇよな。お前にも刻まれてた……!)
埃っぽい古書店に、ワン太の“ぱたぱた”とした小さな手の音だけが残った。
だが、その静寂は“完全なる沈黙”ではなかった。
胸の奥で、心臓の鼓動と重なる微かなざわめきが続いていた。
まるで頁そのものが、眠りながら夢を見ているかのように――
――世界そのものが、ひとりでに頁をめくり始めようとしていた。
セラフィーが深く息を吸い、杖を構えた。
「……危険すぎる。このままじゃ、また頁が勝手に開く」
そして小さく皮肉を混ぜる。
「ほんと……あなたって。どうして“壊れそうなもの”ばかり背負うのよ……」
杖先に符号が集まり、淡い光の輪が幾重にも広がっていく。
リリアの掌に貼りついた古書が、抵抗するように脈打ち、頁をばさりと震わせた。
「……静まれ、頁よ。《封緘》!」
響いた声とともに、光の輪が本を覆う。
革表紙に浮かび上がった紋様がひとつ、またひとつと封じの鎖へ変わり、古書の震えが徐々に弱まっていく。
やがて、吸いつくように張り付いていた感触が――ぺりりと剥がれ落ちた。
古書はリリアの掌から離れ、床へと落ちる。埃がふわりと舞い上がり、
革表紙の角がささくれたまま、まるで息を整えるように静まった。
……だが、その奥底では、ごくかすかに“紙の裏返る音”がまだ聞こえていた。
それは誰も触れていないのに、頁そのものが息を漏らすように脈打っていた、不気味な囁きだった。
――そしてその囁きは、読めるはずのない古代符号を、まるで直接脳に焼きつけるように、リリアの意識に響いた。
そして世界は、ひとりでに頁をめくった。
彼女たちの知らぬ物語が、すでに始まりかけていた。




