『第三話・1: 祈りの試練 ―灰鎧の鼓動―』
霧がゆらりと揺れ、空気の底で“音”が生まれた。
次の瞬間、その“祈り”を試すように爆ぜる。
静寂の膜が破れ、空気が悲鳴を上げた。
リリアは反射的に刃を構え──再び、衝突が始まった。
乳白の世界が裂け、鉄と鉄がぶつかる甲高い音が空気を切り裂き、鼓膜を容赦なく叩く。
同時に、全身を跳ね上がらせるほどの衝撃が剣を通じて骨の芯まで響いた。
腕の骨が軋み、肩が外れそうな痛みが波のように押し寄せ、指先は氷水に突っ込んだまま凍りついたように感覚を失っていく。
(……っ、重い!)
感じるのは、重さの“質”だ。
一撃ごとに刃先へ伝わるのは単なる質量ではない。
相手の“存在”そのもの──意思も、記憶も、怨嗟も、全部が叩き込まれてくる。
押し返すたび、まるで地層がずれ、床が隆起して背骨を潰すような生鳴りの圧が身体を貫く。
指先が痺れ、血が逆流するような熱が胸を焦がした。
――本気を出せば、この鎧を……いや、この“魂ごと”粉微塵にできる。
それは自分でもわかっていた。
けれど、その瞬間、セラフィーの師はただの壊れた鉄塊に還るだろう。
だから、魔法も封じ、斬ることもできない。
ただ耐え、機を待つ──それしか残されていない。
それは、地獄だった。
一太刀で終わらせられる距離にいながら、どうしても選べない。
刃を振り下ろす代わりに、体力と集中がじわじわと削られていく。
肺は焼けるように熱く、呼吸が刃で裂かれるたびに血の味が喉に滲んだ。
額の汗が目に入り、視界を曇らせる。
心臓が**「早く終わらせろ」**と背後から囁き続けた。
(……何も考えず、一撃で終わらせた方がどれほど楽だったか。)
だが、その選択をした瞬間、祈りが嘘になる。
それだけは、絶対に許せなかった。
灰鎧の将、ガルヴェインは一言も発さない。
打ち下ろし、薙ぎ払い、突き、また打つ――寸分の迷いもない純粋な殺意の形。
だがその奥には、斬るためではなく“試すため”の冷たい意志が潜んでいた。
測るように放たれる連撃は、それだけで命を奪う重みを孕んでいる。
空間が揺らぎ、距離の感覚が歪む。
一歩退いたはずが、背後の壁が不意に迫る錯覚。
振り上げられた大剣は軌道の途中で霞に溶け、次の刃は別の角度から出現する。
それが幻か、本当に世界が裂けているのか――確かめる猶予など、リリアには残されていない。
(避けない……とにかく受けて、チャンスを見極める……!)
柄を握り直し、迫る刃を受け流す。
火花が散り、世界が一瞬だけ息を吸う。
それでもリリアの刃は、祈りの延長線にあった。
斬るためではなく、届かせるための一閃。
その光は、戦いの中でさえ“祈りの形”をしていた。
その刹那、閃光が周囲の輪郭を照らし出す。
奥に見えたのは──鎧の隙間に淡く灯る霊核の鼓動。
(……やっぱり、感情が揺らがないと出てこないってことか。)
口元がわずかに歪む。
(なら――揺らしてみせる。心を。)
「その剣……昔のあなたは、もっと速かったんじゃないの?」
リリアの声が、霧の膜を震わせた。
挑発ではなく、記憶を呼び起こすための一言。
空気がわずかに揺らぎ、灰鎧の将の動きが止まる。
霧が息を潜め、大剣の刃先から雫のような魔力の粒がぽとりと落ちた。
その声は、剣戟よりも深く突き刺さった。
霧の奥で、微かな感情の残滓が震える。
ほんの一瞬、鎧の奥の光が脈を打った。
それは、忘れかけた“心臓の鼓動”が、世界に戻る音だった。
灰鎧の将――ガルヴェインの動きが、わずかに止まる。
霧の奥で、沈黙という名の呼吸が揺れ、
深い井戸の底のような視線が、さらに沈む。
空気が沈殿し、世界の心臓が、ひとつだけ鳴った。
(――来る。)
黒い靄が濃くなり、霧の色が鈍く鉛のような毒気を孕んでいく。
呼吸のたび、金属を腐食させる刺激臭が肺を焼き、皮膚の感覚を奪っていく。
鉄錆の匂いが鼻腔を刺し、喉の奥で血の味がじわりと滲む。
それでも、霧の奥では――微かな光が、まだ息づいていた。
踏み込みは刹那。
大剣が地を割り、衝撃が足首まで突き上がる。
押し返そうとした瞬間、その反動を殺して薙ぎ払いが襲う。
(くっ……! 重さが増してる!)
(いや、これ“増えてる”どころじゃない……人間の腕で受ける領域じゃねぇ!)
金属音が霧を震わせ、振動が鼓膜だけでなく内臓を打つ。
息が荒く、視界が揺らぎ、輪郭がざらつく。
――だが、その刹那。
胸甲の奥が心臓と同じリズムで淡く明滅し、霧全体が脈打つように震えた。
(……出た!)
霊核の露出はほんの一瞬。狙える距離じゃないが、確かに“揺らいだ”。
「……あなた、本当にセラフィーの師匠?
そんな迷子みたいな目で……“護る”なんて、できるの?」
鎧がかすかに震え、古傷を抉られたような音が響く。
光はすぐに消えたが――効いている。確かに届いた。
(……あと一押し。)
その瞬間、霧がざわめきを止めた。
音も風も消え、世界そのものが息を飲む。
張りつめた静寂の中、鼓動だけが孤独に響いた。
ガルヴェインが大剣を横に構え、足をひねる。
霧の中に、薙ぎ払いの予兆が走る。
リリアは歯を食いしばり、立ち上がりざまに――
刃よりも鋭い言葉を叩きつけた。
「……あなたは今の自分を、本当に誇れるの!
セラフィーはまだ、あなたを“誇ってる”んだよ!」
刃の軌道が乱れ、寸前で逸れる。
同時に、胸甲が先ほどよりも長く、強く光を放った。
その光は霧全体を震わせ、幻影を一瞬で霧散させるほどの輝きとなる。
――それは、まだ“師”としての誇りが鎧の奥に燃えている証だった。
霧の奥で、誰かの名を呼ぶような光が、かすかに揺れていた。




