第二章 『不審者と来訪者』二
まさか今まさにホットな話題。学校周辺を徘徊する謎の全裸男と相対することになろうとは那由多は思いもしなかった。
全裸の男は本当に全裸の男だった。それ以上でも、それ以下でも、それ以外でもなかった。ただただ全裸。シャツも下着も何もない。人間が生まれたままの姿。
妙に筋肉質。そして妙に顔が良い。そんな身体的特徴すらどうでも良くなる。テレビならばモザイクは必須ものだ。
タチが悪いのは男には羞恥心というものが致命的に欠如しているということだろう。相手が男性ならもちろん、女性であろうとその恥部を隠す真似はしない。ぶらんぶらんだ。そのぶらんぶらんを直視、またあるいは直撃を那由多は喰らった。記憶力のない彼女はきっとこの光景を忘れることなどできないだろう。
「私は怪しい者ではありません!」
と供述しており、容疑を認めておりません。
「そう言うなら少しは隠したらどうだ?」
「なぜですか?」
「えぇ……そんな純粋な顔で言われても」
男はこの瞬間でさえも仁王立ちの姿勢を崩すことはない。つまりは会話しているアーサーを正面にぶら下げたままだ。
「ほら、異性もいるし」
「しかしそちらのお嬢様は気にしていらっしゃらないようだが」
男の視線がルーデリカへ向く。確かに彼女も同じように羞恥心が欠如しているので男のイチモツを見ようと、自身の全裸を見られようと眉一つ動かさない。だがそんな稀有な存在は例外として扱う。
「こいつは変な奴だから良いんだ」
「なんだとー」
棒読み。ルーデリカは変な奴であることが自覚ありまくりだった。どこか那由多にとってはその姿勢は羨ましい。
「怪しまれたくないなら服を着ろ」
「ではあなたが怪しくないかと言えばそんなことはないですよね?」
図星だった。この世界の常識から見えれば鎧姿のアーサーも十分怪しかった。
「アーサーは元から怪しいから良いんだよ」
「なんだとー」
「ま、そんな不審者二人であんまり騒いでいると人呼ばれちゃうかもだから、とりあえず拠点戻ろっか」
ルーデリカの案内で三人+不審者はとりあえず学校内へ入った。
那由多は校舎内のあらゆる場所からすぐに着れそうな衣服を探した。体育館にある更衣室にはお誂え向きに演劇部の衣装があった。
「これは……和装?」
時代劇でもやるのか小物である刀もセットになった衣装。カツラもあったがそれは必要ないだろう。結局、下着がないことに那由多が気づくのは次の日だった。
図書室に辿り着く。その瞬間に目を閉じた。図書室の間取りは把握しているので目を瞑っていても歩ける。あまりに器用だった。
「おお、これはありがたい」
「早く着替えてください」
顔を伏せたまま、那由多は服を素早く手渡す。男の気配を背中に感じると那由多は水面から顔を出す時のように瞳を開ける。ふぅと息を吐くと本当に水中から出てきたようだった。
「なんであの人を匿ったんですか?」
それが那由多の最大の疑問点だった。なぜ彼ら、彼女らは全裸の変態を同じ拠点へ招いたのか。それこそがずっと気になっていた。
「妙なんだって。ねえ? アーちゃん」
「誰がアーちゃんだ」
妙とは——那由多は二人のやりとりを完全にスルーして尋ねる。
「間だ」
その時、誰も意味を理解できなかったのか、文字通り妙な間が生まれた。
「ここは田舎町。町の人は顔見知りばかりだ。だが那由多、お前はこの数日で何人の余所者と会った?」
そこまで言われてようやく那由多はアーサーの言いたいことを理解できた。つまり「間」このタイミングで現れた彼も、アーサーとルーデリカと同様に異世界からの来訪者だということが言いたいのだ。
「つまりあの人もフロリアの?」
「可能性は高いな」
「それで何か分かりました?」
「んにゃ。全然何も」
「えー」
那由多は気の抜けた声を出した。しかしそれは那由多だけでなく、二人も先ほど出したばかりだった。
あの男に対してした質問はただ一つ。
「お前は何者だ?」
そして帰ってきた言葉も一つ。
「申し訳ない。私は何も覚えてないのだ」
「えー」
こんな具合に。
「なーにも覚えてないんだって」
「自分が何者なのかさえも、な」
「記憶……喪失」
記憶喪失。正確には記憶障害。フィクションでは良くあるが現実では早々見ない事例だ。少なくとも那由多は見たことがなかった。
本当にあるんだ——というのが那由多の正直な感想だった。
「目覚めた時には全裸で海に流されてたらしい」
「目覚めたら……海」
その刹那——那由多の視界は歪んだ。
ノイズに混じって何かが見える。海辺で横たわる男。流されてきた。こことは違う海の向こうから。海の遥か向こうにあるとされた世界から。
「那由多、どうかしたか?」
声に引っ張られるように視界が図書室を映した。那由多は一瞬、何か別のものを見ているようにアーサーには見えた。そのままどこかへ連れて行かれてしまいそうだったので咄嗟に声を出したのだった。
「なんでもないです」
今朝見た夢の男なのだろうか。この男は。那由多の視線が背後へ向こうとして、やめた。
「ただ浦島太郎みたいだなって」
誤魔化すように那由多は言う。実際にはそこまで類似性はない。ただ最初に彼を見た時の光景がどこか、あの夢と物語に出る浦島太郎に見えたというだけだった。
「ウラシマ?」
「ああ、那由多が読んでいた本か。そうだよ。その話を聞きたかったんだ」
那由多はアーサーの要望に応えて、浦島太郎を音読した。実際に持っていた本を読み返すと那由多自身も思うことは幾つかある。
浦島太郎。その物語を那由多は語る。この世界、この島国ではありふれた物語。しかし彼らからすれば不可思議で不可解な話だったろう。
「随分と後味の悪い話だな」
「うーん。確かにねぇ。その乙姫様とくっついてチュッチュしたら良かったのに」
「あはは、私もそう思います」
単純に幸せに暮らしました——とか。そういう流れにならない。浦島太郎は結果的に不幸になる。そう、最後の最期に。
(最期?)
那由多はその瞬間に思った。『浦島太郎はまだ終わってないのではないか』という仮説。大徳寺からの課題ではないがそんな可能性が脳裏を過ったのだ。そんなことを考えていると背後に気配を感じる。
「確かに私はその物語の青年と似ているようだ」
那由多が振り返るとちょうど着替えてきた男が言いながら現れた。顔はどこか日本人っぽく、和服がよく似合う。長く背中まで伸びる髪は後ろで纏めており、その立ち振る舞いは侍のようだ。
「何か思い出せそうか?」
「うーん。何か見覚えがあるような……ないような」
「なんだそれ」
那由多から絵本の浦島太郎を受け取った男はそれを何度も読み返すが、やはりピンとは来てない様子だった。
期待薄だったせいかこの場の全員が気が付かない程度に肩を落とす。
「さて、匿ったのは良いが記憶がないとは……これからどうするか」
困ったとでも良いたげにアーサーが盛大に溜息を吐く。そんな彼を元気づけるようにルーデリカは肩を叩く。
「まあ、こんな時にやることは一つしかない!」
「だな」
アーサーは雰囲気からかルーデリカの言いたいことを即座に理解したようだった。もちろん那由多だけはそれを理解していない。
「ご飯にしよう!」
そうだった——昼食を買いにコンビニまで行ったのだった。ゴタゴタして忘れていたがこれでようやくルーデリカの本来の目的が達成されたというわけだ。四人は机を囲み、それぞれ席についた。
「私もよろしいのですか?」
「いいよー」
「まあこの量を消費しなきゃだしな」
不審者だろうと飯を一緒に食べるその気概は那由多には一生手に入りそうにない。しかし自然と服を着た男には邪気のようなものを感じなかった。普通に喋れるし、先ほどの羞恥心がないわけではないが、那由多はその男の隣でも何も思わなかった。
「ちょうどいい。自己紹介もろもろ済ませておくか」
「してなかったんですね……」
この場において互いが互いの名前も知らずに会話していたと思うと奇妙な現象だ。それは記憶喪失という異常事態の所為で色々なものが狂ったせい、そんなことすら忘れていたのだ。
「俺はアーサー・バルトメロイ」
「あたしはルーデリカ・バルトメロイ」
「私は片桐那由多です」
順に自己紹介をしていくと最後の一人で詰まる。
「私は……誰なのでしょう?」
「そうだな。不便だから……ウラシマとでもしておくか。もちろん、名前を思い出すまでの間だが。他に案のある者は?」
アーサーの案に意義を唱えるものはいなかった。ルーデリカに関してはご飯を食べながら「意義なーし」と言っていた。その速度はもの凄い。
「ウラシマ。うん、なぜか気に入りました!」
本人の承諾もあり、謎の男はこの時点でウラシマとなった。こうして見れば本当に彼は浦島太郎なのではと思うほどにしっくりきた。
「じゃあ、食べるとしよう。早くしないとコイツに全部食われる」
いただきます——と言ったのはこの場で那由多だけだった。そうした文化があるのは彼女だけだ。それを見てここにいる人ら自分と違う人々なのだと実感する。しかし食事が始まってしまえばそんなこともすぐに忘れる。
「アーサー、これめっちゃ美味しい!」
「食べながら喋るな」
ルーデリカはコンビニで大量購入した惣菜パンを食べていた。と思っていると次にはおにぎりを食べている。と思っていると次の瞬間には揚げ物を食べていた。
「よっぽどお腹減っていたんですね」
人と一緒に食べる昼食なんて那由多にとって数年ぶりだった。学校では常に一人で食べていた。彼女を誰かが誘うことも、その逆もない。それを寂しいとも思わなかったが、いざこうして誰かと食卓を囲うのは悪くなかった。
「そうでもないよ〜」
「いつもこんな感じだな」
言いながらアーサーはルーデリカが出したゴミを綺麗に片付けている。彼自身はほとんど食事をしてなかった。いや何も食べてないように見える。
「アーサーさんは食べないんですか?」
「アーサーの分だけ私が食べてるんだよ!」
本当にアーサー分まで食べる勢いでルーデリカは食べ進める。しかしアーサーは寛容なのか気にした様子はない。
その光景を対面にいる那由多はジッと見ていた。
ふとした疑問。そしてずっと頭の片隅にあった疑問。二人って実際のところ、どんな関係なのか。しかし那由多はそこまで踏み込んだことを聞けない。好奇心だけでそこを聞いて良いものか、人付き合いの経験が浅い那由多には到底不可能な芸当だ。
「アーサー様とルーデリカ様は兄妹……いや夫婦なのですか? 下の名前も同じですし」
ウラシマがごく自然に尋ね、質問に二人が固まる。無知ゆえ、無遠慮な質問を可能としたのだ。那由多は反射的に質問者を見ていた。彼女の表情は明らかに驚愕していた。しかし同時に賞賛もしている。
「違うよ」
「違うな」
完全に同じタイミングで言った。その発言自体で仲良いのは分かる。しかしアーサーとルーデリカは実際に恋人関係ではない。
「名前に関しては組織名みたいなもんだ」
フロリアには名前の数の多さは位の高さを示している。王族ならば三つや四つになり、逆に田舎育ちの人間は必要もないので、一つしかなかったりする。
アーサーらの場合は冒険者クラン「バルトメロイ」というのが一つの名前となる。それらが彼らの位を示している。
冒険者の中でもクラン名を名として登録しているのはバルトメロイくらいだ。それだけで彼らが英雄であると理解されるのだから、その知名度の高さを物語っている。
「家族って感覚の方が強いな」
「あたしは愛しているぜ相棒」
ルーデリカの告白をアーサーは軽く流す。「あー俺も俺も」と聞く気がないのか、冗談だと思っているのか棒読みで返している。それでも本人は満足そうだが。
「そんなことよりウラシマのためにも現状を整理していくぞ。なんか思い出せるかもしれないし」
「そんなこと!?」
ルーデリカを無視してアーサーは話を始める。横でポコポコ殴りつけてくるの彼女も無視している。
フリロアで起こった出来事。レアーナ遺跡での話。こちらの世界へ来た話。全て順を追って話ていく。ウラシマはその話を聞いても特に反応を示すことはない。驚嘆もなく淡々と受け入れる。
受け入れられるということは彼にとって身近にあったということか。それが本当か分からないが、那由多が聞いた時以上に冷静なのは確かだった。
「レアーナ」
唯一——あらゆる言葉の中で唯一ウラシマが引っかかった言葉はそれだった。しかしそれだけだ。どこかで聞いたような気がする、というレベルの話だったがウラシマは明らかに「レアーナ」という言葉にだけ反応を示す。
「なるほど。状況は理解しました。そういうことならば、私も力をお貸しましょう。それが記憶を取り戻す鍵になるかもしれません」
「なら遠慮なく力を貸してもらうぜ。ウラシマ」
「おー邪竜戦線の仲間増員だ!」
ウラシマの宣言により、仲間は四人へ増えた。
「まーでも、手詰まりなのは変わらないんだけどな」
その事実だけは変わらない。アーサーの言う通り、現状に記憶喪失の男一人が加わったところで、なんの進展もありはしない。増えたのは仲間だけ。だが仲間が増えることは不思議な高揚感がある。那由多もまたそれを内心で感じていた。
「ところで気になったのですが、この浦島太郎に出てくる竜宮城とは本当に海の底にあるのですか?」
純朴な質問。それをしたのはウラシマだった。そしてそれにアーサーとルーデリカも興味を抱く。こちらの世界、科学文明を知っている那由多だけはそんな疑問には至らなかった。
「ないかと」
那由多は正直に答えた。どこか子供にサンタはいないと真実を告げたかのような罪悪感があった。しかし事実だ。
水の中に入るというのは人にとって馴染み深い。人間は基本的に水辺近くに居を構える。しかしながら水中はあらゆる物質にとって恐ろしく負荷が掛かる。故に人の住まいは天高く伸びることがあっても水中へ移されることはない。
「こちらの世界でも無理か。宇宙すてーしょんとやらを聞いた時にもしくはと思ったが」
「だったら浦島太郎はどこへ行ったの?」
その疑問は当然だった。聞いたルーデリカだけでなく、那由多もまたそれは疑問だった。そもそもファンタジーの領域だ。呼吸もできなければ、人が住む環境でもない。
「海の中、海の底というのは比喩なのでは? 普通に島とか?」
那由多の解釈的には海の底。他にも幾らでも解釈のしようはあるだろう。
「冥界とか?」
ルーデリカの言ったことも一つの解釈としてあり得るだろう。しかし、もう一つの可能性を提示したのはアーサーだった。
「あるいは——異世界」
海の底、あるいは向こう側は異なる世界への比喩なのだろう。
仮説ではあるが異世界人の存在が目の前にいる以上は、冥界や地獄などよりもあり得る可能性だろう。
「異世界に青年って……」
ルーデリカはむしゃむしゃ食べながら思い出したように言う。それを聞いた時にアーサーだけは理解を示す。「何か心当たりでもあるんですか?」と那由多が尋ねる。
「お伽話があるんだ。レアーナに伝わる昔話」
那由多は知らない。しかしフロリア出身である者ならば誰でも聞いたことがある。こちらの世界で言うところの浦島太郎に近い。
アーサーは語る。子供の時からずっと聞かされてきた大人になっても伝わり続ける話を。
大きな大きな王国は偉大な王と心優しい民が幸せに暮らしていました。
ある時、王国へ竜の軍団が攻めて来ました。追い詰められた王国の民は祈りを捧げると異界の門が開き、そこへ王女が一人、助けを求めに行きました。
王女は門の向こうから見目麗しい青年と共に帰還します。青年はその力で竜の軍団を追い払うと王国を救いました。
王国は青年を歓迎し、感謝の宴を開きました。しかしその夜、再び竜が王国を襲いました。実はその青年こそが竜の軍団の首領だったのです。
今度こそ王国は竜によって滅ぼされてしまいました。それからこの国には竜が今も蔓延っているのです。そして青年の姿をした竜は異界の門を開き、その姿を消しました。
これがレアーナのお伽話である。フロリアでは全土に至るまで広がるほどの知名度を誇る。しかしながら人気が高い訳ではない。それはそうだ。この後味の悪さ、幸せとは程遠いラスト。明らかなバッドエンドを賞賛する声は少ない。
それでもレアーナの物語の知名度が高いのはレアーナの地が実際に存在し、そこが竜の巣窟となっている事実があったから。考古学者は特に興味を抱く対象なのだ。
それこそがアーサーも選出されたレアーナの大調査団というわけだ。レアーナの物語の信憑性、その真実を追求する者たち。そしてそれが一つの異界の物語との共通点を見つけた。
「この異界から来た青年だ。妙に浦島太郎と付合する」
「確かにそう見えなくもないね」
レアーナのお伽話と浦島太郎。どちらも異界へ人が向かう話だ。少し乱暴な組み合わせではあるが見えなくもない。
「レアーナで犯した罪で浦島太郎が最後、誰も知るものがいない世界で絶望して、老人にされた——と解釈できないでもないですね」
那由多が話を整理する。しかしこう解釈すると違和感はある。
そもそもレアーナの王女はなぜ一般人である浦島太郎を選んだのか。浦島太郎はなぜ竜の軍団の首領だったのか。助けた亀や海の底の竜宮城というのは語り部の解釈や見方、都合が幾らか混じっているだろうが、この違和感だけは拭えない。
そもそも浦島太郎も、レアーナのお伽話も当事者が描いたものではないだろう。幾つかの憶測や解釈が混じっているはずだ。
「問題は浦島太郎が事実を元に作った話なのかって部分だな。これが完全な空想なら仮説は瓦解する。レアーナの謎も闇に消える」
「話がやたらファンタジーですからね。この話だけ」
鬼や動物との会話。日本昔ばなしにそんな感じのは多いが、浦島太郎は明らかに異界へ旅立っている。
桃太郎もそう見えるがあれは明らかに船を使って鬼ヶ島を目指したにも関わらず竜宮城だけは海の底と明記されている。海の向こうではなく、中なのだ。それはもはや幻の大陸を語ったアトランティスよりも希少な文献である。しかし希少ゆえにその話はファンタジーとして片付けられる。要は妄想や空想の類。
今、那由多の目の前にファンタジーはある。ならば浦島太郎も可能性はゼロとは言えないだろう。
「ウラシマ、どうした?」
話の中でウラシマだけ黙った。ずっと自身の内側に集中している。記憶を取り戻す足掛かりを得ようとしているようにアーサーの目には映る。実際、彼は考えていた。記憶の中にあるバラバラになったピースをかき集めているのだ。
「その話、どこか聞いたことがある気が」
「本当か?」
はいと答えるもウラシマはそれ以降何も出てこない。詰まった。
浦島太郎はピンと来ないがお伽話は聞いたことがある。つまりウラシマは少なくともフロリアの人間である可能性が高まった。
「申し訳ない。それ以上のことは何も」
「いや、とっかかりが掴めただけでも良しとするさ」
以降も皆はウラシマの記憶を取り戻すために様々な話をするも全て不発に終わる。レアーナの状況やフロリアの話も「聞いたことがあるようなないような」なんて玉虫色の返答だ。要はピンと来てないのだが。しかしウラシマはフロリアに関する知識の一部は持っていた。
例えるならば魔法。彼は魔法の存在は理解していた。彼自身、その詳しい使い方を覚えていないが、その存在だけは記憶にあるらしい。
「こんな感じだったような」
という感覚で彼は掌から炎を出した。自然発火——小さな種火が巨大な炎になるような過程を伴って灯された炎は確かに物理法則を無視して燃焼している。
那由多にとってそれは初めて見る魔法だったが、あまりにも自然と行う所為で感動するタイミングを完全に見損なった。
彼らにとってライターを使って火を出すのと同じくらいの感覚だ。いや流石にこの感覚で出せる人間は早々いない。ルーデリカならできるがアーサーは魔力を使う才能が全くないのでできない。
ウラシマは魔法を扱える。その勘はほとんど衰えているようだが。彼はやはりこちらの世界出身ではない。これが明らかだ。
質問の類を変える。
ルーデリカは特に関係ない家族や恋人の質問をした。ウラシマには好意を寄せる人が居たと思うと答えた。しかし名前も、それが男なのか女なのかも思い出せない。一方的に想いを寄せていただけ。それだけは確かに覚えている。
「いいじゃん、記憶を無くしても未だ消えない想い。愛だね」
とルーデリカはそれに関して評した。
那由多はウラシマの立ち振る舞いを見て良いところの生まれなのでは? と尋ねた。彼の背筋はピンと真っ直ぐだし、座るのにも「失礼します」と言う。少なくともちゃんと教育を受けたことは見てとれた。
「確かに厳しく育てられた……ような」
ウラシマ本人はそう言う。
フロリアには様々な国家があるが、人が統率する国家は四つほどしかない。その中でウラシマのような種族は見たことがない。そもそも彼の容姿は完全にこちらの世界の人種のものだ。さらに特定すれば日本人。
見た目はこちらの世界の人間なのに、知識はフロリアに寄っている。そんな歪な存在が現状ウラシマを構成する要素だ。
「そういえばお前、なんでここら辺をウロウロしてたんだ?」
確かにそうだ。彼は記憶がないならまだしも、警察などから追われながら、なぜこの町から出ずに学校へ二度も現れたのか。那由多や他の者の疑問には彼はすぐに答える。
「私の記憶を取り戻せそうな人間を探してたのですよ」
「記憶って……そんなやつこの世界にいるのか?」
「あれ? 気がついてないのですか?」
「何がだ?」
ウラシマの視線は横にいる那由多へ向かった。なぜ自分を見たのか、その時の那由多にはまだ理解できなかった。
「この世界へ来た時、私は記憶を失っていることを自覚し、絶望しました。しかし希望はありました。私を見たものがいたのです。そして魔力の残滓を辿って来た。だから私はこの学校へ侵入せざるを得なかった」
そこまで言われて那由多はようやく彼が何を言っているのか読めた。心臓が強く鼓動を打つと「それ以上は言わないで」と、そう心が叫んだ。しかしその言葉が口から溢れるよりも前にウラシマは言の葉にする。
「この世界に私が来た時、それを観測したのはあなたですね? 那由多様」
確信的な発言だった。那由多の中で時間が停止した。
誰にでも話した与太話。だがアーサーとルーデリカにだけは話さなかった事実。那由多は夢を見る。それは異なる世界を視る力。
『あなた……おかしいわよ』
言葉が蘇る。那由多の中にある深いところに響く、忘れることのできない言葉。この世界に存在する誰もがそう言った。
目の前の二人に否定されたらと不安になる。だって二人はこの世界の人間じゃないから。そんな人たちに——唯一理解し合えるかもしれない人に否定されたら那由多は本当に壊れてしまう。決定的になってしまう。
那由多は恐る恐る正面に座る二人へ視線を移した。だが那由多は知る。彼女が感じていた危機感など本当にくだらない杞憂に過ぎないということを。
「あー理解した。どうりでフロリアの話を簡単に呑み込むはずだ。事前に見てたからか」
「千里眼かー珍しいね。こっちの世界でもあるんだねぇ」
「まったくだ。魔法がないから盲点だったな。技術としての魔法がなくとも、異能なら人に宿る。魔力が世界に溢れるならあり得る可能性だったぜ」
笑っていた。アーサーも、ルーデリカも。
「なんで隠してたんだ?」
「自覚してないんじゃない? もしくは覚えてないとか」
「ああ、制御できてないやつか。それもまたあり得るな。俺は魔法の感覚が分からんから至らないなーそういう部分は」
「才能皆無だもんね」
「うるせえ分かってるわ」
那由多も笑っていた。おかしい、みんなおかしな人たちだ。こんな力に驚かず受け入れる。笑って話すなんてあり得ない。でもそれが愛おしい。求めていた、望んでいた言葉だった。
「そうなんです。昔から夢に見るんです。この世界とは違う世界。レアーナ遺跡の戦いも、ウラシマさんが目覚めるのも見えました。おかしい……ですよね」
何度も何度も。みんなに言ってきた。「違う世界を見た」と「そこではこんな暮らしがあった」と話した。同じように。見てきたように言った。誰もが本気にしない。誰もが聞かない。何度も言うと「あいつはおかしい」ってなる。いつも同じ。でも今回は違う。
「すげえじゃん」
アーサーも
「聞かせて! どんなとこ見たの?」
ルーデリカも
「私も聞きたいです」
ウラシマも否定などしない。聞いてくれる。
彼女の話を聞いてくれる人に初めて出会った。両親でも友人でも先生でもない。壁がない人々。
千里眼。フロリアにおいて神の瞳と称される特殊な魔法を宿した瞳。魔眼の一種とされる。遠く離れた場所を見たりできるが格が上がれば未来、過去までも見通すことができるようになるという。
那由多の持つ力はそれに近しいものだ。ただし彼女は異世界を見ることにその力が集約されている。そして恐らくは未来は見えない。過去限定。白黒のビデオを巻き戻して見る感覚で彼女は世界を見る。
それは特殊であってもおかしくはない。讃えるべき素晴らしい能力なのだとアーサーは言う。
これまで見てきた話を那由多は語る。記憶が良い彼女はそれらを全て覚えている。それらを言葉にするのは楽しかった。
アーサーとルーデリカは那由多が話す言葉から、それがフロリアのどんな場所か、いつ頃の出来事かを推察していた。
それは普通の高校生がする会話ではない。しかし那由多にとって確かな青春だった。友人と共に過ごす一ページ。
話きれない。これまで見た物語はこの時間だけでは到底語りきれるものではない。那由多はいつもより饒舌だった。
邪竜退治もレアーナ遺跡も関係ない一幕。意味のない会話。それでも最高に楽しい時間だった。
・
あっという間に時間は過ぎ去り、陽はすっかり沈んでいた。まだ話足りなかったが時間は有限だ。人のいない学校にこれ以上滞在するのも良くない。
那由多はまだ遊び足りない子供の気持ちを今初めて理解したかもしれない。それを惜しむように図書室に集った者たちは解散した。
「ルーデ。お前は那由多の家で寝泊まりしてくれ」
アーサーの発案により、ルーデリカは那由多と共に過ごすこととなる。アーサーとウラシマはこの後に宿を探すらしい。そういうことで二手に分かれた。
ルーデリカの役割の半分は護衛だ。そしてもう半分はちゃんとした宿を与えること。彼女は放っておくと風呂(または水浴び)にも入らなくなる。そういう面を考慮して規則正しい生活を送る那由多の元へ送られたわけだ。那由多はアーサーに「頑張れ」と言う。その意味はいまいち理解できなかった。
「おーここがニッポンの家か。大きいねー」
那由多の家に辿り着いたルーデリカは現代日本の家屋を舐めるように眺めていた。扉や外壁などはフロリアにはないものだろう。初めて見るものばかり、珍しさでしばらくは家中を散策していた。
ルーデリカの感想とはしてはどこかの宿屋のようだ——というものだ。というより宿屋が開けるくらいに広いらしい。確かに小さな民宿などはこれくらいかもしれないが少し大袈裟だろう。
那由多自身には多少裕福である程度の認識ではあるが、それは一般的な常識ではない。彼女の家はデカい。かなりデカい。部屋は少なくとも四つ以上あるし、使ってない空き部屋も二つほどある。なぜ存在する地下室は大画面のテレビがあり、謎にエレベーターまである。リビングは学校の教室並みに大きいし、設置されたソファーや絨毯も高級品。テーブルや家具に至るまで拘った一品だし、一般家庭にはない暖炉もある。ちなみに那由多は大体日本人の暮らしはこんなものだと認識している。そんなことはない。
「すっごい広い。びっくりしたー」
一通り見て回ったルーデリカは満足そうに、しかし興奮冷めやらぬ様子でリビングへ戻ってきた。
「よし、じゃあお風呂入ろっか那由多」
これからが本番だと言わんばかりにルーデリカは告げる。その声音はやけに真面目で顔も真剣そのものだった。
「え、いきなりですか?」
「それが楽しみで来たんだけど」
ルーデリカが一切のふざけなしで真顔で言う。
「えっと、ご飯とか」
「ご飯は後で」
ジリジリとルーデリカは迫ってくる。ここで那由多は理解した。なぜアーサーが「頑張れ」と言ったのかを。
(あーだからアーサーさんはルーデリカさんを私の家へ)
本来ルーデリカは風呂に入りたがらない。そういう文化があまり浸透していないのもあるが、水に濡れることを嫌う。温泉などの暑い環境も好きではなく、つまり熱湯も嫌いなのだ。しかし、そこに美少女が一緒ならば話は別だ。
美女の裸体を見るためだったら、ルーデリカは嫌いなことなどそっちのけで自ら進んで浴場へ入っていくだろう。だからこそアーサーはルーデリカを那由多へ預けた。
「わ、分かりました。入りましょう」
「やった!」
一番喜んでいるかもしれないルーデリカを脱衣所へ案内する。そこでルーデリカは一切の羞恥心など無視で服を脱ぎ捨てる。下着も同様に即座に脱ぎ捨てて、一瞬で素っ裸になった。そして那由多をガン見する。
「あの……見られていると脱ぎにくいのですが」
まるで宝石を鑑定するかのようなジックリと途切れることのない視線。
「気にしないで」
と言うがそれは無理という話だ。
「そう言われましても」
「大丈夫、何もしないから」
意を決し、顔を真っ赤にして那由多は脱衣する。どこか恥ずかしさからゆっくり脱いだがそれがまた恥ずかしいことに気がつくと素早く脱ぐ。それはそれで恥ずかしいことに気がついたのは全部脱いだあとだった。
「お〜」
と何を感心しているのかルーデリカは舐めるように那由多を見る。正確には那由多の身体を見る。
「やっぱり大きいね」
「いいから早く入りましょう!」
湯船に浸かるのに十分は掛かった。ルーデリカはまさに釘付けになったように那由多を見ていた。非常にみっともなく顔をにやけさせて。
可愛い可愛いとルーデリカは言うが那由多からしてみれば、彼女の方がよっぽど美しい。裸になればその美しさはさらに際立つ。引き締まった身体はアスリートのようであり、腹筋は綺麗に割れている。これが本当の意味でスタイル抜群というやつだ。肌には傷ひとつなく、白く美しく保たれている。
ただし胸の大きさは那由多の方が圧倒している。ルーデリカの注目はほぼそこに集約されている。もちろん顔も良い。十人いれば十人が美女と答えるだろう。まだこれから伸びしろがあると思うとルーデリカは楽しみだった。
ルーデリカは身体の洗いっこを提案するも即否定された。しかしそれはそれで体を洗っているところをずっと見られるという地獄の始まりだった。とにかく疲れる風呂だったと那由多は後に語る。
風呂から上がった二人は簡単な食事を済ませる。那由多のお手製だ。そこでもルーデリカは相変わらずの食欲を見せた。
「ルーデリカさんは両親の寝室を使ってください」
「いや大丈夫。那由多と一緒のベッドで寝るから」
「それは……ちょっと……」
これ以上、この美女との距離感をキープするのは心臓が保たない。寝顔なんてずっと眺められた日には本当に恥ずかしくて寝られる気がしない。しかし、これに関しては半分くらい冗談だったようでルーデリカは笑っていた。
「あたしは寝ないから大丈夫」
「寝ないって。ダメですよ、ちゃんと寝ないと。気遣ってもらうのは嬉しいですが、明日に響いてしまいます」
「あーそうじゃなくて……」
ルーデリカは後頭部を掻いた。どう説明したら良いものかと悩んでいるようだ。
「あたしは寝る必要がないんだよ。寝る必要がないって言うか、寝なくても生きていけるっていうか」
イマイチどう伝えれば良いのか分からずルーデリカは言葉を探す。数秒悩んで彼女は最後に「まあいっか」と呟く。
「簡単に言うとさ。あたしは人間じゃないんだよね」
「え?」
言っている意味が先ほどよりも分からなくなった。人間じゃない——そう言われても理解が追いつかない。頭がそれを否定している。目の前の人の形をした存在が人じゃないなんてあり得ないと。
「ワルキューレって言って神様の設計された人形——みたいなものかな。あたし自身、自分がどんな存在か詳しく知らないんだよね」
「そんな」
でも納得はできるかもしれない。ルーデリカの容姿などは完璧過ぎる。それは本当に創られたもののような精巧さで。
ルーデリカはずっとこのままなのである。容姿は生まれた時からこのまま。そしてずっと変化していない。現在の年齢は推定で数百を超える。
「驚いたよね?」
諦めたようにそう聞くルーデリカに那由多は心が締め付けられるような気がした。すぐに彼女を慰める言葉を用意しなければならない。「そんなことない」と言ってあげなければいけないと思う。だが那由多はそこで言葉をしっかり自分の中で用意した。正直に思った言葉をぶつけるべきだと。
那由多の視線は真っ直ぐにルーデリカへ向く。
「どちらかと言うと納得したというか。どっちにしろ異世界の人には変わりありませんし」
那由多にとってあまり変化はない。人だろうと人の形をした何かだろうと、彼女らが遠い存在には変わらない。だからそれは心の底から出てきた正直な言葉だった。
次の瞬間、ルーデリカは那由多に抱き着いていた。身体は風呂上がりで蒸気し、シャンプーの香りが鼻をくすぐる。柔らかく、温かい感触に包まれると心臓がまた高鳴った。
ギュッと抱きしめる力が強まった。那由多もそっと腕を彼女の背中へと回す。きっとさっきの自分と同じような気持ちだと察したから、その抱擁を受け入れた。これを否定することだけはできない。冗談でもやってはいけない。
「那由多は優しいね」
「私は思ったこと言っただけです。それにルーデリカさんが良い人ですから」
「やっぱ一緒に寝る?」
「それは心臓が保たないので勘弁してください」
ルーデリカは笑う。それはいつもの調子に戻っている証拠で「あっはっは冗談冗談」と彼女は笑うのだ。それが一番似合う、きっとそれは彼女にとっては必要な要素だ。那由多もルーデリカに笑っていて欲しいと思う。
「アーサーさんはそのことは」
答えは分かっていて那由多は尋ねた。そして当たり前、当然の答えが返ってくる。
「もちろん知ってるよ。あたしがどんなでもアーサーは受け入れてくれた。那由多みたいにね」
「それは……惚れちゃいますね」
あはは——と那由多は乾いた笑みを浮かべる。それは少し妬けたから。だってさっき彼に受け入れられた時も那由多は心揺れたのだ。でもそれは那由多が特別だからではない。彼はルーデリカを知っているから那由多も受け入れた。それを知るとやはり妬いてしまう。
那由多の言葉は私も惚れてしまった。と言っているようなものだった。彼女自身は無意識だろうが。
「惚れちゃうよ。あたしのために何もかも投げ捨ててくれた。最高にカッコいい、あたしの王子様」
羨ましい。本当に羨ましい。
一人の少女のために全てを投げ捨てた少年。それはまるで那由多の最初に見た夢のような。
それは必然か偶然か。いやきっとそうなのだろう。この二人こそがあの夢の二人だ。那由多の疑念は確信に変わる。それが確かならばアーサーも。
「アーサーさんはもしかして」
彼もまた人ではないのだろう。那由多はそれを知っている。ずっと前に見た異界の夢。初めて違う世界を見た時から知っていた。長い、長い旅の末に人を捨てた少年。
「話そっか? あたしたちのはなし」
「聞いても良いんですか?」
これが本当の意味での種明かし。那由多がかつて見た光景へのアンサー。答え合わせだった。
「良いよ」