世界最強の憂鬱
『おっちゃん、おっちゃん』
『おっちゃんじゃない。先生と呼べ。あと俺はまだ二十五歳だからお兄さんだ』
『わかった! おっちゃん先生』
『だ、か、ら。あぁーもういい。で、なんだ?』
『なんで指導者やってるの? 卓球上手いじゃん。プレイヤーの方が楽しいよ』
『それは……世界の広さを知ったからな。いつか未來も……いや、もしかしたらお前は一生わからないかもな。だからこそ危うい』
『馬鹿にしてる?』
『いんや。良いか未來。これだけは覚えておけ。夢は、絶対に終わらない』
その時の会話から十年後。若干高校三年生にして未來は全日本卓球選手権大会で優勝し、勢いそのままに世界をも制した。
幼少の頃から類稀なるセンスで注目され、多くの人に夢を見せてきた少女は、遂にその夢を叶えた。新時代の幕開けに湧く卓球界。だが少女が再び舞台にあがることはなかった。
「おっちゃん先生の言っていることは正しくもあり、間違いでもあった」
二十歳になった未來は日本一高い電波塔から見える狭い景色を眺め、ひとりごちた。
「挫折を一度も経験しなかったから、世界の広さも厳しさも確かに知ることはなかった」
遥か低空で鳥が羽ばたいている。彼等もここまで来ることはできない。
「でも、私の夢は……終わった」
沢山の言葉を貰った。夢を見せてくれてありがとう。夢に向かって頑張ります。
嬉しい。嬉しかったよ。とてもとても嬉しかった。多くの人が期待してくれて、その期待に応え続けてきた。
でも、でもさ。数え切れない程の人が脱落して、血を吐きながらたった一人しか掴めない栄光を掴んだその先には、誰もいなかった。
「夢を見せてきた私が、夢を叶えてしまったら、私は誰に夢を見せてもらえばいいの?」
十八歳にして世界最強の称号を手に入れた少女は、苦しんでいた。握られた拳は、どこにぶつけるでもなく、弱々しく降ろされる。
すると、その手を掴む者がいた。
「おねぇちゃん。こっち来て!」
それは十年前の未來に良く似た知らない少女だった。
「ちょ、ちょっと待って」
どこからそんな力が沸いてくるのだろう。未來の腰くらいしかない少女に引っ張られていく。あれよあれよという間に電波塔を降り、歩道を爆走し、辿り着いた場所は一軒家のガレージだった。
「おねぇちゃん、世界チャンピオンでしょ。乃亜の師匠になってよ」
「えっ……私は……」
夢を叶えたその先には何もないということを知ってしまった。だから指導者として夢に向かって頑張る人を導くことなんてできない。
「ごめんね。お姉ちゃんは教えられないんだ。そうだ、代わりにお姉ちゃんが通ってた、」
「ヤダ! おねぇちゃんが良い! おねぇちゃんがイチバン強いんでしょ」
乃亜ちゃんは未來の手にラケットを握らせる。瞬間、手はぶるぶると震えた。でも本能的にラケットを落とすことはできなかった。
「わかった。じょあ乃亜が一ゲームでも取ったら教えてよ!」
「え? ちょっと」
ばたばたとしていたら卓球台の前に立たされていた。なんだかこの子は不思議だ。
「三ゲーム先取ね。いっくよー!」
ピン。ポン。ピン。ポン。
やる気なんてない。それでも身体は勝手に動く。十五年以上しみ込ませた動きは、脳が考えるよりも早く球を打ち返してしまう。
この子は年齢にしては随分と上手い。努力を続ければ上へ行けるだろう。それでも。
一ゲーム目、11対0。二ゲーム目、11対0。ブランクがあるとはいえ、相手にならなかった。一ゲームはおろか一点すらも取られない。
乃亜ちゃんは泣きそうになりながら、というか泣きながら、それでも涙を拭い、必死に一本一本球を打つ。大人げないと思うだろうか? でも反射的に返してしまうから仕方がない。それに元々手を抜くのは苦手だ。
そうして迎えた10対0。マッチポイント。サーブは乃亜ちゃん。これで最後だ。
乃亜ちゃんはこめかみをトントンとする。卓球は百メートル走をしながらチェスをするようなスポーツである。だから乃亜ちゃんはあんなに小さな頭で今、脳が焼き切れるくらい必死に考えているのだ。
どうすれば未來から点が取れるのか。どうすれば未來に勝つことができるのか。
ここまで追い込まれても、少女は全く諦めていなかった。
卓球において諦めの悪さは一番とも言える美徳だ。彼女はきっといい選手になる。だからせめて、この敗戦が彼女の今後の卓球人生の糧となるように、本気の一球をお見舞いしよう。
ポーン、と、少女は今までより何倍も高く、球をトスする。投げ上げサーブだ。サーブのトスを高くなれば、当然落下速度が速くなる。そのエネルギーを利用してサーブの速度や回転に変換する。コントロールが難しい高等技術だ。
それをこの土壇場で初めて披露する心意気たるや見上げたものである。
でも、それだけで勝てるほど、世界はあまくないよ。
未來は右サイド手前にきたボールを、本来ならラケットの表面で返球するところだが、敢えてラケットの裏面で返球する。球の横を擦って回転をかけながら返球するチキータと呼ばれる技術。このチキータで世界一に立ったと言っても過言ではない程に未來にとって最大の武器。
それを全身全霊で放つ。相手コートの深くを突いた打球はバウンドした瞬間大きく曲がる。
パンッ!
信じられないことが起きた。
なんと未來のチキータを乃亜ちゃんがフルスイングで打ち返したのだ。
未來は……一歩も動くことができず固まる。世界のトップ選手ですらも返球するのがやっとの球をフルスイングでカウンター。彼女は紛れもなく天才だった。ともすれば未來を超えるかもしれないほどの。
未來は乃亜ちゃんの返球に触れることすらできなかった。
ビリリと身体に電流が走る。
あの日からずっと暗かった道で街灯が一斉に点灯し、世界が急激に明るくなった。
「夢は……終わらない」
行き止まりだと思っていたその道に、新しい道が繋がる。新たな道に立っていたのは、乃亜ちゃんだった。
「そうか……そういうことだったのか」
おっちゃん先生が言っていたことは全て正しかった。
「夢を叶えてしまった私に夢を見させてくれるのは、新しい世代の人たち。そうやって人は夢を紡ぎ、歴史を築いてきたんだ」
その後、三ゲーム目は11対1で幕を下ろした。未來のストレート勝ち。
泣きじゃくる乃亜ちゃんのもとに駆け寄る。
「乃亜ちゃん、私、あなたの師匠になるよ」
こうして、未來の手に握られていたバトンは乃亜ちゃんの手に渡ったのだった。
おわり