『第三話・4: 灰鎧の祈り ―緋閃零葬―』
霧がわずかに脈動した。
祈りの残響が、まだ消えきらずに空気の底を震わせている。
だが、その震えは――どこか違う。
あの優しい光ではなく、もっと硬質で、冷たい鼓動。
闇の残滓が、再び世界へと滲み始めていた。
まるで祈りの余熱が、今度は“呪い”として呼吸を始めたかのように。
(……まさか、まだ――!)
光が一度、深く沈み、そして――
闇の底から、低く濁った声が這い上がった。
「汝を討ち、幕を閉じよう。」
それは声というより、“形だけ残った反響”だった。
冷たく、空虚で、人の温度を完全に失っている。
鎧の奥で、何かが軋む。
その音は、魂の悲鳴ではなく、闇が肉を模して嘲るような音だった。
(……もう、いない。
この中に“ガルヴェイン”はいない。
――残っているのは、彼の形を喰らった闇だけだ)
鎧の継ぎ目から黒い靄が滲み出し、それは煙ではなく“意思”として空間を這った。
世界を蝕む影が形を持ち、瞳の奥を覗き込んでくる。
(なら、斬る――人でも魔でもない。ただの災いを、この手で断つだけだ。)
鎧の内側で脈打っているのは、もはや魂の律動ではない。
歪んだ“核”が闇に塗り替えられ、かつての意志は深く沈んだまま、もう届かない。
(……ガルヴェイン。あなたの魂を――戦士としての誇りのままに、闇の鎖から光へ還してみせる。)
(灰鎧を砕き、闇ごと断ち切る。
かつて英雄と呼ばれた者が、穢れた影のままこの世に縛られぬよう――跡形も残さず、静かに解き放つ。)
(それが、戦う者にとって唯一許された“救い”だと、いまも信じているから。)
リリアの両の瞳が、灼けるように揺らめいた。
金色の光は、炎にも涙にも似て――祈りを燃やす覚悟の色だった。
その視線を受けた灰鎧の将が、ゆっくりと構えを変える。
鎧の隙間から漏れる黒い靄が、より濃く、より鋭く渦を巻き始める。
空気が重く沈み、二人の間で風さえも止まった。
互いの呼吸が相手の胸に届く距離。
次の一歩で、勝負が決まる。
「――終わらせる。ガルヴェイン……あなたを、倒す。」
その声は、祈りよりも静かで、刃よりも確かだった。
リリアは腰を沈め、刃の重みを掌の中心で確かめる。
胸の奥で紡いだ短い祈りが、指先を震わせ、刃へと流れ込んだ。
「――《緋閃零葬》ッ!」
紅蓮の魔力が剣身を走り、刀身は白金の閃光と化す。
空気が裂け、音が燃え尽きる。霧が逆巻き、閃光の軌跡だけが夜を切り裂いた。
同じ刻、灰鎧の将は黒い靄を纏い大剣を振るう。
「――《獄影断滅》!」と闇が低く喚き、地が呻く。
次の瞬間――二つの刃が交差した。
閃光と漆黒が激突し、爆ぜた衝撃波が空気を切り裂く。
肺を裏返すほどの圧が全身を叩きつけ、霧は一瞬で吹き飛んだ。
鉄錆と焦げた匂いが鼻を焼き、割れた大地が悲鳴を上げる。
土煙が夜空を呑み込み、世界が一瞬、白と黒の閃光だけに塗り潰された。
その中心で、二人の影がぶつかり合う。
互いの一撃を押し切ろうとするたび、剣同士が擦れ、鋼が悲鳴のように鳴いた。
その刹那――胸甲の奥で光が、鼓動とともにはっきりと脈打つ。
閃光は漆黒を裂き、漆黒は閃光を喰らおうとした。
だが、リリアの一閃が胸甲の裂け目を正確に捉えた途端、黒い靄が弾けるように剥がれ落ちた。
『……ここだ!』
『――これが、お前の役目だ。』
(……っ! わかってる……!)
――頭の奥に、ガルヴェインの声が微かに響いた。
その声に応えるように、リリアはさらに魔力を叩き込む。
刃が震え、空気が裂ける。
それでも、リリアは迷わなかった。
届いたのは、低く、ガルヴェインの苦しみに満ちた懇願。
『頼む……』
(――終わらせる!)
リリアは力を込めた。
全身の魔力が一点へ収束し、刃が閃光そのものへと変わる。
白金の輝きが刃先から爆ぜ、光が視界を塗り潰す。
拮抗を断ち切り、祈りのように貫いた。
渾身の一撃が、金属の胸甲を貫き、奥の霊核を断ち割る。
轟音が世界を裂き、霧が悲鳴を上げる。
閃光が奔り、闇が砕けた。
破砕音が轟き、内部から澄んだ光があふれ出す。
闇の渦は引き剥がされるように縮み、砕けた霊核の光が爆風のように四方へ弾け飛んだ。
灰鎧の将の巨躯が崩れ、膝から地に落ちる。
鎧の継ぎ目から滲んだ影が零れ落ち、やがて夜風に溶けていった。
その兜の奥――一瞬だけ、セラフィーに剣を教えた男の瞳が甦った。
荒れた戦場で不器用に笑った、あの優しい眼差し。
“ありがとう”と告げるように、安堵の色を宿し――
そして、それは霧と共に消えていった。
夜の底で、光だけが静かに息をしていた。
リリアは刃をゆっくり下ろす。掌に残る震えは、疲労ではなく祈りの余熱だった。
胸に満ちていたのは、戦いの昂りでも復讐の快楽でもない――
ただ、約束を果たしたという静かな確信と、言葉にならない悲しみ。
「終わったのか」と夜が囁く。
だが、その問いに答える必要は、もうなかった。
砕けた鎧の跡に、わずかな光の粒がそっと舞い戻る。
淡く、夜の底を照らすその光は――まるで、帰る場所を見つけた魂のようだった。
リリアは空を見上げ、短く祈るように唇を震わせた。
「戦士としての誇りを、安らかに還せ」と。
その言葉は風に溶け、小さく消えた。
けれど胸の奥に残った温度は確かで――
誰かの記憶が、そこに静かに居場所を取り戻した気がした。
(……ガルヴェイン。あんたの誇りは俺たちが繋ぐ。
だから今は――泣かせてくれ。戦士として)
リリアの頬を伝う涙が、冷たい夜風にさらされ、ひと筋の光となって揺れていた。




