第四章 『世界を視る瞳』二
雨が降る。天気予報はこの先ずっと晴れだったのに。きっとこれから天気はもっと荒れる。風は吹き荒び、落雷が落ちるだろうと男は予想する。
全て、全てを思い出せた。自身にまつわるあらゆる記憶を失っていたが、あの少女——那由多の千里眼は正確に男の記憶の断片から過去の事象を巻き戻してくれた。おかげで全てを思い出せた。
案外、芋づる式に記憶というのは思い出せるらしい。男は思い出せた。しかし少女の方は真実へは辿り着いていないだろう。
あらゆる事象を巻き戻して見ることは彼女にとって酷だろう。これ以上、付き合わせる必要はない。危険にも巻き込む必要も。
男は嘘をついた「全てを思い出したわけではない」と。そんな嘘を吐いたのはこの時間、自分が一人で決着をつける時間が必要だったからだ。
降り頻る雨の中、傘も差さずに男は歩く。向かう場所は分かる。相手もきっと男を待っている。
「いや、もう待ってはいないのか」
相手の目的は自分ではない。だからこそ男はそこへ向かっているのだ。自身の片割れ——邪竜ヴァン・ウォードの半身。
男もまた邪悪なる竜の半身。かつてレアーナを滅ぼした厄災にして災害。それに挑んみ、情けなく敗北し取り込まれた。しかしなぜ彼は今、生きているのか?
冒険者アーサーは言った。「お前は生贄になった後、精神力で邪竜の呪いに打ち勝った」そして邪竜は二つに分かれたのだと——だがそれは違う。
「アーサー様は私を買い被りすぎだ」
違う。決定的に違い過ぎる。
辿り着いた場所は彼が、彼らがよく利用した船城高校、その図書室。そこに生徒の姿も教師の姿もない。ただ空っぽな廃墟のように学校は静かに佇むだけだった。
(人の気配が無さ過ぎる。結界か。敷地内は異界も同じ……入ったら二度と出られないだろう。だがそれでいい、戻る気はない)
校舎内に入ってもなんの違和感も感じない。雨音が廊下からでもはっきりと聞こえる。このまま全てを洗い流すまで降り続けると言っているようだった。
雨はまだ小雨だった。しかし、それはまだ目覚めていないから。
図書室の扉を開くとその人物は当たり前のように席に座っていた。本を読むわけでもなく、勉強をするわけでもなく、ただ窓の外の景色を見ていた。
「この世界は美しいですね……」
男が辿り着いたことにそれも気がついているのか、一人呟く。
「反吐が出る」
それは心の底から出てきた言葉だったのだろう。声音から明確に殺意を感じる。世界への殺意。
「あなたもそう思いませんか?」
そう言ってそれは踵を返して男を見た。男と全く同じ顔、しかしそれは不敵に微笑んでいた。邪竜——ヴァン・ウォードだ。
「思わない。この世界は君の言うとおり美しい。だからこそ守らなければならない」
「嘘ばっかり。分かりますよ? あなたは私なのですから」
男はそれに対し言葉を上手く用意できない。きっと何を言っても伝わらないのだろうと、それを悟っている。
「邪竜風情があまり人を気取らない方がいいですよ。半身とはいえ、勢い余って殺しそうになります」
邪竜は表情だけ笑っている。でも一度たりとも、その怒りが収まったことなどない。常に怒り続けている。言葉の端々にはそれが滲んでいた。
邪竜は図書室をグルリと一周する。とある本棚の前で止まると一冊の本を取った。有名なお話。
男も知っている物語。
「ウラシマさん。このお話知ってますか?」
浦島太郎をパラパラとめくると邪竜は嘲笑した。
男には名前はない。思い出せないのではなく、思い出す名前がそもそも存在しない。名を持たない一族として生まれたから、それが当たり前のように生きてきた。
彼に名前がついたのは、それから遥か未来の話である。ウラシマ——聞いた時から馴染み深いと思っていたが、その理由がようやく分かった。
「これはあなたが作った物語ですね?」
自分自身でつけた名前だからだ。浦島太郎という物語を作ったのは男だった。
「なぜこんなふざけた話を?」
「君の目的はやはり……」
男の予想は当たった。勘付くとあからさまに口を噤む。
「だから彼女を——那由多様を利用したのか?」
「あなただってそうでしょう? 記憶を取り戻すために彼女を利用した」
その通りだ——男は自身の罪悪感を自覚しながらも、決意を胸にその言葉を発する。
「君が私の姿をしているのは、彼女を効率よく利用するためでは……ないな」
「逆よ。あなたが私の姿をしている。醜い邪竜が記憶のカケラを頼りに形作ったのでしょうけど……不快です。早く元の姿に戻ったらどうですか?」
「私は——」
もう何を言っても意味はないのだろう。男は悟った。そして最後の覚悟を決める。いや、覚悟はすでに決まっている。記憶を取り戻した瞬間から。
「外へ行こう。この場所は壊したくない」
「ああ、そう。そういうの……本当に反吐が出ます」
男の視界が揺れた。同時に腹部に鈍い痛み、ガラスが砕け散る音と襲いかかる浮遊感。肌に触れる雨の感触と重力に惹かれ、地面へ落ちる感覚。その全てがほぼ同時に男へ襲いかかった。
「ぐぁっ!?」
気がつけば男は濡れた地面に横たわっていた。呼吸を忘れていたように地面に叩きつけられたと同時に空気を吐き出す。
どうやら蹴り一発だけで、廊下側の窓ガラスを突き破って校庭まで吹き飛ばされたらしい。
割れたガラスが雨と共に降り注ぐ、その中を男は立ち上がる。正面には男と全く同じ顔をした邪竜が立っている。
走る。地面が湿ってぬかるんでいたが、男の速度が落ちることはない。一秒も掛からず三メートルほどを詰める。男の拳が空を切る——いや雨を殴った。
刹那の反撃、向かってくる拳を男は避ける。更なる反撃。拳のみの肉弾戦。
この世界とは違う存在の戦いにしては魔法も何もない地味なものだった。男子高校生が行う河原での喧嘩に等しい。ただし、それは字面だけの話だ。
根本的に質が違う。それは技術的な話であり、破壊力の話でもある。精錬された一撃は相手の行動を制限するのに十分な威力を発揮する。そして確実に急所を狙う技量。何よりも魔力が上乗せされ、目視不可のレベルまで昇華された。まさに必殺。
当たれば人体など簡単に破壊され、腹部、胸部、あるいは頭部に当たれば致命傷だ。四肢に当たれば確実に欠損する。
防御は魔力の一点集中で防ぐ。これで通常の打撃にまで威力を落とす——ことができるはず。しかし男の方が不利だ。
少しずつ男は押されていく。肉体へのダメージが蓄積していく。
出力は同じ。本体から隔たれ、完全に二分された男と目の前の邪竜。しかし、こうも差が出る。
(そうか、私から魔力を吸収しているのか)
僅かな接触により邪竜は少しずつ、男から魔力を奪っている。これが二人の明確な差。男にはなく、目の前の邪竜にはあるもの。
「早く元の姿に戻らないと死にますよ?」
悔しいが邪竜の言っていることは事実だ。二つを明確に分ける要素を覆す手は男にはない。
言われるがままに男は内なる力を解放する。体長は三倍ほどに膨らんで、その肉体は白銀の鱗に覆われた。四肢はより強靭に、爪と牙は鋭く、その眼光は人のそれではない。背中からは全身を覆うほどの巨大な翼が生える。
ヴァン・ウォードの真体。男と違って邪竜はその姿を取らない。人と竜。しかし実際には男と邪竜は逆。
男は圧倒的に有利な体格差を利用する。腕を払うだけで人など粉々にできる。薙ぎ払った腕に邪竜は確実に当たり、その体を校舎まで吹き飛ばした。しかし激突はせず、壁際で体勢を立て直した邪竜はそのまま壁に垂直に立っている。
「っ!」
息を吐く。全身に力を込めると飛翔——いや跳躍する。一瞬の内にその巨体は校舎の目前まで移動した。再び拳を握る。人間の肉体とは破壊力も速度も桁違いだ。
「壊したくないというのは嘘ですか?」
もはや構っている暇ではない。目の前の存在は完全に自分より格上だと認めた。それ故の行動。拳は校舎を軽々と粉砕する——邪竜を捉えることはできない。しかし移動先は見える。先回りして二度、三度の接触。
邪竜は攻撃を避ける。防ぎはしない。つまり防げない。魔力の吸収と防御時のダメージが釣り合わないと判断したのだ。
押している。だが一手足りない。
本来の力を解放し、長く戦い続けることはできない。男には核である心臓がない。魔力を体内で生成することができないのだ。つまりこの力の解放は捨て身。戻ることは決してできない。
(まんまと乗せられた。違う——どちらにせよこの形態でしか決着はつかない。それに勝機はある)
男にとっては時間制限付き、相手にとっては持久戦。しかし、時は来る。魔力が足りない——男の動きは少しずつ鈍くなる。
道が創られているようだ。敗北への道。この学校の敷地内に入った瞬間から確定された道だ。それ以外に歩む道はあっただろう、そこへ案内された。だが突き進むしかない。
残った魔力を余すことなく燃やす。否、命を燃やす。自分の手中にある全てをこの一瞬のために使い果たす。
(加速しろ——何よりも速く)
瞬きの間、それで足りる。今では一秒が一分にも感じるほどの速度。
届く、この拳は地面へ降り立った邪竜の着地を確実に取ることができる。先回りした一撃。言うなれば未来からの一撃。
拳は間違いなく邪竜の肉体を粉砕できる。男と同じく邪竜には核となる心臓を持たない。完全に霧散させれば再生はできない。
ああ、間違いなく殺せる。
邪竜の顔が男を見た。その口元が言葉を紡ぐ。永遠に感じるほどに長く、限りなく遅い時の中で口は動く。構成する言葉は「じ」「か」「ん」「ぎ」「れ」。
「一手足りなかったですね」
邪竜に当たる寸前で拳はピタリと止まった。魔力が途切れた。力無く、男の巨体は糸の切れた人形のようにその場で頭を垂れるように崩れ落ちた。
スッと邪竜の手が首を撫でる。簡単に首は地面へ落ちた。血は流れず、人形の首を落としたようにすんなりといく。
終わりだ。どうやら決着はついたらしい。
「ああ、一手足りなかったな」
「っ!?」
落とされた首が跳ねて、大きく口を開けてそのまま邪竜を飲み込んだ。
首の先にだけ僅かな魔力を宿させていた。この一瞬だけ動くように。それこそが唯一の勝機。
邪竜という存在は生命体という器を持つがあまり意味はない。生命体という形に縛られているが首を捥ぐ程度では活動は止まらない。
心臓がないという意味では首を落ちるような怪我は致命傷となる。しかしほんの僅かならば動ける。生命体の枠を超えたものだからこそできる芸当だ。
最後の最期で油断を突いた。自身も瀕死——あるいはそのまま死ぬことも覚悟の捨て身の一撃。まさに諸刃。
校庭に横たわる竜の死骸はその形を泥のように変質させ、元通りに人の形へ戻る。邪竜の魔力を取り込むことで男はかろうじて形を保つことができる。
「危険な賭けだったが……上手くいった」
絶対的に魔力量で劣る邪竜に勝利するためには喰らうしかない。分たれた二つを一つに統合する。
「これで後は私が死ねは全ては解決だ」
邪竜を殺せば終わる。つまり力の統合させた男を殺せば、これらの戦いは終わる。悲劇を終わらせることができる。
魔力はもう残り少ない。男に残された時間は余りにも短い。目指すべき場所は那由多の家だ。
「きっとアーサー様とルーデリカ様なら私を」
殺せる。あの二人ならば確実に。戻らなければ。
『誰、それ? ああ、桁違いの二人ですか』
内側から声が聞こえる。まだ消えることのない怨嗟の声。呪いの根源。
神などの強すぎる魔力を持つ存在から漏れ出た魔力の歪み。膨大な魔力の中に発生した一つの意思。それはやがて生物の姿を模し、世界を破壊するために行動を開始する。
そうした存在を異世界フロリアでは邪竜と呼ぶ。かつて終末戦争よりも遥か昔に現れたファブニールと呼ばれた竜と、それを殺した英雄の逸話から取られた生き物ではない生き物。意思を持った災害。
邪竜の中にはあらゆる意思が内包し、常に肉体の主導権を争っている。元より存在する世界への破壊衝動に勝るほどの精神力があるならば、人だろうと邪竜を掌握できる。
今、男の中には意識を奪うほどの強力な意思が二つ宿っている。先ほど喰らった邪竜の意思はまだ生きている。
その声は男の中から聞こえている。早くしなければ呑まれる。
「まだ大丈夫」
自分に言い聞かせる。間に合う。
「ウラシマ!」
見知った顔がやって来る。どうやら間に合った。彼らは男が思うよりも遥かに優れていたようだ。
鎧の男、金髪の美少女、制服を着た少女、そして白衣姿の男。それを見て男は安心した。
声を掛けられると男は手を振った。駆け寄ってくる四人の方へ男も歩いて行く。
待て。何かがおかしい。
安心している——男ではない。中に存在する意思。邪竜がだ。
ふと視線が空を見る。雨は降って……微量の魔力が周囲を覆っている。あれは結界。この敷地内を覆う人避けのための結界。なぜあれがまだ存在している?
違和感。
歩みを止めなければならない(止める必要はない)。
彼らに近づいてはいけない。(もっと近づかなければならない)。
彼女の狙いはただ一つ。彼女? 彼女とは誰だ。
手遅れだ。
『私の方が強い』
もう身体は彼女のものだ。
その狙いはただ一つ。最初から、そのためだけにこの世界へやって来た。
「良かったここにあった」
『逃げてください!』
声は届かない。いやそもそも声が出てない。もう身体は動かない。
ウラシマ——そう呼ばれる存在は仲間と呼んでいた四人へ向かって歩いて行く。笑いながら、命辛々の勝利を演じる。
フラフラの身体を引きずって仲間へ寄りかかる。それは白衣の男。こちらの世界の守護者。
名を持たず、一つの使命を守るためだけの存在。肉体を捨て、思念体となった者たち。
「予感はあった」
彼らはゴースト。幽霊のような存在だ。それそのものは意思はあっても魔力は宿らない。ならば魔力を使用する器量は肉体に左右される。
この世界の人間は神を失い、魔法の才がない。同時に内包する魔力も微量、あるいはない。魔力を生み出す心臓もまた脆弱。
魔法の才能に関して思念体らでなんとかなるだろう。問題は魔力に耐えられる器と、魔力を生み出す核。
片桐那由多は生まれつき千里眼を持ち、魔力を無意識に使用できる。しかしその肉体強度は一般人だ。無理に魔法を扱えば肉体への負担は大きい。
そうなると現代の人間の肉体を借りるという行為は酷く不安定かつ危険だ。出力は安定せず、肉体は負担次第でダメになる。世界を守るというには心許ない。
そこで考える。この世界にはおそらく守護者となる才覚を持つ人間がいる。守護者の血族はこの世界中に点在するのだろう。一世代に生まれる魔法への耐性を持つ人間。しかしそれでは足りない。絶対的な魔力量。それが足りない。
異世界から存在に対抗しうる存在が必要だ。足りないのだ。
邪竜に匹敵しうる魔力を持つ物質。核となる存在がある。
「そこにあったんですね」
ウラシマ(邪竜)の腕が伸びる。真っ直ぐに守護者、大徳寺の胸へ——そこへ手を伸ばすと肉体を貫通し、心の蔵を掴む。
「なっ!?」
そのまま手を引き抜く。果物を捥ぎ取るように簡単にいく。いつのまにか脈動する物体が邪竜の掌に収まっていた。
赤が溢れ出す。真っ赤な血が溢れ出る。止めどなく、守護者の胸は赤く染まり、そのまま地面に倒れた。
「みいつけた。私の心臓」
何が起こったのか理解できているのはただ一人だけ。この一秒未満の惨劇を誰もが眺めているしかない。
邪竜は大きく口を開けて、真っ赤な果実を頬張る。ゴクリと首が動くとそれを丸呑みにして腹に収まる。
「ウラシマ、何を?」
ようやくアーサーが声を出した。だが混乱しているようでまだ動けない。目の前で起こったことが整理できないのだ。
最も早く反応したのは心臓を引き抜かれた本人である守護者だった。倒れるも早く蹴りをいれる姿に邪竜は感心した。
一歩下がると守護者の攻撃は空を切り、守護者は力なく倒れた。しかしこの行動だけで冒険者二人にとっては十分過ぎる間だった。即座に標的を定め、行動できる。これ以上勝ち誇った思考回路は危険だと邪竜は判断する。終わってない。
特にルーデリカは面倒だ。しかし一度逃げてしまえばこちらのものだ。
(っ!?)
一瞬、判断が鈍る。あの男の思考が邪魔をする。その一瞬の隙を捉えられた。ルーデリカの二本の剣が同時に邪竜の胸を一切の迷いなく貫いた。
(誤算でした。この男の意思を見縊っていた。それにこの剣、ただの剣じゃない……神が生み出した兵器ですか。これでは活動は難しい)
もはや飛翔し逃げることはできない。致命傷、しかしまだやり直せる。時間さえあれば。
(この速度で反応してくる敵に対し、逃走はむしろ悪手)
消えゆく意識の中で生存する方法を模索する。生き残ることに関してはこちらが上手。
「皆さん、真実を求めてください。まだ隠された何かが残っている」
途端に意識が消える。邪竜特有の休眠が来た。肉体へ極度の傷、あるいは魔力の過剰消費により肉体は深い眠りにつく。
(真実を担保に数時間を稼ぐ。あなた、那由多様なら必ず乗って来る)
部の悪い賭けだと思うだろうか。否、邪竜は信じている。彼らは必ず真実へ至るために千里眼を使う。ウラシマという存在と関わりを持ちすぎたのだ。邪竜と分かっていて接していた彼女らは情を捨てきれない。より良い終わりのために愚を犯す。
では、また会いましょう——人間様。




