『第六話・2 : 幻層臨界《スウィート・ディザスター》』
次の瞬間、ザッハトルテの黒い艶が、不気味な呼吸のように脈打った。
その表面に走っていた亀裂がぱっくりと割れ、チョコレートの破片が床に散る。
濃厚な甘い香りは一瞬で変質し、鉄を焼くような匂いが鼻腔を刺した。
――空気が、ざらりと変わった。
「……っ、嘘でしょ……」
セラフィーが思わず後ずさる。
中央のアプリコットジャムが盛り上がり、眼球のように膨れてぎょろりと視線を返す。
次の瞬間、それが破裂する。
琥珀色の滴が床に落ちて蠢き、指のような形を取っていった。
(やば……これ……まさかの、ケーキゴーレム!?)
スポンジの層がぐにゃりと折れ曲がり、積み木のように重なっていく。
焼き目の生地はひび割れ、筋肉のようにうねりながら腕と脚を成していく。
リリアの背筋を、ぞわりと冷気が這い上がった。
甘い香りの奥に、血と腐敗の匂いが滲んでいる。
艶めいていたチョコレートは鎧のように硬化し、光を鈍く反射した。
やがて三メートルを超える巨躯となり、甘美の象徴だったケーキは異界の兵器へと変貌した。
その動きに呼応するように、ショーケースの菓子たちも震え始める。
苺のタルト、プリン、ミルフィーユ――すべてが崩れ、目を覚まそうとしていた。
(最悪だ……これ完全に“ボス戦強制突入イベント”じゃねえか!)
革バッグの中で、ワン太が小さく拳を握る。
その姿に、リリアの胸がわずかに熱を帯びる。
ケーキゴーレムが腕を振り下ろす。
リリアは剣を構え、真正面から迎え撃つ。
チョコレートの塊が叩きつけられ、石畳が砕け――
――轟音が走る、はずだった。
だが、足元の空気は微動だにしない。
破片も、風圧も、何ひとつ届かない。
「……っ!?」
セラフィーが慌てて結界を張る。だがリリアは動かない。
(……おかしい……今の、ぜんぜん“受けた感覚”がない……)
砕けた石は宙で止まり、映像のように巻き戻されていく。
焦げた匂いも、煙も、薄膜のように消えた。
(……これ、全部……見せられてる……?)
甘い匂いも、崩れる音も、夢の皮を剥ぐように消えていく。
世界が一瞬、呼吸を止めた。
「セラフィー……これ……幻だ!」
「え……? ま、待って……じゃあ、今までの全部……?」
セラフィーの声が震える。
その瞬間、空気の膜が破れる音が“キィン”と耳を裂いた。
砂糖の粒が逆光に舞い、景色の端から現実が滲み出してくる。
ケーキの街が、輪郭を失いはじめた。
砂糖の光がほどけ、壁の色が水に溶けるように滲む。
世界の色が、一呼吸で褪せた。
光が甘い膜を失い、空気の輪郭が戻る。
耳の奥で、“現実”の鐘が鳴った。
「――コード:斬閃!」
白光が走る。
剣の軌跡が閃光となって空間を裂き、ケーキゴーレムの胸を貫いた。
爆ぜる音とともに、世界が一瞬真白に塗りつぶされる。
セラフィーが叫ぶ。
「リリア、やったの!?」
「いや――違う。これ、消えてる……!」
「……じゃあ、本体はまだ……?」
淡く透けながら、巨体は光の粒になって溶けていった。
まるで最初から実体がなかったかのように。
風の匂いが変わる。
焦げたカカオの苦みが、皮膚の奥に残る。
それは“現実へ戻る途中”の味だった。
(……やっぱり、すべて幻像だ……!)
(この街そのものが、甘さで人を絡め取る罠……
――“幻の甘味”ってところか……!)
(どうする? 今のままだと打つ手なしだぞ……)
――そのとき。
バッグの中のワン太と目が合う。
綿の奥で、小さな光が一瞬だけ瞬いた。
それは“理解”というより、“呼応”だった。
まるで、遠く離れた心臓が同じ鼓動を返すように。
ぬいぐるみの鼻先が、かすかに動く。
(ん?……そうか……! ここが“幻想”なら、ワン太ならどうにかできるかもしれない。)
(幻を形づくる魔素は、生きた存在にしか干渉できない。
だから――“命を持たない”ワン太には、最初から通じないんだ……!)
(ガルヴェインの時もそうだった。
あの霧の幻術にも、ワン太は一度たりとも惑わされなかった!)
(いや、違う。ただ“効かない”だけじゃない。
あいつの中には、きっと――魔そのものを拒む、“絶対的な力”があるんだ。)
(だから、ワン太を媒介にすれば──現実の力でこの幻影を焼き尽くせる。
――それが、ここからの唯一の突破口だ!)
その確信が胸を貫いた瞬間、脳裏に――さっきチラッと見た古書の一節が閃いた。
『“ネクロコード”……魂を縛り、生きた躰を符号の糸で操る禁断の術……!
“無生の器”を操ることもできる……!』
(――これだ!)
(だが問題は、幻想と現実――その二つの領域を、本当に“繋げられる”のか。)
(操作系魔術では不可能……だが、ネクロコードなら“位相を越えて干渉”できる――魂の座標を書き換える力がある!)
(……ただし失敗すれば――この幻想に“意識ごと閉じ込められる”。
現実には戻れない。時間すら凍ったまま、永遠にこの甘い牢に囚われる……)
(……もう、試すしかない。
守るためなら、踏み込むしかねえ!)
指先で、空中にペンタゴンの印を切る。
「リリア……それ、まさか――」
セラフィーの声が震える。
「やめて……そんな術、現実に干渉したら、あなたの魂が――!」
その声が光に飲まれるように掻き消え、
光が、指先に集まりはじめた。
空気が低く唸り、世界が“境界”を思い出す。
胸の奥で、火花のような痛みが弾けた。
リリアは、静かに前へ出た。




