劈開する運命の下で
《1》
「女王様。『ベル』が直接話がしたいと申し出て来ました」
鈍く光を反射する甲冑に身を包んだ兵士が、玉座の前に膝をつく。玉座には豪華絢爛な真紅のドレスで身を包んだ女が、肘をついて兵士を見下している。
その威圧感のある見た目通り、この女は大陸の半分を手中に収めた大国《ルーデンス王国》の女王である。女王は煉獄を思わせる赤いリップで彩られた口を重々しく開いた。
「……奴は、今ここにいるのか?」
「はい、連れて参りました。女王様にあの呪われた地を歩かせるわけにはいきませんので——」
「その者を追い返せ」
女王は兵士の言葉を遮るように、よく響く声で言い放った。
「……女王様、今なんと?」
「聞こえなかったのか? その者を追い返せと云ったのだ」
女王の声は決して大きなものではなかったが、それでも広い城をグラグラと揺らすほどの覇気が込められていた。
「あの少年は障害だ。あの少年が『外の世界を見せてやりたい』だの、『笑っている顔をもっと見たい』だの……綺麗事ばかり並べるせいで、国の繁栄に関わる計画を動かせないままでいる。本当につまらないガキだ」
女王は、部屋に入った蚊の始末の仕方を考えて憂うような顔であった。その表情は、蚊を喰らう蜘蛛の役目を担う兵士には重い圧だ。
「女王様!」
しかしその圧に屈せず、ずけずけと王の座に近づいていく人影が一つ。服は質素そのもので、薄汚い麻製の物。その中で異常とも言える輝きを放つ黒の宝石が、この人間の立場を示している。
「……全てお話は伺いました。僕も、この計画があなた方にとって重要な意味を持っていることは重々承知です。でも僕の、僕と『オルロフ』の願いを聞いて頂けなければ、僕の返答も変わりません」
ふわりとした黒髪、夜空で青白く輝く満月を封じ込めたような瞳。儚く切なげなその少年は、首の石に触れ、女王を見上げた。
「……こいつを摘み出せ。抵抗するようであれば、痣をつけても構わん」
女王はここで初めて、明確な怒りを露わにした。
《2》
少年は褪せた色の背の低い草が生える原に、騎士の鋼鉄で覆われた手で放り出された。
「痛ッ……」
「女王様はお前をお呼びでない。どうお前が足掻こうと、計画は実行される。次の赦しはないと思え、二度と女王様の前で口を開くな」
「……ッ」
少年は無言で銀装の騎士達を睨む。兜の中へその意思が通じたかは定かではないが、これが彼のできる精一杯の威圧であった。
「……やっぱり、だめかぁ」
少年は芝の上に寝転がった。見上げる空は灰色一色ですっきりしない。空気もどこか湿っぽく、心地の良い天気ではない。
彼はまた、首から提げた黒い宝石を触る。こうしていると、どこでも友人の気配を感じ取ることができて落ち着くのだ。
少年の名は「ベル」。辺境の呪われた地に一人暮らす、身寄りのない子供だ。しかしながら、彼は書類上では《ルーデンス王国》の国民であることになっている。そんな彼がここで暮らしているのには、ある理由があった。
「……ベル、もういいと言っただろう」
ふと、ベルの上に影が落ちる。
ベルに語りかけたのは、その影の主人であり、宝石から感じ取れる気配の元の持ち主。その僅かに幼さの残った変声期を終えた少年のような声とは裏腹に、影は彼を覆い隠してなお有り余るほど巨大。
ベルは頬を緩めて、影の主と目を合わせた。
「オルロフは相変わらずだね」
彼の目に映ったのは、漆黒の鱗に覆われた顔。体を起こして見える全身も同じように、夜より深く、影より濃い黒に染まっている。その体から生える角や爪は、宝石に瓜二つな輝きを放っていた。
——黒竜。
それが影の主、「オルロフ」の正体だ。
「ごめんね。僕の説得が下手なせいで……でも大丈夫、次こそはちゃんと話を聞いてもらって、のびのび飛べるようにしてあげるから」
「……それで、何回目だ」
オルロフはギラリと光る爪先を、ベルの喉元に突きつけた。ベルはゾク、と本能がざわめくのを感じるが、それでもオルロフの金色の瞳を見つめるのをやめない。
「確か……もうすぐ足の指も足りなくなるくらいかなぁ」
ベルは答えながら、大きく伸びをする。己が友人に恐怖を覚えたことを自覚しながらも、それは当たり前のことだと割り切っているかのように笑っている。
「でも、『次こそは上手くいくはず』って思うと、これくらいどうってことない気がするんだよね。友達のためなら僕、いくらでも頑張れちゃうんだから」
「俺がここから解放されたところで、お前の思うような自由が手に入るとは思えないけどな。……俺は『邪竜』だ。ここから出たところで、騎士か魔術師が俺を……」
「そんなしけたこと言わないの! ほらオルロフ、もっと笑って!」
竜に対して天真爛漫に振る舞うベル。彼はこの地に縛り付けられている「邪竜」であるオルロフの、封印を続けるための贄である。呪いの地の呪いから生まれた邪竜に寄り添い、世界へと踏み出すことを防ぐため、国の孤児院から選ばれた身なのだ。しかし、ベルは自分が「邪竜の贄」で終わることを、よしとしなかった。
彼はある日、邪竜自身が諦めていた「自由に飛びたい」という願いを聞いた。彼は、オルロフが国を滅ぼす可能性のある邪竜と知りながらも、彼に「自由に世界を飛び回る」という夢を叶えさせるために、女王との勝算のない交渉に明け暮れているのだ。
「君がなんと言おうと、僕は君を自由にすることを諦めないよ。たとえこの身が朽ち果てても、僕は君が心の底から自由を噛み締めてる姿を見たいんだ。雄大な青空を、君が自由に飛び回る姿を……」
「お前が死んだら、見せられるもんも見せられなくなっちまうぞ」
オルロフはその大きな爪の甲で、ぐいとベルの額を押した。ベルは簡単に後ろに倒れて、笑った。
「ははは、やっぱり君は優しいよ。心配してくれてありがとうね、オルロフ。僕のことをこうも思ってくれるのは、君だけかな」
「……フン、俺が心配してやらないと、お前は勝手に死んじまいそうだもんな。納得だ」
「もう、素直じゃないんだから」
「今なんか言ったか?」
なんでもないよ、と言って、ベルは霧に濡れた芝の上を走る。少し乱暴に扱えば壊れてしまうであろう、小さな体。それが元気に跳ね回る度に揺れる首飾りを、オルロフは静かに眺めていた。
(——俺はお前が隣に居てくれさえすれば、それでいいんだよ)
《3》
それから何度か太陽と月が入れ替わった後のこと。呪われた野道を踏み締め、黒龍の住まいへと向かう、複数の人影があった。
「女王様、無茶をなさらないでください! 呪いの大地に立てば全身が邪悪に蝕まれ、永遠なる苦しみに包まれるという話、この国の長という立場でご存知ないはずがないでしょう!?」
「私の王国の魔術師を連れているのだぞ? そんなもの、怖くなんぞないわ。それに、あの少年はここで暮らしているというのにあれほど活力が有り余っている。呪いなどきっと迷信だ、恐れるだけ馬鹿馬鹿しい」
周りに立つ兵士と魔導士は困惑の色を見せながらも、防御魔法と堅牢な盾で防御網を構築し、女王を絶対に傷つけさせない意思を示している。彼女が何故、わざわざ地を歩いて邪竜のもとを尋ねるのか。その理由は、まだ彼女自身しか知らなかった。
「——邪竜よ、私だ。貴様に話がある、出てこい」
女王の声は、空気を凍らせる響きを伴っている。濃霧が立ち込める奥、巨大な黒い影がこちらに迫る。巨岩にも見えたそれは、確かにこちらへと近づいてきている。その翼をあえて使わず、じりじりとこちらに来るそれの目は、カッと見開かれている。
「……今更何の用だ、ラクリマⅢ世」
「せめて『様』をつけたらどうだ。貴様は相変わらず不敬だ」
「それを咎められる由はない。俺はお前の隷属じゃないからな」
「チッ……まあ、良い。ところで、ベルの奴はどこだ?」
「寝ている。お前を説得するのに、体力を使いすぎたようだからな」
オルロフは女王を見下して応対する。体格は彼に部があるが、風格は女王の方が上。彼は『邪竜』を名乗るプライドと、親友に指一本触れさせてたまるかという決意の下に、《ルーデンス王国》女王、「ラクリマ・ルーデンスⅢ世」を威圧していた。
「なら、都合がいい。邪竜よ、貴様に頼みがある」
女王は兵士に持たせていた紙を、邪竜の元へ突き出した。オルロフはその内容を読み切った直後、その紙に火を吐いて焼き消した。
「……馬鹿なことを考えたな」
「『魔石の竜は世を正す、愚者を滅する神の怒りで』……一体何について語られた伝承なのか、貴様が一番よく分かっているであろう?」
「ああ、よぉぉく分かっている。だが俺の役目は、人に愛想を尽かした神に代わって、人を屠ること。その『愚者』にお前が含まれていることを、わざわざ説明する必要があろうとはな」
「ほう。ならば伝承をもう一度読み返した方が良いか?」
「……なるほど。お前は、自分こそが神だとでも言うつもりなのか」
「いや、私は『まだ』人だ」
女王は天を仰いで笑う。その笑顔は、彼女が人ならざる領域に精神を踏み出していることを端的に示す、悍ましいものだった。
「我々《ルーデンス王国》は必ずや大陸の全てを支配し、全ての人間を我が国民とする。さすれば私は、ルーデンス王家はまさしく神が如き権力を手に入れられるというわけだ……貴様との契約は、その確定的な未来の前借りに過ぎない」
「理解できないな。お前は『十倍にして返す』と言って、大して親しくもない友人から大金を借りようとしているんだぞ」
「……私をそんな愚か者と一緒にするな。私は少なくとも、私の国民に対しては神の如き権力を持っている。例えば、私が少し指示を出すだけで、何の罪のない国民を斬り殺すこともできる。そしてその国民に誰が含まれているのか、貴様は知っているのか?」
「……そういうことか。それが、本当の取引材料か」
「そうだ……私は貴様の『夢』の生殺与奪を握っている」
女王は彼を小さく鼻で笑うと、彼に背を向けた。
「三日後、我々は隣国との戦闘を始める。貴様が我々の兵士たちと肩を並べる瞬間、心待ちにさせてもらうぞ」
オルロフは拳を握りしめ、ただ地面を見つめることしかできなかった。濃霧が肺に、まとわりついた。
《4》
「なあ、ベル……もしも俺が突然いなくなったら、お前はどうする?」
親友からの突然の質問に固まるベル。
「……突然何さ」
オルロフのやけに冷たい語気に引っ張られて、ベルの返答も冷たくなってしまう。今日のオルロフには、悲壮の色が見えた。深く問い詰めてはいけないような、そんな気配。
「うーん……じゃあ、仮に僕が世界の果てまで歩き回って君を見つけたとするよ。でも、僕は君を連れ帰ろうとは思わないな」
ベルはオルロフの、夜風にあたってひんやりとした黒の鱗に頬を押し当てて言った。
「だって、君が僕と一緒にいるのを嫌がってたなら、僕だって居心地悪いから。僕は、君が心の底から笑えたらいいなって思うだけ。その笑顔の理由が、僕じゃなくても構わない。それに世界中飛び回るなら、一回くらい迷子になるのも、それはそれで楽しいかなって」
「……そうか」
オルロフは表情ひとつ変えなかった。だが、彼の手はそっと、ベルを離すまいと彼を抱き寄せていた。ベルもそれを受け入れるようにして、その腹に手を回す。より体が密着して、鱗の奥に潜んだ体温を、なんとなくだけれど感じている。それがもどかしくもあって、でもきっとこれが一番心地よいのだろうと、ベルは小さく笑った。
「……質問を変える」
だが、その笑顔もすぐに冷めてしまった。迫ってくる悪夢の時を前にしては、どんな朗らかな陽気を前にしても、心は冷たいままだ。
「もし、俺が正真正銘の『邪竜』になったら、お前はどうする?」
「それは……役目を果たすだけだと思うな」
ベルは首元の宝石を、空に掲げる。その宝石は、オルロフの角や爪と全く同じ漆黒の輝きを持っている。
これはオルロフとベルを繋ぎ止めるための魔道具であり、実際にオルロフの角から削り出したものだ。ベルはこれを通じて、ぼんやりとオルロフの存在や居場所を知ることができる。そして急を要する事態が訪れた時には、オルロフの力を自らに移し、そのまま自分ごと葬ることもできるという。
「……僕は、そんな日来ないって信じてるけどさ」
コロコロと、名前通りに可愛らしく笑うベル。オルロフは、この笑顔がもうすぐ消えてしまうかもしれないと思うと、今すぐにでもこの世界から逃げ出したいと、本気で思っていた。
この少年と一緒に、世界の果てを超えて、誰にも知られない場所で、命尽きるまで無知なまま笑い続けていたい、と。
(——ごめんな、ベル)
《5》
「……来たな、邪竜」
オルロフは久しぶりに翼を使って、女王の元を訪れた。
「友に出立の挨拶は済ませてきたか?」
「そんなこと、俺たちには必要ない。それで? 俺はどうしたらいい」
「前線へ行き、敵国の軍隊を滅す。貴様が伝承に記された通りの力を持っているとするならば、それは造作もないことのはずだ」
女王に言われ、彼は自らの掌を見つめた。ベルと出会ってから、彼が「邪竜」と言われる謂れ、その本当の力を使ったことは一度もない。二人とも互いに、血を流し、血を流させることなど望んでいない。だが、やるしかないのだ。
「俺がやれば……ベルは見逃してくれるんだな」
「ああ。私は、約束を守る人間だ」
オルロフは静かに、それでいて力強く、その翼をはためかせた。風が吹き荒ぶ。砂が舞った。彼が目指すのは、群れる軍隊。彼は、隣国との戦争における最終兵器として、ベルによって解放されたのだ。
「皆の者、これは聖戦である。我らが邪竜を従え勝利することは、我が国の歴史における鮮烈な一ページとなることであろう!」
女王は声を張り上げ軍を鼓舞する。オルロフは耳を聾する風の音の隙間から、その冷徹な声を聞いた。
(——いい御身分だ)
しばらく飛んでいると、相対する群れの全貌が見えてきた。大雑把に見ただけでも、二、三千はいるであろう。
オルロフは大きく息を吸う。上空など見てもいない無防備な兵士の隊列めがけ、その邪竜の吐息を放つ。
——ブゴアアァァァァッ!
彼の鋭い牙を生やした口から、黒色の禍々しい炎が噴出した。炎の中には、非常に小さなダイヤモンドの欠片が混じっていた。
炎が軍隊に襲いかかる。ただ焼くだけのみならず、ダイヤの粒が無力な兵士たちの体を切り刻む。
「……」
一瞬にして、静寂が訪れる。おおよそ百人程度の姿が消え、そこには赤い液体が残るばかりだった。
オルロフは静かに、自身を見上げる兵士たちを睨んだ。人間の脆弱さを、己の力の強大さを、静かに思い出しながら。
「邪竜だ……!」
「あの女……ついにやりやがった……!」
ざわめく有象無象の声を、オルロフは鼻で笑う。いくら抵抗しようとて、無駄なこと。敵国には大人しく領地を渡すか、滅びるかしか残されていない。
オルロフは突然急降下し、一際強く翼をはためかせた。「ビュウゥゥゥゥ!」と烈風が吹き荒び、慌てふためく兵士たちと、人の肉を切り裂き足りない黒い宝石が巻き上がった。
彼は空を自由自在に舞い踊り、牙の隙間から黒い炎をちらつかせながら、力無く笑っていた。
自由に飛ぶことは、こんなにも虚しいことなのか、と。
《6》
——ガラガラ……ゴトッ……ガラガラ……
ベルは物音で目を覚ました。硬い大地に寝転んでいたせいか、体の節々が痛い。だがよく確認すると、彼は大地に寝転んでいるわけではなかった。陽の光は全面を覆う木の板に阻まれ、外の様子は全く窺うことができない。
彼がいるのは、木箱の中。正確に言うならば、それは一般的に「馬車」と呼ばれるものの、木製の荷車の中だった。彼は、どこかへ運ばれていく最中だったのだ。
「何だこれ……ねえ、誰かいるの!? 誰か! 誰かーッ!」
彼が叫ぶと、外から金属音が聞こえた。開錠音だった。彼は両肩を、頭からつま先に至るまで鎧に覆われた兵士に、馬車の中から投げ出された。硬い土に叩きつけられ、あちこちが擦りむけた。
「……ようやく起きたか、ベル」
「あなたは……!」
顔を上げると、あの冷徹なる女王の姿がそこにあった。
「あれを見てみろ」
女王は、まっすぐ先を指差した。一面むき出しの大地が広がっている。その上で、狂ったように、地に立つ兵士たちに向かって黒い火を吐く者の姿があった。
「オル……ロフ……?」
「貴様には感謝しているぞ。お前のおかげで、あの邪竜はこんなに良い働きをしてくれている」
「……こんなのって……間違ってる……誰も望んでいない!」
「いや、望む者たちは確かにいる。現に私がそうだ。そして私の国民たちも。邪竜は兵器だ。私たち《ルーデンス王国》の道具なのだ。本来の持ち主が宝を持ち腐れをしているのを、指を咥えてみていろとは……何ともどかしいことだったか。この時を、私たち誰もが待っていた。我々が隣国を征服し、更なる繁栄への第一歩となる今日を」
女王は断言した。その一言一句が、ベルの心に深々と突き刺さる。
(——僕、分かったかもしれない。伝承の示す『愚者』が、何なのか)
ベルの無垢だった心に、一片の闇が生まれる。それはどんどん彼の心を満たしていき、彼の頭を「怒り」という、今まで押さえつけてきた感情によって満たした。
「……やめろ……やめろォッッッ!」
ベルは女王に殴りかかった。だが、まともな食べ物もあまり口にしていない貧弱な少年の腕は、女王にいとも簡単に受け止められた。
「それで私に刃向かうつもりか……痴れ者が!」
——バシン!
女王の平手が、ベルの頬を殴った。
「うッ……それなら……これで!」
ベルは、首の宝石を掲げた。石は黒い光を放ち始める。邪竜と同じ波動を持つ、魔力の溢れた光だった。
「……?」
オルロフはそれに気づいた。己を殺し狂気に塗り潰されていたその金環の瞳が、親友の目を捉えた瞬間驚きに見開かれた。
「ベル……!? どうしてここに……!?」
「オルロフ! こんなやつの言いなりになんかならないで! 君は戦っちゃダメだ! 僕が導いてあげるから!」
ベルは叫ぶ。だが、オルロフは彼に背を向けた。
「……俺がこうしないと、俺とお前の幸せを約束できないんだよ」
オルロフは女王に脅されている。内容を要約するならば、「もし戦うことを拒絶するならば、ベル少年の命を刈り取る」と。ベルを守るためには仕方がないことだった。
オルロフは次の殺戮を始めようと、敵の軍隊に向き直った。数はすでに半分を切ろうとしている。このままいけば、《ルーデンス王国》の兵士たちを動員せずとも戦いに勝てるかもしれない。王国の力に頼らず、自分の手でベルを守れるかもしれない。
その決意と殺意に満ちた金の瞳を——
——ドスッ。
「——ッ!?」
一本の矢が、刺し貫いた。
「オルロフ……ッ!」
ベルは無意識に走り出していた。力強く空を飛んでいた竜の体が、重力に従って堕ちていく。程なくして、地鳴りが一帯に響いた。
その直後、敵の軍勢から、一斉に矢が放たれた。数百の兵士たちが一斉に、連続で矢を放っている。あれをまともに受ければ、少なくとも姿は崩れてしまうだろう。
「ちく……しょう……」
「オルロフ、オルロフッッッ……!」
ベルは地面に横たわる友に触れる。砂埃で汚れた黒い鱗は輝きを失っている。宝石のような爪と角には、無数の傷が刻まれている。
そして射抜かれた左目は金色を失い、どくどくと赤を流していた。
「ベ……ル……ごめんな……」
「そんな別れ際みたいなこと言わないでよ……僕らは夢を叶えないといけないんだ……そうでしょ? ねぇ!?」
「ハ……ハハ……そうか……夢か……」
「そうだよ、君が笑ってないとダメなんだ!」
「ベル……俺……今……笑ってるだろ……?」
「それじゃダメなんだ……もっと心の底から……幸せそうに……」
「ハハハ……でも俺……幸せだぜ……」
ぎゅっと。オルロフの手が、ベルの体を掴んだ。
「最期にお前と話せて、な」
「待って、オルロ——」
——ブォン!
直後、ベルの体は空中にあった。オルロフが彼の体を投げていたのだ。背中向きに宙を舞ったベルが見たのは、
「——フ……?」
嵐が如く降り注いだ矢の雨に、全身を隙間なく塗りつぶされていく、友人の最期の姿だった。
《7》
「がァッ……!?」
「……貴様はどこまで、我々の足を引っ張れば気が済むのだ」
女王は本気の怒りを全身から滲ませ、血管が浮き出る手でベルの首を締め付けていた。自らも戦場に赴くために鍛錬をしているのか、その力はたおやかな腕からは想像できない強さを持っていた。
「貴様が出しゃばったせいで、我々《ルーデンス王国》は最も手短に済む殲滅方法を失った。貴様のせいで『邪竜』は死に、多くの国民の望みを叶えることができなくなったのだ」
「オル……ロフは……お前たちの……道具、じゃ……ない……」
「まだそうのたまうか……ならば言い方を変えよう。貴様のせいで貴様の友人は死んだ。これで自らの罪の重さが分かったか」
女王はそのまま、ベルを檻の中へ投げ入れた。酷い腐敗臭が立ち込める、大きな針山が中央に置かれた牢の中へと。
「そこで友人と猛省していろ。『僕たちは国の役にも、それどころか友人の役にも立てない愚か者でした』とな。……全く、滅多刺しにされたせいで武具の素材にもできんとは……徹底して利用価値がない」
「……ッ」
ガシャン! と、乱暴に檻が閉ざされる。ベルは女王の姿が見えなくなると、針山の方を振り返った。
「……どうして」
針に見えるのは、突き刺さったままの無数の矢だ。先ほどの矢の雨の下にあったものは、全てこの姿に成り果てていたのだ。そしてその針の下に見えるのは、黒い鱗。赤い血液。つまり、この塊は。
「……どうしてだよ……オルロフ……どうしてこんなになっちゃったんだよ……あのかっこいい姿、もう一回見せてよ……」
ベルは矢の一本に手をかけ、引き抜く。あまりにも密度が高いせいか、後の方に刺さった矢はいとも簡単に引き抜くことができた。
「オルロフ……オルロフ……オルロフ……!」
ベルは一本、また一本、さらに一本と、取り憑かれたように矢を引き抜いていく。たとえ彼が邪竜と恐れられていても、軍事兵器として利用されて、多くの人命を灰に返したとしても、自分の友人であったことには変わり無い。その友人の最期の顔も見れないなんて、残酷すぎる仕打ちではなかろうか。
「オルロフッ! なんで行っちゃったんだよ、オルロフッッッ!」
熱いものが頬を流れ落ちていく。その深い深い悲しみは怒りと混ざり合って、激しい叫びとなって彼の口から溢れ出ていく。それでも、何度叫べども、彼の感情は治らない。治らない感情のままに、矢を次々に引き抜いていった。
「……どうしてだよ」
ベルは百本以上の矢を、何時間もかけて引き抜いた。その体のほとんどが外気に晒された。それなのに、友人の死に顔を目に焼き付けることはできなかった。否、彼はすでにそれを見ているかもしれない。でも、その確証が得られない。
損傷が激しすぎて、オルロフの顔がどこか、分からなかったのだ。
「……なんで、顔も見られないんだよ」
吐き捨てるように彼は言った。涙はすでに枯れていた。床を埋める勢いで流された、友人の血液の上に溶けて、そのまま乾いた。
ベルはそのまま、その場に座り込んだ。もう何年も彼のそばにいたのに、こんなに呆気なく別れを迎えることになるなんて、考えたことがなかった。
「残ったのは……これだけか」
ベルはかろうじて女王に手のつけられなかった、彼の一部が使われた首飾りを眺める。大粒のブラックダイヤが嵌め込まれたかのようなそれは、貴族たちがこぞって手を伸ばしたがるような、場違いに美しい代物だった。
だから、オルロフの形見としては、満足いくものでは無かった。彼はカッコつけで、不器用で、でも優しい。だから、こんな華美な宝飾品では、彼の姿を重ねることができなかったのだ。
「……あ」
ベルはしばらくそれを眺めていた。そして、あることを思い出した。これはオルロフの力を、人の体を触媒にして世から消し去るための魔道具であるということだ。
その方法で邪竜の力をこの世から消し去るためには、一度邪竜の贄に選ばれた人間に、首飾りを介して邪竜の力を移し替えなければいけない。
ベルは考えた。「もし、この時に人の体に移るものが、純粋な竜の魔力だけで無いとしたら」と。「魔力と一緒に何か別のものまでもを、人の体に移してしまうのではないか」と。
「……」
試してみる価値はあった。むしろ、試さない理由を探す方が難しかった。友人の存在をこの世に繋ぎ止められるなら、ベルは。
「……僕は、自分の命だって厭わないよ」
ベルは、黒い宝石に噛み付いた。
《8》
翌日。
「まだ見つからないというのか!?」
「申し訳ございません……逃走した痕跡が残っていないものですので、我々も追うに追えないのです」
女王は王座から立ち上がり、焦りを露わにした。一晩目を離した隙に、邪竜の遺骸と少年ベルが、姿を消していたのだ。残っていたのは、夜な夜なベル少年に引き抜かれたであろう、何百という矢だけ。
「あの力を悪用しようという者が現れたというのか? それとも、死体に残った膨大な魔力を抱えきれずに崩壊して、少年もそれに巻き込まれたのか? ……何にせよ、所在もしくは現在の状態が分かるものは徹底的に探し出せ!」
「女王様の仰せのままに」
王座の前から、兵士が立ち去っていく。その背中を見届けると、女王はドサっと力を抜いて王座に腰掛けた。
「……チッ、あと少しの軍勢を片付ければ、隣国も簡単に陥落させられるというのに……あの邪竜の力が惜しい……!」
思わず、胸裏の思いがこぼれ出た。
——バリィィン!
その時だった。謁見の間の高い位置に設けられた、赤い花の柄のステンドグラスが、盛大に破られたのだ。そこから一つの人影が現れ、膝と拳をついて、玉座の前に着地した。
「……女王様がお望みなのは、」
それは一人の少年だった。彼は鱗のような質感の、黒い外套で全身を覆い隠していた。少年は体をあげ、その顔を女王に見せる。
「俺のことか?」
格好いいというより可愛らしいという言葉が似合う、端正な顔立ちの中の少年の瞳は、狂気を孕んだ金色だった。それは殺意か怒りか、その類の激しい感情でギラギラと燃え盛っていた。
「ベル……貴様……!」
女王は激しい憎悪を露わにした。だが同時に、理解できない事態が起こっていることも、冷静に分かっていた。なぜ牢にいたはずのこの少年が、突然空から降ってきたのか。そしてその格好は一体何なのか。
「何の真似だ!」
「何の真似って……俺がせっかく呼びかけに戻ってきてやったというのに、その態度とはな。やはり、お前はその程度の人間に留まるのか」
「……?」
女王は違和感を覚えた。ベルの一人称は「僕」だったはずだ。それに、先ほどから口調も変だし、声のトーンも低い。低くしているようにも聞こえなくはない。
「……どうやら、俺が誰だか分かってないらしいな……教えてやろう、俺は、お前が使い捨てた『邪竜』……オルロフだ」
「……何を馬鹿なことを。オルロフは死んだ。貴様も見ていただろう、ベル。それともアレか、友を失った衝撃が強すぎて、自分を邪竜と思い込むようになったか」
「……チッ。じゃあ、俺が邪竜だっていう証拠を見せてやるよ」
少年は、両手と背中と腰、そして額に力を込めた。すると、そこに黒い宝石の塊が生まれる。それは植物が成長するようにメキメキと肥大化していき、竜の手と翼、尾、そして角を形作る。
「俺はベルの体を触媒に蘇った。アイツが魔石を使って、俺の力と魂の全てを取り込んだんだ。俺はアイツの中で自分を再構成した……この体で邪竜の力を使えるようにな」
バキバキバキ! と、宝石の外装が剥がれる。ベルの体には邪竜オルロフのものと全く同じ爪と翼、尾、そして角が備わっていた。
「なっ……!?」
「どうやら、信じたようだな。なら、ここで更なるパフォーマンスを見せてやろう……お前の国を俺が滅ぼす様という、最大の喜劇を!」
ベルの体で蘇ったオルロフ……「ベル・オルロフ」とでも呼ぶべきその竜人は、翼を容赦なくはためかせて暴風と共に飛び上がると、謁見の間の天井を切り裂いて空へと飛び出す。屋根を失った謁見の間からは、曇天が望めるようになっていた。
「私の国を滅ぼすだと……!? そんなこと、させるものか! 衛兵共! あの邪竜の成り損ないを撃ち落とせ!」
女王の呼びかけに応じて、一体どこにそんな軍勢が隠れていたのか、無数の甲冑が飛び出して弓を引く。加えて呼ぶ前に魔導士たちも駆けつけ、詠唱を開始した。
「人間は不便だな。一つ攻撃を繰り出すのにも、こんなに時間がかかるなんて。それに比べて俺は……こうすれば良い」
オルロフは翼をより強くはためかせる。それだけで甲冑姿はよろけ、魔導士たちに至っては吹き飛ばされないよう必死に姿勢を低くしたり、周囲の家具や壁に掴まっている。
オルロフはそんな惨めな人々めがけて、
——ゴァァァァァァッ!
一つ咆哮をしてやった。それとともに漆黒の炎が周囲を覆い、混ざった黒い宝石の欠片が容易く人体を切り裂く。悲鳴を与える暇も与えず、鎧を纏っていない魔術師たちは細かな肉片に、兵士たちの鎧も、半壊から全壊がほとんどだった。
「……っ」
玉座の陰に隠れて攻撃をやり過ごした女王は、心臓が止まる思いだった。自分が何を敵に差し向けていたのか、自分が何を支配しようとしていたのか、その規模を思い知ったのだ。
「さて、次はお前と……ここの全ての国民だな」
「ま、待て! 国民には手を出すな! 彼らに罪は無いだろう!?」
「そんなものは詭弁だ。お前の恩恵を受けているということは、俺に対する罪も等しく背負っているべきだ……だよなァ!」
オルロフはそのまま飛び上がり、風を切って曇天を貫く。雲の上の、美しい青空まで上り詰めた彼は、ゆっくりと、王国の中心へと狙いを定める。
「あ……ああ……」
たった三代で築き上げた大国家、《ルーデンス王国》。数多の優秀な人材を持ち、富国と強兵に心血を注いだ、後の大帝国になるはずだった国家。それが、自分の慢心一つで崩れようとしている。
ラクリマⅢ世は、曇天の隙間から漏れ出す黒い光を見上げることしかできない。彼女には多くの部下も、後継ぎであるただ一人の娘もいる。それだけではない、人生を任された国民がいる。
「『魔石の竜は世を正す、愚者を滅する神の怒りで』……」
それら全てを「愚者」に変えてしまったのは、紛れもない彼女自身であると悟ったのは、あまりに今更すぎることだった。
「そんな……」
——ブゴオオオオオオオオオッッッッッ!
空を覆う厚い雲を一瞬にして消し飛ばし、とてつもなく巨大な黒い炎の束が地上の全てを焼き尽くす。無数のダイヤモンドの破片が人を切り裂き、街を砕く。
ラクリマⅢ世は目を瞑る。直後、全身を得体の知れない感覚が包み込んだ。豪炎に焼かれる感覚。ゾッと冷たい怒りを浴びる感覚。黒いダイヤモンドに全身を切り刻まれる感覚。そして何より——自ら招いた天災による、最も根源的な「死」の感覚。
その日、大陸の半分を覆う王国が、一瞬にして焦土と化した。
《9》
同時に、あまりにも過剰だったとしか言いようがない一つの復讐劇が、あまりにあっけない閉幕の時を迎えた。
「終わった……」
オルロフは、ベルの足で地上に降り立つ。だがダイヤモンドが降り積もった大地はあまりにも危険なので、仕方なく竜の脚になって、ギラギラと陽の光を反射して光る、宝石の大地を踏み締めた。
「……ここにお前がいれば、完璧だったんだけどな」
オルロフは自らの胸に語りかける。正確に言えば、自分のものとなったベルの体に語りかけていた。
ベル・オルロフとなる融合の過程で、ベルという人間一匹のか弱い自我は、膨大な魔力の奔流に飲まれてしまった。完全に消えたわけではないようだが、限りなく希釈され、ほとんどその意思は感じ取ることができない。もし戻ることがあったとしても、それはベルの意識が魔力全体に広がる、数百年先のことであろう。
オルロフはそっと、その大きな漆黒の翼で、ベルの体を包み込んだ。自分で自分を抱きしめる、虚しい抱擁だった。
「お前……挨拶もなしにいなくなるなよ……寂しいだろ……」
声が震える。涙が溢れる。青空はここまで気持ちよく晴れ渡っているというのに、どうしてそれを受ける大地は、ここまで真っ暗なのだろう。
「どうしてだよ、ベル……お前さえ隣にいてくれれば、それだけでよかったのに……なんでお前までいなくなっちゃうんだよ……」
涙が次々溢れる。それがダイヤモンドの大地に溢れ、その水滴の中に、ベルの顔が映った。もうベルのものではないベルの顔が。
「うっ……ぐすっ……なんでッ……!」
オルロフはひたすら、自分を抱きしめた。それがベルの腕であったこと、自分を抱きしめてくれる腕であったと、思い出しながら。
「黒い宝石で埋もれた場所に住んでいるとされる、一人の少年。彼は宝石に並ぶ、立派な角と爪を持っている。その姿はまさに竜人と呼ぶに相応しく、そしてかつての邪竜によく似ている」
「そして彼は絶えず泣いている。もし迂闊に『邪竜』に話しかけたのなら、不滅の愛を思い返した号哭が、世界を燃やし尽くすだろう」
それが《ルーデンス王国》亡き後、この世界に残っている、最古の邪竜に関する文献の記述だった。
はじめましての方もそうでない方も、ようこそおいでくださいました。クロレキシストです。
さて、今回は私のなろう活動開始から一周年を記念して、初の短編、もとい過去作品のリメイクを投稿させていただきました。私の連載をいつも見ていただいている方は、少し違った作風を楽しんでいただけたでしょうか?
この作品は、創作仲間たちの間で「石言葉」を題材に作らせていただいた作品になります。この時に私が選んだ石は「ブラックダイヤモンド」でした。石言葉は、ズバリ「不滅の愛」です。昨日を読み終えた皆様からすると、この言葉は残酷な響きを伴って聞こえるかもしれませんね。
というわけで皆様に日頃の感謝を込めながら、ここらでさよならといたしましょう。また会う機会がありましたら、その時の私と、作品を彩る登場人物たちのことも、どうぞよろしくお願いいたします。では。