第二章 『不審者と来訪者』一
女が浜辺に倒れていた。
男は浜辺で立っていた。
「どうか助けてください」
女は男へ言った。男は快諾した。
女に手を引かれ、男は海を渡る。海の向こう側、その異界へ。
男は元の世界に戻ることはなかった。彼を待つ家族も居ただろうに。
女の為に今あるものを捨てた愚か者だと男は言われた。
嗚呼、今度は浜辺で男が倒れている。寝ているのか、死んでいるのか。どちらせよ「おめでとう」と言っておこう。だって帰って来れた。目を開けろ。自分自身のの使命を思い出せ。
伝えなければならない。男には使命があった。
『その玉手箱を決して開けてはならない』
「っ!?」
夢か——と那由多は無意識に口にしていた。自室のベッドで目だけ開くと次に視界に入るのは見慣れた天井だった。しかし起き上がる気は起こらない。
今朝は少し頭が痛い。微睡とは違う、倦怠感とも違う何かが那由多の体にのしかかっていた。
那由多はもう一度目を閉じる。眠るためではなく、先ほど見たものを整理するために。
今まではとは違う。妙に暗示的な夢だった。警告とでも言うべきか。そんな夢は初めてだった。
男。夢に見た男は若い二十代ほどの青年。長い黒髪を後ろで纏め、線は細いが筋肉質。立ち上がると身長百八十にはなる。日本人らしい黄色人種、顔立ちはよく整っており男にも女にも見える中性的な印象。瞳は細く、吊り目。それでいて優しい印象を受ける。笑顔の似合う人だった。
彼は浦島太郎なんだろうか。
見知らぬ女性を助け、この世界から姿を消した愚か者。誰かを助けたのに受けた報いはあまりにも酷いもので。
「その女を見捨てていれば男は幸せになれたのか?」
那由多の脳裏にそんな言葉が過ぎる。そしてそれはこう変換される。
亀を助けなければ浦島太郎は幸せになれたのだろうか。めでたしめでたしと話を締めくるることができたのだろうか。
それはきっと否だろう。浦島太郎という人物は例え損をしたとしても亀を、困っている者に手を差し伸べてしまうのだ。
そこまで考えて那由多はようやく身体を起こす。頭痛はとっくに消えていた。
時計を無意識に見る。時刻は五時半。
「寝坊だ」
那由多のいつもと変わらない。いつもと違う朝だ。
準備をすると遅れた分を取り戻すように早めに家を出る。「行ってらっしゃい」そう言う者はこの家にはいない。だけど那由多は毎回口にする。
「行ってきます」
那由多は学校へ行く前に浜へ寄る。学校へ向かう道を少し逸れるだけで砂浜に出る。ちょっとの寄り道。それはきっと夢を見た所為だ。
よく流木とかが流れ着いていたり、鯨が打ち上げれたりするのだ。成人男性の一人や二人くらいはぶっ倒れてないかな〜なんて思考回路だった。
自分でもどうかしていると那由多は思う。もちろんそんなわけはない。砂浜は至って普通だ。波が寄せては引いて繰り返している。天気は良く、海は荒れてない。
平和だ。昨日見たままの故郷。
「学校行こ」
狂った思考回路を浜辺に置いてくると那由多は学校へ向かう。あそこにはアーサーがいるのだから。
図書室に鍵は掛かっておらず扉は簡単に開いた。大徳寺は時間にルーズな男だがこの教室の冷房の為ならば如何なる早起きも可能とすることができる。
それは那由多にとってもありがたい話だ。扉を開くと熱気ではなく冷気が溢れでてくる。心地良い風に包まれて入室する。
「おー今日も早いな」
いつもなら気怠げにそう言う中年男性が居るはずだが今朝は姿はない。開けるだけ開けてどこかへ行ったのだろうか。大徳寺だって仮にも教師だ。急用くらいあるだろうと、那由多は気にせずに中へ入っていく。
図書室は静謐な場所だ。それは人が誰も居ないのと、ここが校舎の端にあるから、そしてここはかつて音楽室だった教室であり、ある程度の防音設備が整っているからだ。部活動に励む生徒の談笑や掛け声もここへは届かない。窓は閉め切られて、外界と完全に隔たれた空間——というには少し大袈裟だが、この場所はこの場所で発生した音しか聞こえないのだ。
誰もいない。そう確信した那由多は驚く。ここ場が静かだったせいか声を出すことを咄嗟に止まった。
図書室には先客が居た。もちろんそれは、アーサーではない。全くの別人。
いつも那由多が座る椅子。窓際に設置された読書のためのスペース。その一角のさらに端。
そこには人間離れした容姿を持つ少女が座って本を読んでいた。
息を呑んで那由多はその光景を見た。言葉を発してはいけないと思った。それは一枚の絵だった。芸術を知らない那由多でも芸術だと理解できるほどに美しい少女。
金色の首のあたりまで伸びた金色の髪。同じく金色の瞳がジッと本の文字を追う。人形のように整った容姿と透き通った白い肌。その細い指が頁をゆっくりと捲る。組まれた足はどこか扇状的だった。黒いドレスを着た少女の腰には似合わない二本の剣。
その少女はしばらくして那由多の気配に気がついたのか、顔を動かさずに視線だけを動かして那由多を見た。
ジッと見られて那由多の心臓は高鳴った。銅鑼を鳴らすような音が彼女の体内で鳴り響く。目の前の彫刻が動いたような衝撃に那由多は硬直した。
少女は本をパタンと閉じた。そうして机に本を置くと立ち上がり、那由多の元まで歩いていく。その一挙手一投足が美しくて女性の那由多が見惚れるほどだ。
幼さの中に女性らしさを感じさせる。キリッとした少女の顔立ちから笑みが溢れると再び那由多の心臓は高鳴った。
「おーめっちゃ可愛い! ねえ名前は? おっぱい大きいね〜! どのくらいあるの? 足長いし、制服も可愛い。あ、私ルーデリカ。よろしく〜」
発言全てが色々と台無しだった。それがむしろ那由多に平常心を取り戻させた。
那由多もようやく気がついた。目の前にいる少女が現実に存在するものだと。現実感というやつが戻ってきた。
「片桐那由多と言います」
「那由多よろしく。まあアーサーから話は聞いてたんだけどさ」
自己紹介って必要だよね——とルーデリカは勝手に言って、勝手に納得していた。そうして一方的に那由多の手を握る。細く柔らかい感触と確かな熱が伝わってくる。アーサーと握手した時とは真逆の感覚だった。
「よろしくお願いします。ルーデリカさん」
「うん!」
最初に見たイメージと随分違う明るい少女だ。人懐っこい犬のような印象を受ける。しかし彼女に群れはあまり似合わない。孤高な狼のようだ。
「ところで肝心のアーサーは?」
「い、いえ。実は私も知らなくて」
「なんだよもう。人を呼び出しといて」
アーサーとは確かに約束したがその姿はない。代わりに居たのは彼女。アーサーの相棒たるルーデリカだったわけだ。
「まあいっか。待ってたらそのうち来るでしょ」
ルーデリカはそう言って元居た位置に戻って本を持つ。
「どんな本を読まれていたんですか?」
「え? 読んでないよ」
「え?」
那由多は硬直した。何かの聞き間違いかともう一度確かめる。
「読んでないんですか?」
真顔で「うん」とルーデリカは返す。
あんなに真剣な眼差しで読んでない。じゃあさっきのあれはなんだったのか? 那由多が見た幻想なのか。否、絵になっていただけだ。顔が良いルーデリカは真顔で黙ってたら何でもかんでも様になるという一種のマジックだ。
「本っていうか、文字が読めないんだよね。読み書きできないし」
「退屈とかそういう理由でもないんですね……」
「根本的に別種族の造った文化って理解しづらいんだよね。ルーンなら普通に分かるんだけど」
彼女が小声で呟いた言葉の意味を那由多は理解できてなかった。
「ではなぜ読書のフリなんかを?」
「好きな人の好きなものは苦手でも理解したいって思うじゃん?」
ルーデリカは一瞬だけ誰かを想うように微笑んだ。彼女が誰を想ってそんな顔をするのか那由多はなんとなくは理解できる。それは単純に異性を想う乙女だけじゃない気がする。
「それって」
「内緒ね?」
ズルい笑顔だった。那由多は強制的に「はい」と言わざるを得ない言葉でもあった。
「那由多は好きな人、居ないの?」
「私はそういうのは、経験がなくて」
「まだ若いもんね」
「ルーデリカさんだって同じくらいに見えますけど……」
照れたのか「えへっ」とルーデリカは笑う。
「良いものだよ。恋は」
「良いもの……ですか」
いまいち那由多には理解できない。恋する乙女の気持ちという奴は。
「那由多は読書が好きなの?」
好きということから話題を変えたのかルーデリカはそんなことを言った。先ほどまで自身で読んでいた本を那由多に手渡すと眩しいくらいの笑顔を浮かべた。
那由多が受け取った本は小説ドラゴンクエスト。
(なんとピンポイントな)
そんな言葉を那由多は呑み込む。そしてペラペラと手に持った本を捲った。
「特別、読書が好きというわけではないんです」
それは那由多の本音だった。本を読むことが好きなのではない。
「知識を得るのが好きというか。知識欲のようなもので本を読んでいるだけですね」
「じゃあアーサーと一緒だね」
「アーサーさんと?」
ルーデリカはかぶりを振る。
どこか嬉しい。誰かと一緒なんて言われたのはいつ以来だろうか——と自身の人生を振り返る。一度たりともなかったかもしれない。
「アーサーは知らないこと全部知りたい奴だから。那由多は仲良くなれるかもね」
「そうでしょうか?」
照れて那由多は言う。
こうして誰かと他愛ない会話をしたのも久しぶりだったかもしれない。
同じ歳くらいの少女と語らう時間というのは那由多にとって珍しい時間。それは彼女が学校でも家庭でも会話をあまりしてこなかったからだろう。
中でも同世代の人間と話す機会は本当に限られていた。那由多は皆の話す話題についていけないし、皆は那由多の話す話題についていけない。会話が上手く噛み合わない以上は互いに距離を取るのが人間という生き物の習性だった。
ルーデリカだけはその習性に囚われずに向かってくる。案外、相性なのかもしれないと那由多は考える。
これが夢の女子会というやつか。
そんな思考が那由多の脳裏に過ぎる。そんな那由多のにとって人生最初で最後かもしれない女子会の終わりは唐突に訪れた。
雑に開かれた図書室の扉から不釣り合いな甲冑姿の男が現れると、歩幅を変えることなく歩いてきた。
「おっそーいー」
不満を漏らすようにルーデリカは言う。机に突っ伏せると顔だけ上げて口を尖らせている。
悪い悪いとアーサーは平謝りしながら、自然と彼女の隣の席へ腰掛けた。那由多とは斜め向かいの位置。
「那由多はもうプンプンだよ。怒ってるよぉ」
「そりゃ怖い」
やはり二人の距離感は少し近い。兄弟か、恋人か、それとも夫婦だろうか。どれにも見えるが、そんな簡単な括りでもない気がする。
二人の距離に那由多が気になっているとアーサーが顔を覗く。それに那由多はドキッとした。勘繰ろうとしているのがバレたかと思ったからだ。
「那由多も待たせて悪かった」
「いえ、お気になさらず」
誤魔化しながらも那由多は内心ホッとしている。
ようやく訪れたアーサーにより、冒険者二名と協力者が揃う。調査団出張版とでも言うべき者たち。
その内の二人はバルトメロイの名を持つ冒険者。フロリアにおいて知らぬ者は居ないとされる最強の冒険者クラン。総人数は七名。ルーデリカとアーサーはそのクランマスターとサブマスターを務める人物だ。
その伝説的英雄二人が揃った時、何が起こるのか。素人である那由多は想像ができなかった。
「すごいぞ。見ろルーデ。これを」
「何これ?」
「シンブンシという情報誌だ。この世界では毎日発行されてるらしいぞ」
伝説的英雄はごく普通の新聞紙に夢中だった。冗談ではなくアーサーは新聞紙を握り締めて子供のようにルーデリカに見せつけている。しかし興奮しているのはアーサーだけで、ルーデリカの方は物凄く冷めた目でそれを眺めている。
「そりゃすごいけど。何をそんなにはしゃいでるの?」
この瞬間だけはを切り取ると、どこか二人の関係性が親子に見えた。もちろん、アーサーが子供でルーデリカが母親。
「注目すべきはこの天気予報だ。未来の天気が予測されている。しかも今日はあたりだぞ」
へえ——とルーデリカは流す。彼女は心底こういう話題に興味がない。
「なんでもこの世界には人工衛星とかいう人が作った星が天の上から雲の流れを見てるんだそうだ。凄くないか?」
「それってなんで落ちないの?」
「空の向こうには落ちる力、重力がないのだ。俺たちの世界でもそうなのかもな」
アーサーは天を仰ぐ。そこには天井しかないが、彼が指しているのはその先なのだろう。
那由多はその発言にかなり興味があった。フロリアには天体や星という概念があるのか否か。その話で那由多も入っていこうとした瞬間。
「アーサー、話逸れすぎ」
ピタリとアーサーの動きが止まる。同時に満を持して会話に混じろうとした那由多も動きを封殺された。
そうだった。アーサーはそう言うとようやく冷静さを取り戻した。
「じゃあ現状の情報を整理しよっか」
雰囲気が変わった。ルーデリカはそれまでの少女らしいものから、英雄然とした気配を漂わせた。言葉は重く、視線は鋭い。それに感化されたようにアーサーも纏う雰囲気の色が変わったように見えた。
アーサーは手帳を取り出し、そこに記した情報を読み上げた。
昨日のその後、得たフロリアの進捗。それは一割程度という結果だった。その一割という数字も概算に過ぎない。正確に言えば一割も進んでない。
分かったのはかろうじて邪竜の名前。ヴァン・ウォード。暴風の化身という名の存在。
「はい終了」
「え、終わり?」
うん——とアーサーは告げて手帳を閉じる。その瞬間に強張っていた空気が開放されたように那由多には感じた。
「暴風の化身って……」
チラリとルーデリカが窓の外を見た。
雲ひとつない快晴。昨日から引き続きの晴れ模様。天気予報ではこの先、一週間はずっと晴れの予報。
それらしい雲も、世界中の天気を見ても同様だ。異常気象などが起こっている気配は微塵もない。
日本の八月はそりゃもう台風が多発するものだが今はその気配すら皆無。真夏の暑さと太陽の日差しだけが降り注いでいる。
これはとてつもなく面倒なことだった。いっそどこかで嵐が起こっていてくれれば良かった。それならばアーサー達はそこへ向かったのに。
まあ何が言いたいかと言うと
「じゃあ暇じゃん」
「ああ、やることがねえんだ」
そういうことだった。
こちらの世界には邪竜の手がかりとなるものがない。それがあるのがフロリアだけであり、邪竜の討伐が目的で来たアーサーはやることがない。正確には打つ手がない。
肝心の邪竜が姿形もない。
「じゃああたしご飯食べたいなぁ。旅先で食べるご飯って大事だよね!」
先ほどとは打って変わってルーデリカが今度はそんなことを言い出す。完全に集まったけどだらけて遊び出す学生の勉強会そのものだった。
「旅行じゃねえんだぞー」
「良いじゃん。日本の食文化は凄いらしいよー」
「そういうことばっかり興味持ってお前は」
「でもさーこれも未知でしょ?」
「……未知だな」
兜の向こうでアーサーが笑ったような気がした。二人のやりとりを見て那由多も笑う。
やりとりが完全に親子なのだ。先ほどまでの真剣な雰囲気から一転、食べ物の話に移り、わがままに付き合うアーサーはどこか娘に振り回される父親だった。
「アーサーさんってルーデリカさんに甘いですね」
意図せずして図星を突かれたアーサーは絶句する。気が付いてないのか——と那由多も絶句した。
「気づいてないの? アーサーあたしに超甘いよ?」
「よし、飯の話は無しだ」
「うそ、超厳しい。もっと甘くていい」
ルーデリカは即座にアーサーに飛びついた。気によじ登るようにその体にしがみ付く。その姿はまるでコアラ。
「お二人は本当に仲が良いんですね」
那由多がそんな風に言うとまあな——とアーサーは返す。鎧の中の男は美少女に抱きつかれても動揺しないが、そんな言葉には簡単に狼狽えてしまう。
「付き合い長いからね」
「ずっと一緒というわけでもないけどな」
「そうなんですか?」
「依頼もあるし、あたしもアーサーも世界中飛び回ってるしね」
どこか遠距離恋愛している恋人のような話に聞こえる。実際には異世界、それも冒険者という特殊な職業の話なのだから面白い。
「それにルーデの方が歳上だからな」
それは意外な話。思わず那由多は「え!?」と声を漏らした。
「ルーデリカさんてお幾つなんですか?」
尋ねられた張本人は首を大きく傾げる。
「さあ?」
「さあ……って」
言いながら那由多は理解した。もしかしたらフロリアには正確に歳を数える文化がないのかもしれないと。
実際、フロリアの年数換算は結構雑。長命種の種族も多い所為か年齢も暦もそこまで数えていない。
そもそも一年がこちらの世界とは大きく違う。こちらでは地球の一周を一日として三百六十五日を一年としているが、フロリアでは太陽と月が必ず一年に一回交差する時がある。所謂、月食や日食と似た現象だがこれらはフロリアの世界をグルグルと回るのだが、様々な魔力的な要因でこれが結構ブレる。こちらの世界で言うところの、うるう年のようなものが頻繁に起こると那由多は解釈している。
フロリアの世界は終末戦争前後で暦を分ける。現在は新暦二三○七年だが、それを完全に認知しているのは栄えている国家に住む人々だけ、辺境に住む者は感覚的にしか一年と自身の歳を認識していない。
「俺も、覚えてないな」
アーサーも覚えてないくらいだ。
「そもそも生まれた歳を把握してないんだよな」
というのがアーサーの弁。
「いやいやそんなことよりさ。ご飯食べに行こうよ。ご飯」
話題を戻す。ルーデリカは思い出したように騒ぎ出した。それはもう駄々っ子のように。まあこれまでもずっとコアラのままの体勢で話していたのだが。地味にアーサーもルーデリカもすごい。
「別に構わんが、何を食うんだ?」
「あ、結局許すんですね……」
なんだかんだやはりアーサーはルーデリカに甘い。
「コンビニってやつ行きたい!」
「なんじゃそりゃ?」
「なんか道行く人に聞いたけど、なんでもあるらしいよ。みんな困ったらご飯食べに行くんだって」
「なんだと! 本当か那由多?」
アーサーの矛先が那由多へ向く。彼女は「ええ、まあ」とどうとも取れる返事をした。
コンビニエンスストア。年中無休で主に食料品や日常雑貨を取り扱う小売店。このコンビニで食生活を支えられている日本人は多いだろう。コンビニ弁当、コンビニおにぎり、コンビニ惣菜に世話になった人間も多いだろう。
ちなみにコンビニはアメリカ発祥。そして田舎のコンビニは閉まる——普通に。
この船城町にあるコンビニ、セブンイレブンは本当にセブンオープン、イレブンクローズである。つまり朝七時に開いて夜十一時に閉まる。うーん健全。
「行こう!」
コンビニの情報を聞いたアーサーは声を上げる。それに賛同したルーデリカに連れられ、那由多は学校を飛び出す。
「そういや今日学校、人いないな」
図書室を出て、校舎を歩き、校庭へ出たあたりでその違和感にアーサーは気がついた。昨日は多くの生徒が居た。野球、水泳、卓球、その他諸々。そういった生徒らの姿は一切なかった。ついでに言うとその顧問の姿もない。夏休み期間とはいえそんなことがあり得るのだろうか。
那由多もアーサーに言われてようやく「そういえば」とその異常に気がついた。
校庭を歩く三人は誰の姿を見ることもなく校門まで辿り着く。やっぱりおかしい。那由多がそう考えていると答えを用意したのは意外にもルーデリカだった。
「あーなんか全裸の男が徘徊してるから部活動全部停止したって通りすがりの誰かが言ってたよ」
「え、そうなんですか?」
「あー確か掲示板に書いてあったな」
那由多は掲示板とか見ないタイプなので完全に盲点だった。そうなると那由多にはもう一つの疑問が浮かんだ。
「じゃあルーデリカさんはどうやって図書室に入ったんですか?」
「え? 空いてたけど?」
大徳寺が昨日閉めるのを忘れたのだろうか? 鍵も閉めずに冷房もつけっぱなし。
(まあ大徳寺先生だし、あり得るか)
とこの件に関してはすぐに納得した。
「しかしこの世界は全裸で走り回ってるだけで警察機関が追いかけてくるんだな」
「町の中だからじゃない? あたしらの世界でも都市部だと法律あって面倒じゃん」
「多分、山奥とかだったこっちの世界でも何も言われないと思いますよ」
「え、海もダメなのか?」
「水着を着ないとダメですかね」
「へえ〜厳しいんだな」
「厳しいねぇ」
どこかズレたような会話。なんとなくだが海外の人間と会話すると、こんな感じでカルチャーショックを受けることになるのだろう。那由多はそんなことを頭の片隅に置きながらコンビニを目指す。
学校から歩いて数分。ほぼ学校をぐるっと半周して裏手に回ればすぐそこに大きくないが商店街がある。
その一部として地方特有の謎のローカルコンビニ店「グリーンマート高橋」はある。ちなみに二号店らしい。一号店は店主高橋さんの地元、鳥取にあるらしいが詳細は不明。
そんなグリーンマート高橋に三人は踏み込んでいく。那由多にとっては日常の一コマだったが、異世界人である二人にとっては未知の経験だった。また同時にグリーンマート高橋にとっても鎧の男と絶世の美少女を店内に招くという珍しい経験だったろう。
「この世界ってたまに自動で開く扉あるよな」
「分かる。最初見た時、古代遺跡かなって思った」
「フロリアの古代遺跡は自動で扉が開くんですか?」
引っかかる言葉に那由多は疑問を投げかけた。自動扉がまさかフロリアにもあるとは驚きだったが、それが古代遺跡にあるとはさらに驚愕だ。
「うん、合言葉とか言ったりすると開く仕組みがいくつか。面倒だから採用してる人なんていないけど」
その回答を聞いて那由多は「あー」と理解したのかしてないのか曖昧な声を出す。たぶん、那由多の中で自動扉というものへの認識が違うのだ。
那由多の脳内にある自動扉は薄いガラス窓が左右に開くのを想像する。しかしアーサーらからすればひとりでに勝手に開いたらなら、それはもう自動扉なのだ。主に謎解きゲームなどであるあれも、確かに自動扉と言えば自動扉だ。それが例え、古めかしい石の扉だったとしても。
そんな彼らの想像するものは乖離した自動扉を潜り、異世界人はついに人類未開の地であるコンビニへと到達した。しかしそれほど興奮はない。アーサーもルーデリカもジッと商品を眺めているだけだった。
「本当になんでもあるな」
「市場みたいだね」
「ああ。しかし並んでいるものは全て包装されてるときた。丁寧な仕事だ」
「おおーパンがずらり、飲み物もずらり」
この世界が丸ごと敵になったらコンビニに籠城すれば良いのではないか——という謎の思考がアーサーの中に過ぎっている。それは誰にも言わないが。
「しかしこんだけあると何を買うのか迷わないか?」
「迷う。超迷う」
ルーデリカは店内を回って色々なものを見る。そしてとにかく気になったものをカゴへぶち込んでいく。パン、おにぎり、弁当、お菓子、ジュース、デザート、アイス、なんでもかんでも入れていく。その度に「そんなに食べれないでしょ」とアーサーは元の場所へ商品を戻している。
「あ、これお菓子を買い物かごに入れてそれを戻す親子の図だ」
少なくとも那由多にはそう見えた。
「ところでお二人はこの世界の通貨は持っているのでしょうか?」
素朴な疑問だった。ここまで来ておいてなんだが常識的過ぎて忘れていた。
「もちろん持ってないけど。金目のものならあるよ? 宝石とか金貨とか」
「いや〜それは」
この店はそれじゃあ許してくれないだろう。仕方がないからここは自分が払っておこうと、那由多が思い立ったその時にはルーデリカはレジに並んでいた。
「ちょ」
強面の店主、高橋がカゴにある大量の商品を清算していく。
「五千六百七十円になります」
ギロリと睨んでいるつもりはないだろうが、高橋はルーデリカが現金を持ってないことを見抜いたように見えてしまう。
「お金ないんだけど、この宝石と交換じゃダメかな? まあまあの値打ちものだけど」
そう言ってルーデリカは無造作に小指サイズの赤い宝石を高橋に手渡した。ノリが軽すぎてスルーしそうになる。しかし
「あ?」
そんなもので許されるはずがない。高橋はその眼光を強くするとルーデリカを威嚇するように見る。
「あんた……海外の人かい?」
「うーん。そんなとこ」
高橋さんは宝石を胸のポケットにしまうとグッと親指を立てた。その表情は一切変化していないが彼の懐の深さは一瞬で理解できた。
(え、優しい)
実際の宝石の価値がどれくらいは不明だが、こんな原始的な物々交換をよしとするコンビニは少なくとも日本中どこを探してもここくらいだろう。電子決済から物々交換までをキャッチフレーズにできるかもしれない。
「ありがとうございました」
強面、筋肉もりもりマッチョマンの高橋ははち切れんばかりの腕で商品をレジ袋へ入れるとそれをルーデリカへ渡す。
「良い旅を」
そして最後に低く良い声でそう告げた。
ここがなんの店なのか一瞬見失いそうになる。自動扉が開くと同時になった入店音でようやく那由多はここがコンビニだと思い出した。
「減らしたの色々買ったな〜」
「え? なにが?」
「なんでもない」
アーサーは手一杯に抱えた荷物を見てため息を吐いた。しかしこれまでいつもよりはマシらしい。
那由多も遅れてコンビニから出てくると、そこにはバーゲンセールス帰りの奥様みたいな山盛りの荷物を持ったルーデリカが立っていた。さっきこんなに買ってたっけと思うほどだが実際に買っていたのだ。会計のやりとりが気になり過ぎてちゃんと見ていなかっただけだ。
「まあいいや帰るぞ」
「あれ? アーサーさんは何も買わなくて良いんですか?」
「ルーデが大量に買い込むのは予想してたからな」
アーサーはさりげなくルーデリカの荷物を半分持つ。
今更ながら周囲の視線はアーサーとルーデリカに集まっていた。この町では観光客ですら珍しい。ならば側から見ればコスプレイヤーはさらに注目を集める。道行く人は一度は二人を見るが、話しかけることはしない。そして二人はそんな視線に慣れているのか気にしている素振りはない。
視線を集めるのは確かに二人なのだが、そこに混ざっている那由多が一番注目されていることは彼女自身知らない。
「帰るぞ」
「はーい」
那由多を含めて異色な三人は商店街を歩いていく。
小さい商店街でもこの町の人間からしたらありがたい場所だ。なんでも揃っており、船城町の人間はよく利用する。学校裏にあることからも生徒は特に利用する。那由多もまたそのひとりだった。
ルーデリカは鼻歌を歌い上機嫌だ。手にいっぱいの荷物を持って、でもその歩みは軽やかで。その隣を那由多が歩く。二人の後ろをアーサーがついていく。学校まで帰る間、それはまるで学友との暇のようだった。
『ああ、これ。いいな』
そう心から思えるほどに安らぐ時間。しかし、残酷なことにそんな安らぎの時間はすぐに終わりを告げる。
三人が学校の校門に戻ってきた時、それは校庭のド真ん中に立っていた。
「人、ですか?」
遠目にはそう見えた。那由多は最初にそう定義しようとした。だがそれはすぐに否定された。
「いや違う」
「うん。あれは」
アーサーもルーデリカもそれを知っているような口ぶりだった。那由多も目を凝らす。同時にそれも三人に気がついたのか歩いて近づいていく。その行為により、ようやく那由多もその正体に気がついた。
「あ、あれは……」
そう、それは
「変態だあぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
全裸の変態だった。