第一章 『浦島太郎への考察』一
時は現代、八月一日。日本人には馴染み深い夏といえばこの月を指すだろう。とても暑く、虫がそこらじゅうで湧き、台風が吹きすさび、多分過ごし難い季節。
過ごし難いなんて言い出したら日本なんておおよそ過ごし難い季節ばかりだと思うが、中でも夏と冬は二強と言っても良い。花粉症の人間はそれらよりも春を親の仇のように忌み嫌っているそうだが。
そんな夏だ。舞台は極東の島国、日本の何処かの田舎町。名を船城町。きっとどこにでもあるありふれた町。海はあるが港町という訳でもない。
夏のシーズンになれば海水浴の客で少しばかり賑わうも、きっと人々はクラゲやサメの危険性のあるビーチよりもアトラクションの多い大型の温水プールにでも惹かれる生き物なのだろう。やはり船城町は人口の爆発には至らないほどの、そこそこの人数でそこそこの夏を過ごすのだ。
彼女もその一人。劇的ではない人生を歩む少女、十七歳。少女は十七回目の記念すべきでもなんでもない夏の訪れをそれほど歓喜してなかった。いつも通り。それがよく似合う日常だ。
そう、十七歳、青春を謳歌する高校生にとってウキウキな季節。海だ、花火だ、浴衣だ、水着の女子だ。そんなものに燥ぐ青い春はやはり無縁なもので八月も夏休みも彼女——片桐那由多にとっては日常の一コマに過ぎない。
那由多は人よりもはるかに優れた容姿から美少女と称されるも、何処か隙のなさと本人の文武両道な成績や優等生としての立ち振る舞いから友人はおらず、学友には恵まれたことがない。
彼女は決して孤立している訳ではない。一人でいることが好きなのだ。言うなれば孤高の人。他人にはそう映るだろう。実際に本人はどうも思ってない。
彼女は早起きだ。必ず朝五時に起きる。これは習慣になっていて絶対にこの時間に目覚める。じゃあ早寝なのかといえばそんなことはなく、深夜二時ほどに寝ている。それまでは勉強や読書をしている。圧倒的なショートスリーパー。ここまでの睡眠量で人生の中で体調不良をまともに起こしたこともないのだから、本当にこの睡眠量で十分なのだろう。
那由多は勉強熱心だ。というよりそれが趣味なのだ。別に医師になりたいとか、弁護士になりたいとか、税理士になりたいとかの目標も夢もある訳じゃない。ただ知的好奇心でものを知りたがる。そして一度目にしたことは完全に記憶できる脅威の記憶力を持っている。ただし目標はない、テストで点が取れても彼女には行くべき道は見えてない。
そんな勉強を趣味とする少女と話が合う人間は少ない。顔が良いので言い寄る人間は多いが那由多は異性に興味を持ったことはない。他人の色恋には興味は持つけど。
そしてそんな友達のいない那由多は夏休みをどう過ごすのかというと。
学校へ行く。
そう、学校へ行く。学校は一応部活やらなんやらで空いている。しかし那由多はなんの部活にも所属してない。
ならば何しに行くのか? もちろん勉強しに行くのだ。
いや家で勉強しろよ——担任教師ですらそんなツッコミをする少女が那由多。もはや教師陣は彼女に教えることはないので扱いに困っている、ある意味問題児。
そんな少女、那由多は今日も今日とて学校へ行く。昨日も今日も行く。きっと明日も行く。
曰く「習慣づけることが大切なんです」と爽やかな笑顔で言うとか。
「お前は学校を卒業したらどうするんだ?」とかつて担任教師は聞いたそうだ。そして那由多はこう答えた「OGとして勉強しに来ます」と。これにはその場に居た教師ら全員が口を開けたまま硬直したとか。流石に冗談だったようだが。
那由多は当然のような顔をして玄関を通る。まだ朝の七時。普段の学校へ行くにも早い時間帯。周囲にはもちろん生徒の姿はない。ご近所もこの暑さに姿を見せる気配はなかった。
那由多は「行ってきます」とは言わない。家には誰も居ないからだ。
彼女の両親は海外出張でずっと家を空けたまま帰ってこない。たまに親戚が様子を見にくる程度でここ数年は会ってない。
本を片手に那由多は町を見ることもなく進む。もはや慣れすぎて道を見ずとも歩んでいける。視線はずっと本へ向かっているがその歩みは真っ直ぐで淀みない。
徒歩十分程度。海沿いの道を歩んでいくと那由多が通う高校、船城高校が見えてきた。ここは校舎から海が見えるということで大人気、かといえばそうでもない。なぜなら船城の人間は海なんて見慣れているからだ。
海に特別感を覚えるのは普段から見ない人だけだろう。それは山も同じだし、温泉も都会も、世界遺産も同じ。見慣れていれば特別感薄れる。道民がゴキブリを珍しがって触れるのと同じだろう——那由多はそう考える。
学校へ辿り着くと那由多は迷いなく階段を上がり二階の隅にある教室を目指す。そこが目的地、この学校で職員室以外では唯一冷房の使用が許された場所。
那由多は貧乏で冷房目当てで学校に来ているのではないかという噂が一時期立ったが彼女の家は普通に裕福だ。彼女の家を見た教師陣は二度とこの話をしなくなった。
図書室は夏休みの間は解放されてない。だがしかしその扉は開く。なぜならば那由多が使用許可を勝ち取ったからだ。彼女は普通に申請を出しただけだが、その許可には多くの職員の多くの葛藤、会議があったそうだ。結果的に那由多の比の打ちどころのない姿に誰もがその首を縦に振った。
「おお、ほんとに来た……」
図書室の扉を開けるとそこには中年男性が貸出カウンターに足を乗せて寛いでいた。彼も今ここへ来たのか若干、冷房の涼しさを感じない。
男は引き気味で那由多を見た。服装はこの学校指定のジャージの上に白衣。無精髭を生やしただらしないという印象を受ける。実際にだらしない男だ。その証拠に片手にタバコを持っており今まさに喫煙をしようとしていた形跡を発見できる。だらしないの集合体、それが彼。
男の名は大徳寺。大徳寺賢太郎。この学校で現代文を教える教師である。白衣を来ているが理系ではない。これを着てないと本当に教師に見えないから少しでもマシになるようにと、教育委員会に強制されたのだ。そして那由多が図書室を借りるための鍵閉め役として任命された哀れな男。
実際にかなり哀れで図書室を借りる那由多のお目付役という名目だが、実際にはサボり癖がある彼のお目付役を那由多がしているという構図がもう悲惨さに溢れている。
そんなわけで大徳寺は夏休みにこんな朝っぱらから図書室を開け、那由多が満足するであろう六時あたりまでこの図書室の番人をするのだ。そしてその後にここの鍵を閉めるのも彼の役目。
「来ますよ。言ったじゃないですか。それに先生が来てくれるのに、私だけ来ない訳にはいきませんよ」
「別に良いよ。俺の家ここだし……お前来なかったら俺実質休みだし」
大徳寺は学校の宿直室を住処にしている。なので図書室までの距離は数分足らず。そんなに労力はかからない。むしろ彼は那由多が図書室を借りようと借りまいと冷房目当てでここに来るのだ。
「ここの方が勉強が捗るんです」
「クーラーあるからかぁ? こんだけ涼しいと俺は逆にやる気無くすね」
「じゃあ、いつやる気出すんですか?」
「あ? そんなもん世界の危機に決まってんだろ」
「はあ、そうですか」
「引くなよ! 冗談だよ。全くお前は冗談が通じないやつだ」
「私だって冗談の一つ言いますよ」
「あーあれだろ。卒業しても学校に来て勉強するって言ったやつ。あれは確かに傑作だったな」
ケラケラと大徳寺は笑う。那由多と大徳寺の距離感は教師と生徒というよりかは普通の友人同士に近い。
那由多は大徳寺の話を半分くらい聞きながら図書室に並んだ本棚を見つめている。
「課題なんて家でやれよ」
「読書感想文だけなんで、ついでにと思って」
「はぁ!? もう課題終わったの? 今年は結構な量だったぞ。俺引いたもん。そして笑ったよ。ざまぁって」
「いや、それは教師としてどうかと」
「だから冗談だよ。どちらかと言うと俺は抗議した側だね。勉強よりも大切なものがあるんじゃないか。若人から青春を取り上げるなんて許されてないんだよって」
「それ……誰の言葉ですか?」
「お、俺の言葉だよ」
へえ——と那由多は流して本探しに戻る。
「それで?」
その言葉の意味が那由多にはいまいち理解できなかった。聞き返す。もちろん彼の言いたかったことは一つしかない。
「だから本当に課題終わったのか?」
「はい。もう夏休み初日には」
「はえ〜。居るんだよなお前みたいな奴。この夏、何かやりたいことでもあるのか?」
「いえ特に」
ドライな対応に大徳寺は大きくため息を吐いた。「お前なぁ」と大きく聞こえるように呟くと那由多はどこか不服そうに「なんですか?」と聞き返した。
「お前には熱がない! 一度きりの十七の夏休み。彼氏作ったりとか、遊んだりとか。そればっかりが青春とは言わんけどな。なんかないのか? 夢とか目標とかさ」
「何先生っぽいこと言ってるんですか……」
「先生だよ! 教師! 教員! マイネームイズティーチャー!」
大徳寺は興奮のままに那由多に迫る。彼特有のタバコの匂いが少しだけ香る。
「ないのか? やりたいこと?」
「ないですね」
「お前は天才なだけで何にもできないなぁ」
酷い言いようだが那由多は特に気にしない。大徳寺がこういう不躾なことを言うのは初めてではないし、それに天才扱いしながらも同じ人間として見る彼が那由多は嫌いではない。
「お前には熱がないんだ。命に変えても何かしたい。自身の細胞の一片まで燃焼させて何かをしようとする気迫があれば才能なんてなくても何かを成せる。お前は人としてどんなことでも大成できる力がある。だがまだ人としての土俵に上がってない。俺はそれをもったいないと言ってるんだ」
もったいない。那由多はそうは思わないが、少なくとも人生経験は上な大徳寺が言うのならばそうなのかもしれない。少なくとも彼の目には那由多はもったいないのだ。
「そこで俺は一つの課題を出してやろう」
「追加の課題というわけですか?」
「否! その読書感想文に縛りを与える」
「縛り?」
「ああ、俺の言う課題で一つ自身の才能を磨いてみろ。何事もやってみれば案外ハマるかもしれない」
那由多は大徳寺の言っている意味が一ミリも理解できなかった。考えている間に大徳寺は図書室の中を駆け回る。先ほどまで冷房で怠けていた人物とは思えない機敏さで。
「これだぁ!」
そうして大徳寺は一冊の本を持ってくる。それは恐らく誰もが知っている昔話。
「浦島太郎ですか」
「ああ、読んだことは?」
「そりゃありますけど。なぜこの本を?」
「どう思った?」
それをここで言ったらもはやそれが読書感想文なのでは——という疑問を呑み込んで那由多は考える。考えるまでもなく簡単に答えは出てくるのだが。
「腑に落ちません」
「そうだ! この浦島太郎。何が伝えたいのかさっぱり分からん。結末もよく分からん。なぜ亀を助け、竜宮城に招かれ御礼をされた浦島太郎はあんな仕打ちにあったのか。挙句になぜ老人にされたのか! 意味分からんだろ」
まあ——となぜかヒートアップしていく大徳寺に曖昧な相槌しか返せない那由多。だがなんとなく彼が言いたいことは分かる。
「だから考えてくれ」
「はい?」
「いや、だから。なんで浦島太郎がこんな物語になったのか考察してくれ。なんなら真実を導いてくれ。それを文にまとめて提出するのがお前の課題だ」
「急に無理難題になった」
「そうだ。片桐よ。これは試練だ。何にもやる気のない子には試練を与えるのもまた教師。この夏、この課題を向き合ってみろ」
那由多は視線を無駄に暑苦しい教師から目の前にある浦島太郎へ移す。
ちょっと面白そうだ。というのが本音だった。その課題すらも軽く流していれば終わってた。
今年の夏はどう過ごそうなんて考えていたところだ。だからこそ大徳寺の課題はむしろ渡りに船だった。
「やってみます」
「おお、珍しくやる気じゃないか?」
「少しだけ、やる気が出てきました」
こうして片桐那由多は浦島太郎という物語を考察する。なぜこんな話になったのか、その真実を彼女は覗こうとする。
・
浦島太郎。
浦島太郎はある時、海辺でいじめられている亀を助ける。助けた亀に「お礼がしたい」と言われた彼は亀の背に乗って海中へ連れて行かれ、竜宮城へ辿り着く。そこで主である乙姫らの手厚いもてなしを受けた。
帰郷しようとした浦島太郎は乙姫から「決して開けてはならない」という玉手箱を渡される。
浦島太郎が故郷へ辿り着くと、そこには彼を知る者が一人もいなかった。竜宮城での時はこちらの世界で遥かな時間が経っていたのです。失意の中で浦島太郎は玉手箱を開けてしまう。
玉手箱を開けてしまった浦島太郎は年老いた老人の姿に変わってしまいました。
しかしこの話にはまだ続きがあったのです。
こことは違う異世界。そこではその序章が繰り広げられようとしていました。
ガタン——という音に男は目を開けた。
まだ移動中だ。馬車の中には男と同様に鎧姿の者ばかり、これから向かう地がどれだけの危険が待ち構えるのか分からないことの証明だ。きっと死地になる。実際に一度滅んだ地であった。
目的地はレアーナ。かつて大規模な繁栄を誇ったが突如として滅んだ謎多き国。実在したかどうかも分からない。遥か昔よりお伽話で伝わる土地だ。
レアーナの地は広大な砂漠地帯であり、それに加え獰猛なドラゴン達の住処となって、人が簡単に立ち寄れる場所ではなかった。しかしながらそんなお伽話や伝説が残る地に人は興味を唆られるものだ。レアーナはまさに学者達からすれば喉から手が出るほどに調べたい場所だった。
ある時、レアーナを観測した学者が言った。
「あの地から竜の姿が消えた」
数日間の観測により確かに上空を飛んでいたドラゴンは姿を消した。これを好機と大規模な調査団が編成されることになる。世界各地より集まった有能な学者達と、それを護衛するこれまた選りすぐりの英傑達が集う。こうしてレアーナ調査団は結成、満を持して人はレアーナの地へ踏み入ることになる。
男もまたそこへ向かう調査団の一人だ。名前を
「あんたアーサー・バルトメロイだろ?」
そう、名をアーサー。アーサー・バルトメロイ。その名を呼んだのは彼の向かいに座っていた甲冑姿の男だった。
「よく分かったな」
とアーサーは短く返す。返事が余程嬉しかったのか男ははしゃいだ。それは顔が兜で見えなくても分かるくらいに。
「気づくさ。というか初めから気づいてた。ずっと声をかけるのを見計ってたんだ。その……俺あんたに憧れてたんだ」
興奮を抑えきれないという風に男は大袈裟に身振り手振りをする。カシャカシャと鎧が音が鳴ると彼は隣の男から「落ち着け」と肘打ちをもらっていた。
「そりゃ嬉しいな。でもなんで俺? 俺ってほら……地味だろ? 他のメンツと比べても」
「そんなことないよ。その赤龍を倒して作り上げた鎧はあんたの勲章だ。まさに竜騎士の中の竜騎士。竜殺しの英雄アーサーを知らない奴なんて世界にいるもんか」
「これはそんないいもんじゃないさ。でもありがとう」
「光栄だよ。そんな英雄と、あのレアーナの調査なんてさ。夢のようだ。ああ、握手してもらってもいいかい!」
流されるままにアーサーは男を握手を交わす。
アーサーは有名人だった。それは確かだが、こうして英雄扱いはどこかむず痒い。彼の性分とはあまり合ってないからだろう。
「今日は他の仲間は来てるのかい?」
「マスターが来てる。馬車は違うけど」
「ってことはルーデリカ・バルトメロイ! すごい、バルトメロイファミリーのクラマスとサブマスだ!」
男は興奮のあまり声を上げた。しかしこれには馬車の中にいた他の者達も同様の反応だった。皆一同にして声を上げ、それぞれがアーサーを讃えていた。ここにいる皆もまた歴戦の猛者であるはずだ。
アーサーは謙遜したかったが、それが過ぎると嫌味になることを知っていた。だからこそ自身の相棒を持ち上げる形でこの場を凌ぐ。
バルトメロイ。それはこの世界における冒険者、そのトップに位置するクランだった。たった七名だけの少規模クランだがその全員が英雄級の力を持つとされる。アーサーもその一人。そんな彼らがこの度の調査団の任命されるのは当然の経緯だった。
「着いたか」
馬車が止まる。アーサーにとって渡りに船だった。この自身を半ば信仰されているかのような雰囲気は嫌いだった。
アーサーは逃げるように馬車から一目散に出ていく。そんな仕草さえも彼らの眼鏡を通してみれば英雄が颯爽と馬車が出ていく絵になるのだから不思議だ。
馬車を出て、アーサーは柔らかい地面を踏み締める。一面は砂の大地だ。草木の生えない砂漠こそがレアーナ。それを分かってはいたが実際に来てみるとその異様さは格別だった。何よりも立っているだけで地面に沈んでしまいそうな感覚は一生慣れそうにないと思うほどだ。
馬車はよくこんなところを移動してくれたものだとアーサーは改めて運搬を担当する者たちへ感謝した。彼らは魔法を併用し、上手くここまで運んでくれたのだ。ここまでの旅はそれほど長いものでもないが、それでもかなり技量を要する。何よりも帰りも送ってもらうのだ。その技術と快適な旅路を提供する姿勢には敬意を表する必要がある。
足元ばかり見てられないとアーサーは次に目の前に広がる瓦礫を見る。それは遺跡と呼ばれるものだ。かつて国があり、建造物などの残骸だ。特に巨大なものは半壊した程度でまだ原型が残っている。
「これがレアーナ遺跡か」
かつてレアーナ王国と呼ばれた国家。そして滅び、その残骸だけが広がる地だ。
非常に歴史的に価値のあるものだ。アーサーは学者ではなかったが、知的好奇心は旺盛な方で興味はあった。かの有名なお伽話の真実に近づけるかもしれないというのが特に興味ある部分だろう。
未知を知りたがるのは人の本能だ。
灰色の巨城。煉瓦造りの見上げるほどの建造物は見る影もなく崩れ去り、瓦礫の城と化している。その有様は滅びの要因がどれだけのものかを想像するのが容易だった。
遺跡というより廃墟——というのは風情がない。アーサーはこう考える。
シンボルとも言うべき王宮をしばらく観察した後にアーサーは周囲を見渡す。そこにあるのは無数の瓦礫とそれを同じように観察する学者。しかし護衛の戦士の視線は別のところを見ていた。
アーサーも同じものを見た。そして思う。「ああ、あれは目立つ」と。
貴金属で編まれたかのような金色の髪、同じように金色の輝く瞳、作り物のような白い肌と美しい目鼻立ち、この場に似つかわしくない漆黒のドレスとそれに似合わない二振りの剣。その少女に見惚れない人間の方が珍しいだろう。
その少女はアーサーを見る。視線が合うとニコッと笑って近寄ってきた。
「やあやあ兄ちゃん。良い旅だったね」
「もう終わったかのような言い方だが、こっからが本番だからな?」
「遺跡調査はあたしたちの仕事じゃないでしょ?」
親しげな会話。それこそ長年連れ添った戦友か恋人か夫婦かのような距離感は他者にも理解できるだろう。
彼女の名はルーデリカ。ルーデリカ・バルトメロイ。アーサーの所属する冒険者クランであるバルトメロイ。そのクランマスターを務める少女。少女であっても強者。
それこそがルーデリカ。周囲の戦士は彼女の容姿に見惚れてるのではない。彼女がこれまで立てた英雄譚、それに焦がれた一人の戦士として尊敬の眼差しを向けているのだ。それ故に容易に近づける人間もまたいない。
「まあ、そうだが。お前は興味ないのか? この遺跡にどんな秘密が眠ってるのか」
「全然」
ルーデリカは本当に心底興味なさそうに言う。きっと彼女がそういうのだからそうなのだろう。
「あたしが興味があるのは今生きる人間が生み出すものだけだから。過去は振り返らない主義なのさ」
ルーデリカはこんな感じにサッパリしているのは今に始まった話ではない。見た目相応に燥いでると思ったら割とどんな時も冷静で淡白。それが彼女だ。表面上の態度では見抜くのはかなり難しい。
「過去から学べることもあるはずだがな」
学べるか、学べないかではなく。きっと過去が好きではないのだろう。だからこそ興味の矢印が無意識に後ろ(過去)ではなく前(未来)へ向く。それだけだ。
「アーくんってそういうタイプだよね〜」
「誰がアーくんだ」
「えっへへ。こんな絡みも数百回やってるのに、しっかりツッコんでくれるの好き」
強いて言うならばルーデリカという少女が興味を見出せるのは、こうした生で触れ合う行動。生きていると実感することなのだろう。実に彼女らしい。
「ルーデはお伽話の解明に興味ないのか?」
アーサーが尋ねるとルーデリカは「うーん」と唸る。両手を組んで首を傾げる仕草は彼女には似合わないとアーサーは心の中で笑う。顔に出しても分かりやしないのだが。
「今、あたしっぽくない仕草したって笑ったな?」
図星を突かれてアーサーは心臓が強く鼓動するのを感じた。口から溢れそうな程の衝撃。
「ハハハ、ソンナマサカ」
ニヤリと邪悪な笑みを浮かべてルーデリカはアーサーの顔を覗く。
「どれだけの付き合いだと思ってるの。分かるに決まってんじゃん」
「参った。さすがだよ」
アーサーは負けを認める。いやルーデリカ相手にはそれすら不要か。
「それでどうなんだ?」
どうなんだ——とは先ほどの問い「お伽話に興味はないのか」ということに関してだ。ルーデリカは再び考える。しばらく考えて
「ちょっとだけ興味あるかな」
と言った。
「おや珍しい」
「大戦前のお話でしょ? あたしが生まれる前のことはちょっとだけ興味ある」
ルーデリカはどこか遠く見るように言って。アーサーは「そっか」とだけ呟く。
昔にこの世界では大戦があった。九つもあった大陸とそれを繋いだ巨樹が消滅し、結果的にそれぞれの残骸が寄せ集まって世界は巨大な海に浮かぶ五つの島になった。
神々の戦い。黄昏の大戦。終末戦争なんて言われる大きな大きな戦い。
レアーナの地はそんな戦禍から逃れた希少な場所だった。奇跡的な産物なのか、それとも何かしらの力が働いた必然なのか、それはこれから調べてみれば分かることだ。
「アーサーさん!」
背後から声が聞こえた。先ほどの戦士が手を振りながら呼んでいる。
「呼んでるよ?」
「ああ、行ってくる」
学者たちも準備が整ったようだ。ようやくレアーナ遺跡の調査が幕を開けるのだろう。
「いやちょっと待て!」
「なんですか?」
水を差す声。今良いところだったのに。これから確信に触れるというところで大徳寺は那由多の筆を止めたのだ。
「なんだこれは?」
「読書感想文ですが?」
「浦島太郎どこよ!?」
「知らないですよ」
「いや知らないですよって……お前が書いてるんだろ」
「そうですけど。私は見たことを書いているだけなんで」
大徳寺はその言葉に硬直した。純粋に言っている意味が理解できなかったからだ。
そう、那由多は不思議なことを言った。「見たことを書いている」と。まるで本当に見てきたことをそのまま文章に起こしているかのように彼女は言ったのだ。
「見たってどこで?」
「さあ?」
私にも分からんとでも言いたげに那由多は大徳寺の顔を見た。
「でも見えたんです。浦島太郎のことを思ったら、なんとなくその光景が」
「考えてじゃなくて、見たものを書いているとでも?」
にわかには信じ難いと言いたげな顔で大徳寺は那由多を見ている。その表情の意味は理解できる。この話をした人間は同じ顔をするから。
「そうです。昔からよく見えるんです」
「昔っていつから?」
那由多は記憶を遡ろうとする。自分はいつからそういうものが見えるようになったのかを。
答えは分からない。記憶力の良い彼女が思い出せない。
「物心ついた頃から?」
片桐那由多には夢はない。だが昔から夢を見た。
こことは違う世界。そこでは魔法があった。空を飛ぶ竜の姿があった。耳の長い人がいた。妖精が歌っていた。
いつからこうした夢を見たのかを彼女は覚えていない。だが最初に見た夢の内容を那由多は今でも鮮明に覚えている。
一人の少年の旅。幼馴染の少女を救うために旅の末に邪悪なる竜へ挑み。人を捨てた英雄。
那由多は見ているだけ。その世界に決して干渉はできないけど、そこには確かに生きている者たちの世界が広がっていた。
幼少期の那由多はそれをよく周囲に話していた。特に両親に。
今日はこんな物語があった。あんな人がいた。こんな物語があった。ドラマのような逆転劇があった。どれもこれも喋った。しかし中学生に上がり、まだそんな夢物語を話す那由多を他人には奇異な存在に映っただろう。
いつしか両親の対応は変わった。那由多を何度も病院へ連れて行った。クラスメイトは那由多の話すことを一ミリも理解できなかった。
昨日のテレビではなく、流行りの映画ではなく、感動の泣ける小説ではなく、自身の妄想を話し続ける少女——片桐那由多は優秀だったが変な人。どこか頭に異常のある天才。これが世間が那由多に下した結論であり、彼女自身もそれをなし崩し的に受け入れた。
『ああ、私はおかしいんだな』
そう思うようになった。自分はおかしくて人と違う。だから周囲から人の姿は消えるのだと。
そうして那由多はこの話を他人にすることは一切しなくなった。
「ふーん。まあいいか、なんでも。お前くらいの人間になるとそれくらいできるのかもな」
大徳寺はそんなふうにサッパリと答えた。だが彼ならきっとそう言うだろうと那由多は知っていた。興味がないというよりかは関係ないのだろう。良い意味で気を遣わなくて済むからそういう対応は那由多好みだ。
「信じるんですか?」
「いや、俺には見えないからな。だがお前が見えると言うなら見えるんだろ。知らんけど。問題はお前が俺の課題にやる気になっているか否かだ。見える話が嘘か真か、どちらにせよ関係ない。お前さんがやる気になってくれた。これで俺は満足なのさ」
「要は信じてないんじゃないですか」
「俺は幽霊も神も信じてない。見えないものは信じないタイプー」
それに関してだけは那由多も同意見だ。見えないものは信じない。だからこそ見える那由多はその世界を信じざるを得ないのだが。
「好きに紡げ」
大徳寺の反応は予想通りであったが新鮮だった。それで十分だ。
否定されることは慣れっこであるが、わざわざ「お前はおかしい」なんて言われたくはない。那由多は内心ホッとするともう一度ペンを持つ。
「じゃあ、遠慮なく」
那由多は再び見る。こことは違う別の世界。
「というわけです。なのでアーサーさんが先行して安全の確認をお願いします」
「了解した」
周囲探索の結果、やはりレアーナ遺跡に敵性生物は存在しなかった。ただし王宮内の調査はまだ途中。その中で分かったことがある。
王宮には地下へ繋がる通路があり、その最奥には巨大な神殿があることが分かった。正確には地下神殿の上に意図して王宮を建てたのだろう。
そういう神殿には往々にして良くないものが眠っている。いや封印されていると言うべきか。
そこでアーサーの出番だ。彼が神殿を進んでいき、王宮と神殿の耐久性や危険な生物が潜んでないかなどを確認していく。もし危険があったとしても、彼ならばどうにでもなる。そういう信頼から生まれた策だ。
カナリアとも言う。しかしアーサーは気にしない。頑丈さには自信はあるし、誰か他の人間にやられても困っていたところだ。だからこそアーサーはルーデリカも連れず、一人で向かうのだ。
その決定に異議を唱えるものが一人。
「なんで私も一緒じゃないのさ」
不服そうにルーデリカは頬を膨らませた。
「いやお前手加減できないじゃん」
ルーデリカが選抜されない理由は明白だった。
ルーデリカは前衛で戦う戦士。二刀使いとして随一の技術を持つのと同時に魔法を併用する。というより彼女は天才ゆえに刀を振うと自動的に魔法が発動してしまう。その一撃は容易に地形を変える。そんなわけで屋内戦は苦手、特にこういう建造物を守りながらという戦闘は滅法苦手。だから彼女はお留守番なのだ。
「できるよ。剣抜かなければ」
「じゃあ黙ってお留守番しててね」
「はーい」
意図は伝わったようでルーデリカは不貞腐れたように言った。
「行ってくる」
「いってらさーい」
背後にルーデリカの声を感じながら、アーサーはゆっくりとレアーナ遺跡へ向かっていく。その姿を誰もが見ていた。
王宮の入り口には現在使われているような扉はない。石造りの玄関は数人が通れるほどに広いが半壊し、崩れ落ちそうだ。そこを潜る。
内部は砂だらけで視界は最悪。ほぼ砂の色だけで染まった王宮内はもはや住居としては機能していない。そもそも空が半分くらい見えているし、屋内という感じはしない。上階へ続く階段は壊されている。そもそもその上階そのものが存在しないのだが。
アーサーが見るのは下へ通ずる穴——剥がれた床から覗く地下通路へ降りる。何か巨大なものが落ちた、あるいは這い出たような大穴を落ちていく。
地下は老朽化しているが石造りの通路は人一人立ってもびくともしなかった。耐久性に関しては問題ない。だがそれよりも気になることがある。
「この染みついた血の匂い」
通路には血生臭さが充満していた。数百年、数千年経っても消えることはない独特の瘴気には覚えがある。
光の当たらない地下に目が慣れる。地下にはそこら中に血痕があった。未だなお赤々とした痕跡。それそのものが魔力と呪いを宿す血液。
「アタリか」
アーサーの冒険者としての勘が言っている。この先にとんでもないのが眠っていると。
臆することなくアーサーは進んでいく。ガシャと一歩ごとにアーサーの鎧から鳴る足音だけが響く。
地下には崩れかけた巨大な階段がずっと下まで続いていく。地下の通路は両脇に伸びて王宮へ戻るもので階段は一つだけ。
壁には壁画のようなものが描かれているがアーサーには解読できないし、絵も血で汚れて見えない。
「読めないってことは大戦前。言語統一前のものか。やはり歴史的価値は計り知れないな」
アーサーは腰に下げたポーチから手帳を取り出し、ここまでの記録を記す。一通りの記録を残すと「よし」と呟いてアーサーはまた歩み出す。
「こりゃ俺一人だと……死ぬかもな」
言いながらもアーサーは階段を降りる。まるで神を祀る神殿のようだが、この世界における神々は消えた。残っているのは中央大陸の神域に住む三柱の神のみ。
ここで眠るのは紛い物の神。あるいはそう称されるのに相応しい力を持った何かということ。
アーサーはその名をよく知っている。
「間違いない。邪竜だ」
そう呼ばれる生命体だ。
天変地異を司る世界を滅ぼす意思が受肉した存在であり、竜、あるいは別の生き物の形を持った災害。破壊衝動のままに行動するあらゆる生命体の天敵。
階段を降りる。天井を仰ぐと青空が半分くらい見えた。
「復活した。しかし再び封印された……のか。あるいは致命傷を与えられてまた眠っているとかが濃厚か」
真実はこの先にある。アーサーは余分な思考を止めた。
どれだけ歩いただろう。魔法でもかかっているのか、階段は無限に続くかのように思えた。しかし底は確かにある。
階段は最下層へ着く手前で崩れてしまっていた。そこからは底に着くまで落ちるのみ。かなり危険だ。だがここからでも見える。
白銀の鱗に覆われた巨体が体を丸めて眠っていた。
巨体といっても竜種の中でも小ぶり、アーサーの二、三倍の全長と予測できる。
「さて、降りるべきか。それとも戻るべきか」
アーサーはどうするべきかを迷う。まだ眠っているなら幾らかの対策は打てる。それなら降りるべきだ。しかしこの個体がすぐにでもこちらの気配に気がついて、目覚めてしまうならば戻って態勢を整えるべきだ。
白銀のドラゴンを眼前に控えながらもアーサーはその経験から冷静に対処する。
アーサーは長考の結果、戻ることに決めた。踵を返し、階段を後戻りしようとする。だがそれはできない。
ふう——とアーサーはため息を吐いた。
背後には白銀のドラゴンが浮遊していた。その真紅の眼光は間違いなく正面にいるアーサーを睨んでいる。
人型に近い強靭な四肢。特に前足は腕と言っていいほどの発達を見せ、二足歩行も可能な個体だと分かる。それを覆い尽くせるほどの巨大な翼で飛行をする。尻尾も長大。アーサーの目測通りの大きさ。口には巨大な牙が並び、美しい白銀の鱗は陽の光を反射して輝く。
竜騎士とドラゴンは向かい合う。手を伸ばせば届く距離。睨み合いから硬直しているが、数秒の硬直の末に均衡は破れる。
先に動いたのはドラゴンだった。右前足、もはや腕として機能するそれは鋭い爪による斬撃を伴って真横に振るわれた。
アーサーは飛んだ。そしてドラゴンの肩に飛び乗った。その手にはいつの間にか刃渡り一メートルほどの剣が握られている。一切の躊躇なく、剣をドラゴンの肩へ突き入れる。そのまま押し込めば心臓部まで到達しうる一撃。
ドラゴンは痛みに叫んだ。しかしすぐに反撃へ移る。アーサーごと肩を壁へ叩きつけた。
それは自身も傷つける行動だった。アーサーはこの程度では振り落とすことはできず、ならばとドラゴンはそのまま底へ向かって落下していく。
「やっべ!?」
咄嗟にアーサーは剣から手を離して距離を取る。地面に叩きつけられたドラゴンが平然と立ち上がりアーサーを睨む。肩には剣が刺さったままだ。
ドラゴンは唐突に両腕を地面に着くと四足歩行の体勢を取る。刹那——その体は光り輝き、ドラゴンは咆哮を上げる。
剣は肩からひとりでに落ちた。内部から傷が修復されたのだろうと、アーサーは予測するがその前に行った行動が妙だった。
もう一度攻撃が来る。そう感知しアーサーが身構えた瞬間だった。なぜか全身から急に力が抜けた。緊張の糸が切れたかのように一瞬、体がフラついたのだ。その隙をドラゴンは見過ごさない。
アーサーを踏み潰すように腕で地面へ叩きつけた。ドラゴンは追撃をしなかった。きっと地上にある多くの気配を気取ったからだろう。その中に膨大な魔力を内包する者が存在することも。だから翼を使い飛翔した。
直上——ドラゴンは地下神殿を飛び出し、そのまま地上へ這い出た。最中に王宮を破壊し、地下神殿を崩落させるように。
空から降り注ぐ多くのレアーナを構成していた要素である残骸を見たことが、アーサー最後の記憶だった。
「それで? アーサーはどうなったんだ?」
「さあ?」
那由多の筆はそこまででピタリと止まり、それ以降、彼女が何かを記すことはなかった。大徳寺はいつの間にか話の内容が気になっていて、続きを要求していた。
「見えなくなりました。続きは明日になるか……来年になるか」
「次の夏が来るぞ……」
大徳寺はその言葉を冗談として流すべきか迷った。片桐那由多という人物なら本気で言いかねないからだ。そして彼女はいたって本気だった。
「じゃあ先生は狙って夢の続きを見れるんですか?」
「そりゃ……無理だけど。俺あんま夢見ないし」
「そういう感覚です」
「あー納得」
凄く分かりやすい例えだった。
那由多が何かしら意図して夢を見ているわけではない。夢として違う世界を見る頻度も光景も完全にランダムだ。ある程度は「見るぞ」という気合はいるが、だからといって「よし続きを見よう」と思っても見えるものではないらしい。なのでこれまで那由多が見てきたものは断片的なものばかりだ。
そしてこの夢は未だかつて起きた状態で見たことはない。これまでにそんなことはなかったが、何かに導かれたように光景が浮かんだ。これが白昼夢というやつか。
「とにかく今日はここまでですね」
「なーんかスッキリしねえな」
「それは私もです」
正直、那由多も続きが気になっている。続きというと漫画の最新刊を強請るような感覚だが、まさにそれだった。今すぐ見たいという衝動がある。しかし同時に続きが本当にあるかなんて分からない。これは那由多が見たいように見ている、ただの妄想なのかもしれない。そんな不安はついて回る。
「続き、どうしよ」
結局、那由多の夢の中に浦島太郎は一切出てこなかった。でもなぜあの夢を見たのか。どこか暗示的ではある。
「もう昼じゃねえか」
大徳寺が時計を指す。確かに時刻は午後十二時。普通の学校だったら丁度、昼休憩の頃合いだった。
ここまで那由多は必死に感想文を進めてきたので時間感覚を完全に忘れていた。彼女自身の腹も空であることを訴えるように鳴っていた。
「昼食にしましょう」
「俺も食ってくるかなぁ」