第7節:あなたの名は
「ん……」
ぼやけた視界に映し出されたのは、見知らぬ天幕の布地だった。
セシルは自分がいつの間にか眠っていた事に気付き、掛けていた毛布の中でしばらく身じろぎした後、ゆっくりと起き上がる。
まだ頭が覚醒し切っておらず、自分がいつ眠りに落ちたのか、漫然と記憶を探りながら伸びをした。
「……ふあ。確か、昨日は…」
自分の右隣に胸当てとケープが置かれているのをぼんやりと見つめながら、記憶の糸を手繰っていく。
「ゴーント討伐の途中で『帰らずの森』なんかに入っちゃって、あの気持ち悪いのに延々追い回されて、それで…」
セシルはあまり思い返したくない記憶を辿りつつ、自分の魔導術が暗闇の中から照らし出した恩人の顔に行き当たると、急速に眠気が吹き飛んだ。
「あの人はッ……!?」
そう声に出した直後、急に天幕の入り口が開いて日の光が差し込んできた。
「……ようやくお目覚めか。良いご身分だな、お姫様?」
そこに現れた姿は、今まさにセシルが思い出していたものだった。銀というより灰色に近い髪が緑のツバ付き帽子の下から覗き、その上に古びたゴーグルを掛け、ボロのような緑の旅装束を纏った青年の姿である。
しかし心なしか、日の光を浴びているにも関わらず顔色はどこか悪く、赤味掛かった茶色の瞳は記憶にあるそれと比べても、だいぶ不機嫌そうに細められていた。
それでも五体満足で怪我らしい怪我も負っていない様子が分かると、セシルは心の底から安堵し、それと同時に抑え切れないほどの熱い気持ちが込み上げてくるのを感じるままに動いた。
「こんな時間までグースカと寝こけやがって。お陰でオレは一睡も出来な……」
「ありがとーッ!! ありがとうありがとうありがとう、ありがとおおおおおおおおうッッ!!!」
セシルは目に涙を溜めて感謝の言葉を口早に繰り返しながら、昨夜のティンダーハウンドもかくやという勢いで青年の胸に突進した。
突然の体当たりじみた抱擁の衝撃を彼は受け止め切れず、二人はそのまま一人用の小型天幕を派手に崩しながら外に飛び出し、男は為す術もなく地面に尻を打ち付けてしまった。
「いっっってぇッ! またそれか、お前ぇぇッッ!?」
男は苦悶の表情で呻きつつ、しがみ付いたままのセシルを引き剥がそうとする。
しかしそれは叶わず、彼女の両腕にはますます力が入った。
「ありがどぉぉぉ……!」
「あがっ……! ちょ、離せっ……馬鹿力で締め上げんな……!」
ギリギリと音を立てながら青年のあばら骨が軋むが、胸に顔を埋めているセシルはそれにも気付かず力を入れ続ける。
青年は目を剥き歯を食い縛りながら、彼女の肩を掌で数回叩いた。
それを合図にゆるゆると力を緩め、セシルは諸々の体液に塗れた顔を上げて彼の顔を見つめる。
「あたしのこと、助けてくれて……本当にありがとぉぉ……!」
「……分かった分かった、そりゃ昨日も散々聞かされたっての。お前の誠意はよぉーく伝わった、だから離せ」
何とも言えない困惑した表情を浮かべる青年の左手が、優しくセシルの額に触れたかと思えば、そのままグッと押しのけるように突き出されて離れよう促す。
セシルは慌てて身を離すと、服に付いた砂埃を叩き落としながら立ち上がる彼の姿をゆっくり見上げて微笑んだ。
「……あなたにもケガとかは無いみたいで、本当に良かった」
「クソ眠いところにデケェ声をキンキン浴びせられて頭痛がするし、たった今、お前のせいでケツとアバラを痛めたばっかなんだがな?」
「え!? あの、ごめんなさい!」
両手を腰に当ててジロリと睨む青年に謝罪しながらも、また余計な事をしてしまったのか、とセシルは気を落として俯く。
ほとんどの事を彼頼みにしてしまった昨日もそうだったが、自分は思っていた以上に何も知らず、出来なかったのだ、と。
「……別に根に持っちゃいねぇよ。もういいから、メシでも食ってろ」
頭上から掛けられた言葉に、セシルは弾かれたように顔を上げる。
「いいの?」
「良いか悪いかで言えば、良かねぇよ。とは言え、苦労して助けてやったヤツに野垂れ死にされんのはシャクだからな」
相変わらず物言いは悪いが、帽子越しに頭を掻きながら顔を逸らして呟く青年の顔に、昨夜セシルを連れて森から出ようとした時と同じ、様々な感情が入り混じる表情が浮かぶ。
それを見てセシルは、この男がどうしようもなく素直になれない人間なのだろうと、微笑ましく思った。
「……ありがとう」
「オレは出発の準備をしとく。そこで大人しくしてな」
無惨に倒壊した小型天幕に近付くと、男は地面に打ち込まれたペグの細ロープを緩めていく。
手際良く支柱を抜き出すとそれを分解し、綺麗にまとめ始めた。
その背中を眺めていると、セシルはふと大事な事に気付いて声を掛ける。
「あ、ねぇ!」
「食器ならそこにあるのを使え。全部食って構わねぇから、残すんじゃねぇぞ」
緑衣の青年は周囲に打ち込まれたペグを抜きながら、面倒そうに携帯用の小型鍋を指差す。
しかし、それはセシルの欲しかった答えではなく、ブンブンと左右に首を振ると男の顔を見つめる。
「そうじゃなくて、教えて欲しいの!」
「……何をだよ?」
セシルの訴えに込められた真剣な響きを軽く流すべきではないと思ったのか、青年はペグ同士を擦り合わせて土を落としていた手を止め向き合う。
この男も気付いていなかったのだろうか。
迷い疲れたセシルを助け、森を抜け、晶魔の群れと戦って生き延び、そして今に至るまで。
セシルのそれを知りながら、彼は未だにそれを明かしていないのだ。
「名前! あなたの名前、まだ知らなかったから」
セシルは青年の赤茶けた瞳へと真っ直ぐに、食い入るように視線を注ぐ。
彼の瞳は逡巡して逸れ、困惑がよぎり、躊躇うように伺い、そして諦めの色を湛えて、頭上に広がる蒼穹のようなセシルの力強い瞳と視線を重ねた。
「……クライドだ」
観念したような声音で、帽子のツバを目元に下ろしながら青年は自らの名を告げる。
セシルは宝石のような目を更に輝かせ、湧き上がる喜びを口元に湛えて、ようやく知る事が出来た彼の名前を自らも呟く。
「クライド……」
セシルの赤味掛かったブラウンの髪が、緩やかに駆けるそよ風に乗り、踊るようにたなびく。
「誠意はよく伝わったって言ってたけど、もう一度言わせて」
彼女は胸の前で小さな手を重ね合わせ、帽子のツバを握ったまま顔を見せようとしない緑衣の青年――クライドの姿を、改めて目に焼き付けた。
「……ありがとう、クライド」
セシルのはにかむような微笑みが見えているのか、クライドも僅かに顔をほころばせているように、彼女は感じた。
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「久し振りに人間らしい食事にありつけたわ! ありがとう、クライド! 美味しかった!」
「そりゃ過大な評価をどうも。いちいち大袈裟なヤツだな」
口の端に食べカスを残しながら、セシルが満面の笑みで手を振る。
天幕を完全に折り畳んでバックパックに結び付け、その上にセシルの荷物を置いたクライドが肩をすくめる。
「あぁ~、残飯じゃないごはんが食べられるのは、人生の喜びだわ!」
「……お前、今までどんな生活してたんだよ?」
あまり聞きたくはなさそうなクライドをよそに、幸せに浸るセシルの膝の上で、皿の中にスプーンが滑り落ちる音がした。