『第三話・2: 祈りの刃(ソウルリベレイション)》』
リリアは、両手で柄を握り直した。
革巻きが手のひらに食い込み、骨の芯まで軋みが走る。
全身の筋肉が一本の弦となり、限界まで引き絞られた。
霧が音を吸い、張り詰めた空気が耳の奥でキィンと鳴る。
時間がわずかに滲み、現実の輪郭がひとつに収束していく。
呼吸が止まり、“構え”だけが世界を支配した。
視界の中心には、ガルヴェインの胸甲の亀裂から覗く淡い光があった。
それは、感情の揺らぎによってわずかに開いた霊核。
リリアの黄金の瞳は、その鼓動を確かに捕らえていた。
距離は、三歩半。
霊核は生き物のように波打ち、心臓と同じリズムで脈打っている。
靄が触手のように伸び、輝きを絡め取ろうと蠢いた。
(このままじゃ体力が尽きる。迷っている時間なんてない。)
右手に握る刃が、かすかに震えた。
鋼の奥で低く澄んだ共鳴が鳴る。
それは魔力の唸りではなく、リリアの鼓動と刃の脈動が重なり合った音――
生きた鋼が、心臓を持った瞬間だった。
灼熱が両手を包み、腕の内側を紅い光が走る。
霧の冷気が弾かれ、空気の温度がわずかに上がった。
色と音の輪郭が研ぎ澄まされ、全身を貫く力の流れが一本の矢になる。
殺意と慈悲が、ひとつの軌跡に溶け合った。
(狙うのはただ一点。霊核の中心。そこに届けば――魂は、自由になる。)
霧が渦を巻き、足首に絡みつく。
まるでこの地そのものが、この一撃を拒むかのよう。
だがリリアは、その抵抗すら力で断ち切った。
骨が軋み、筋肉が裂ける痛みが奔る。
血管が悲鳴を上げ、肺は熱と痛みで満たされる。
(――たとえ、この身が砕けても、一点を貫く。)
空気がひび割れ、音が凍った。
泥の飛沫が空中で止まり、霧の粒子が宙に浮く。
鼓動のひと打ちごとに、世界が一層、静寂へ沈んでいく。
リリアは息を吸い、足裏で大地を掴み、腰を沈めた。
刃が呼吸と一体になり、胸の奥で火と氷が同時に燃える。
視界のすべてが、“斬る”というただ一つの意志に変わる。
その線の向こうに、淡い光が瞬いた。
脈動はもはや心臓ではない。
それは、“記憶そのもの”の拍動。
(……今度こそ、終わらせる。セラフィーの祈りを、無駄にしない。)
《レーヴァテイン・ゼロ》の刃が鳴く。
その音は詠唱でも呪文でもなく、魂が言葉を持たずに放つ“願い”だった。
光が静かに膨らみ、霧の中で祈りの花を咲かせる。
リリアは前へ出た。音を、置き去りにして。
空気が裂け、地面が沈み、光の弾丸が四方へ散る。
その一瞬、彼女は“祈る刃”だった。
そして――世界は、ひと呼吸遅れてその祈りに応えた。
――静寂が、空を震わせた。
「――《ソウルリベレイション》ッ!!」
咆哮が閃光に変わり、剣が神話のような音を放つ。
風が逆流し、大気が悲鳴を上げ、霧が一瞬で真っ二つに裂けた。
一閃――音より速く、光だけがその軌跡を残した。
剣圧が地を抉り、霊核の脈動が一拍だけ止まる。
刃がぶつかる。鈍い抵抗が、骨の芯まで響いた。
霊核を割った確かな感触。世界の鼓動が、刃を通じて跳ね返る。
光が弾け、視界が白に飲み込まれる。天地の境目が消えた。
……だが、感触がない。
(……浅い……?)
刃が抜ける。手応えが、あまりにも軽い。
骨も、核も、確かな抵抗を残さない。
まるで空を斬ったような虚ろさが、掌の奥に残る。
その直後、切断面の奥で淡い光が蠢いた。
裂け目から滲む輝きが、糸のように絡まりながら再び結晶していく。
それは死ではなく――再生の鼓動。
握る剣が小さく震えた。
指先を伝う血の熱が、まだ“生”を掴んでいるのか、
それともただの残響なのか――判断がつかなかった。
空気が重くなる。
世界そのものが、まだ“終わり”を拒んでいるようだった。
リリアは、静かに息を吐いた。
胸の奥で、祈りと殺意がまだ静かに燃えている。
霧は再び、ゆっくりと流れを取り戻し始めた。
まるで戦いそのものが、“夢の残響”だったかのように――
霧の奥では、祈りの光がいまだ燃えていた。
リリアの瞳と《レーヴァテイン・ゼロ》が、黄金の静寂の中で――世界を見つめていた。
霧が、ひとひらだけ揺れた。
その震えは風ではない。世界が、ほんのわずかに“記録”を取り戻した証だった。
割れたはずの霊核の奥で、微かな光が呼吸をはじめる。
それは炎でも魔力でもなく――“存在”そのものが再び名を思い出すような、祈りの残響。
沈黙の中、リリアの頬をわずかに撫でた風があった。
冷たくもなく、温かくもない。けれど確かに、世界律が息を吹き返す音。
(……まだ、終わっていない。)
その瞬間、
リリアの瞳の奥で――黄金の火が、ふたたび灯った。




