『第四話・1 : 灰鎧の将、誇りの灯火』
風が戻り、夜の空気が肺の奥まで沁み込んだ。
戦場を覆っていた熱と殺気が一瞬で抜け、残ったのは水気を含んだ黒土と、鉄を思わせる血の匂い。
靄がゆっくりと薄れ、月明かりが静かに地面を照らす。
砕けた灰鎧の破片が、冷えきった金属音を立てながら散らばっていた。
そのひとつひとつが、今しがたまで生きていた意志の欠片のように見える。
刃を弾いた跡の残る肩甲、かつて剣を振るった腕の装甲、膝を支えた脛当――。
どれも、戦士として立ち続けた証であり、同時に呪いに囚われた牢獄の残骸だった。
破片の間に、まだ微かに熱を残す煙が漂い、湿り気のある土へ落ちたそれが、じゅ、と短く息を吐くような音を立てた。
耳に刺さったその音は、なぜか自分の呼吸みたいに思えて胸が揺れる。
遠くで枝が折れて落ちる音。
それがやけに大きく響き、リリアはようやく呼吸を意識する。
荒く、熱く、しかしどこか空虚な息が吐き出された。
肺に入る空気は冷たいはずなのに、喉を通るたび、わずかに澱んだ温もりへと変わっていく。
(……終わった……)
剣先を下ろす。
握り締めていた手のひらは痺れ、革巻きの感触さえ曖昧だ。
足の裏に伝わるぬかるんだ地面が、ようやく現実へと引き戻してくれる。
だが胸の奥には、戦いの余熱とは違う、深く沈殿する影のような重みが残っていた。
――その時。
風が一瞬だけ逆巻き、白灰の粒子が胸元へ吸い込まれてきた。
耳ではなく、胸の奥に、かすかな灰色の波が広がっていく。
それは風でも音でもない。
色も形もないはずなのに、確かに“触れる”感覚を持って迫ってきた。
『……ありがとう……』
『街の皆を……セラフィを……頼む……』
温かいのに、なぜか深く切ない。
柔らかく包まれる感覚と同時に、冷たい潮が足元から引くような寂しさが押し寄せた。
肩に置かれた手の重み、背を押すような温もり――それは確かに“師”のものだった。
その灰色の気配は、まるで安堵の吐息を残してゆっくりと遠ざかっていく。
最後に、誰かが肩へそっと手を置いたような感触がして――それもすぐに消えた。
もう二度と、こちらへ戻ることはないだろう。
(……セラフィー、ごめん。約束、守れなかった)
唇は動かさず、心の中だけで呟く。
守ると誓ったセラフィの師を、自分の手で斬った。
それは裏切りではなく、彼女の願いを叶えるための選択だったとわかっている。
けれど、その正しさは罪の重さを少しも軽くしてはくれなかった。
ふと、瞼の裏にセラフィーの姿が浮かぶ。
まだ幼い頃の面影を残した笑顔。剣を構え、必死に真似をしていたあの不器用な立ち姿。
その後ろに、誇らしげに彼女を見守る師の姿が重なり、胸奥を締めつけた。
――その幻の中で、かすかに声がした。
「……リリア、ありがとう……師匠を……見届けてくれて……」
胸奥に残る小さな光を思い出し、リリアは瞳を閉じてその余韻を胸に刻み込んだ。
二度と忘れぬように――ガルヴェインが最後に託した想いと共に。
彼は剣士として誇り高く、戦場で幾度も命を懸け、最後には人々を救うため、自ら呪いを受け入れ、鎧の牢獄に閉じ込められる道を選んだ。
その不器用で真っ直ぐな背中は、敗北者のものじゃない。最後まで“護る”ために立ち続けた英雄の姿だった。
(――だからこそ、俺が終わらせた。
セラフィー。お前の師の誇りは、俺が繋ぐ)
夜風が、焼けた鉄と血の匂いをさらっていく。
その風は、戦場の残響を運びながらも、どこか澄み切った冷たさを帯びていた。
リリアの頬を撫でるその流れの中に、微かな温もりがまだ残っている。
それが失われた者たちの想いなのか、自分の胸に芽生えた決意なのか――答えは出ない。
ただ確かなのは。
その小さな炎が、胸の底で静かに揺れ続けている。
消えることなく――セラフィーと師の誇りを、未来へ繋ぐ灯火となって。




