『第五話・1 : 勇者はパン屋で笑う』
次の日の朝。
戦場の煤の匂いはようやく薄れ、街の空気には日常の香りが戻りつつあった。
リリアは鎧を預け、簡素な外套に身を包み、石畳の通りへと歩き出す。
肩には、いつもの小さな革のバッグ。
その中でワンタが、無言のまま小さな手を――ぴょこりと動かしていた。
(……おかしいよな。今の俺はリリアの中にいる――)
(だから動いてるのは、命の結晶石で操られてる“ただのぬいぐるみ”のはずだ。)
……それなのに。
(なんでこいつ、こんなに“生きてる”みたいに動いてんだ?)
胸の奥で、戦闘の光景がふっと蘇る。
霧の中――ワンタの胸が、ほんの一瞬だけ光った。
金でも銀でもなく、温度のある色。
それが剣の赤に溶けて、幻の囁きが消えた。
(もしかして……あの“光みたいなやつ”のおかげだったのか?)
(魔法だったのか、それともただの偶然だったのか……今でもわからない)
(ただのモフモフのぬいぐるみにしか見えない。
けれど――あの瞬間、俺の命を救ったのは、間違いなくこいつだ。)
その違和感だけが、胸の奥に燻っていた。
リリアは静かに息を吐き、思考を手放すように足を進めた。
頬をかすめる風が、ようやく血の匂いを洗い流していく。
せめて今だけは――戦場ではなく、街の空気を吸いたかった。
通りに一歩踏み出す。
焼きたてのパンの香ばしさ、軒先の薬草の青い匂い、遠くから響く鉄槌の音。
朝の光が瓦屋根をなで、通りの埃を金に染めていた。
陽炎のように揺れる空気の中で、人々の声が少しずつ重なっていく。
子供たちの笑い声が石畳を駆け抜け、市場は活気に満ちていた。
腰に剣がないことに、ふと心が軽くなる。
片手に抱えるのは、籠いっぱいの野菜や薬草。
戦士ではなく、一人の生活者として歩く感覚が、妙に新鮮で心地よかった。
「おう勇士さま! 今日の一番焼きだ、もってけ! これ食わにゃ力も出ねえだろ!」
パン屋の主人が大きなパンを差し出す。
朝の陽がガラス越しに差し込み、湯気のような香ばしさがふわりと揺れた。
リリアは微笑み、軽く頭を下げてそれを受け取った。
その瞬間――瞳がパンに吸い寄せられるように輝く。
香ばしい匂いに、思わず口元がゆるむのを自分自身も隠しきれなかった。
頬の筋肉が勝手に緩む。英雄の仮面なんて、香り一つで簡単に崩れる。
(……おいおい、英雄の顔どこいった!? 完全に“美味しいもの見つけてテンション上がるただの人”だぞ!)
(しかも周りの視線! みんな「勇士さまはパン大好き」って勘違いするからな!? ……まあ、好きなんだけど!)
通りの人々はその仕草を微笑ましげに見て、次々と声をかけてくる。
「あの笑顔、久しぶりに見たな……」そんな囁きが耳に届く。街の空気が、少しだけ柔らかくなる。
バッグの口から顔をのぞかせたワンタも、“ぴょこぴょこ”と前足を揺らしていた。
その無邪気さがまた「かわいい」と笑いを誘い、場の空気を一層和ませる。
(……肩書きが“救世の勇者”から“パン推しのお姉さん”に変わる日も近いな。称号、軽すぎだろ!)
バッグの中でワンタが首をぐりんぐりんと回している。
今度は「俺にもパン食わせろ」と言わんばかりだ。
(……こいつまで一緒に喜んでやがる。世界を救うより、パンを分け合う方が幸せって顔してやがるな。)
(どう見ても、今の俺は“勇者”じゃなく“パンとモフモフの相棒”だな……!)
リリアの口元がさらにゆるみ、周囲の人々までつられて笑みを浮かべる。
それは、勇者としてではなく――街に溶け込む、ひとりの少女だった。
パンの香りが風に溶け、鐘の音が遠くで響く。
(でも……こうして笑えてるなら、それでいいのかもしれない)
(……もう少しだけ、この空気を吸っていたいな)
その時ふと、店先のガラス窓に自分の姿が映った。
外套を羽織り、パンを胸に抱えて笑う少女の顔。
時間が止まったように、ガラスの奥で“彼女”が微笑んでいた。
そこにいたのは――颯太じゃない。“リリア”だった。
一瞬、呼吸が止まった。
胸の鼓動が、ほんの一拍だけ遅れる。
頬がほころんだ横顔に、かつてのあの子の面影が重なる。
祭りの夜、綿飴に目を輝かせていたリリア。
お菓子作りの時、粉だらけで笑っていた、あの無邪気な女の子。
颯太の胸に、懐かしさと寂しさがないまぜの痛みが広がった。
今ここで笑っているのは、“リリアの姿を借りた自分”だ。
けれど――その笑顔はあまりにも“リリア”そのもので、懐かしくて、嬉しくて、どうしようもなく寂しかった。
バッグの中でワンタが身じろぎし、こちらを見上げていた。
小さな瞳が、何かを感じ取ったように揺れた。
まるで、胸の奥のざわめきを映す鏡みたいに。
そして、しばらくじっと見つめたあと、ワンタは静かに前足を伸ばし、そっとリリアの指先に触れた。
まるで「大丈夫だよ」とでも言うように。
(……こいつ、わかってやがる。まったく……ただのモフモフのくせに、妙に優しいんだよな。)
(つか、絶対なんかおかしくねーか? このぬいぐるみ。)
街の空気は確かに戻っていた。
その真ん中にいるのは、剣を掲げる勇者ではなく、焼きたての香りを胸に抱いた少女だった。
風がパンの香りをさらい、朝の光がその笑顔を包み込む。
遠くで鐘の音が響き、街のざわめきが優しく溶けていった。
空は澄み渡り、陽の粒が舞っていた。
――まるで、その笑顔を祝福するかのように




