偏愛、さもなくば
彼女の腹部から流れる鮮血は、何よりも美しかった。
彼女の苦悶に満ちた顔は、何よりも艶やかだった。
彼女の苦痛にあえぐ声は、何よりも綺麗だった。
彼女が死に抗うように青白い手を腹部に乗せる。手は鮮やかな紅に染まっていき、彼女の声は次第にか細くなっていく。観念したかのように彼女はその紅い手を地面につけ、来るべき死に備えて目を閉じた。絶え間なく血が地面を濡らす。
数分後、彼女は彼女でなくなった。ありふれた、何の個性もないただの死体になった。その様は完成された絵画を思わせた。今や鮮血は彼女の身体全体を濡らし、まさしくミレーのオフィーリアを彷彿とさせた。
私はこれだけの量の美しい色を無駄にするのは勿体ないと思った。ここは私の家であるため、幸いなことに画材や道具は容易に揃えられた。一瞬倫理観が脳をよぎったが、画家としての矜持が筆をとらせた。
題材は今私の網膜に映るこの風景そのものである。美しい彼女の死体に鮮やかな血、そして近くにあるナイフは作品を彩るには十分だった。
鮮血の描写に彼女の血を使うことはすぐに思いついた。それによってこの作品はただの絵画から、私から彼女への弔辞へと昇華する。そう私は考えたのだった。
イーゼルを立て、キャンバスに筆を走らせる。絵の中の彼女は現実の彼女にも引けを取らない程の美しさをたたえ、色素を失った顔を描いている時はこれまでの人生で一番興奮した。同時に、これが今までで最高の作品であることも間違いなかった。
パレットの中では彼女の鮮血が紅く輝きを放っていた。その血に筆を浸すと、血は反発するかのように筆につかなかった。私は鮮血の部分は自らの指で描くことにした。鮮血に指を浸すと、その時私は初めて彼女と一つになれたような気がした。
筆は驚くほど順調に進んだ。彼女の血は見る見るうちに減っていった。寝食を惜しみ、作品は一晩で出来上がった。絵の中の彼女は筆舌に尽くしがたい美しさで、血だまりの中にいる女神のようにすら思えた。その時初めて私は彼女を失った悲しみに気付いた。静かな彼女の横で私は横になり、彼女の色に染まった。
ふらふらと家の外に出た。外はまだ仄暗く、人通りもほぼなかった。冬の寒さが顔を刺した。どこへ行こうか。警察に出頭するのが普通なのだろうか。それとももっとたくさんの人を殺めて皿まで食らうのがいいのか。
そんなことを考えていると、警察が近くに寄ってきた。どうやら私の姿を見た人間が通報したらしい。声をかけられると、私は彼女を刺したナイフを取り出し、自らを刺した。彼女と同じ世界に行くことが、今私がすべき唯一のことだった。私が倒れると、上方から警察官が動揺したように私を見た。意識が遠のく感覚の中、彼女がその遥か上にいる姿が見えたような気がした。