第105話 ニブルヘイム
隠れ里にも似た謎の村へ近付くほどに、赤い霧はその濃さを増して行く気がした。
村内の何処かへ連れ込まれたであろうキンさんと、その元凶であるNPCの姿が最早目視できないほどに。
これが罠であっても早急にキンさんを奪還せねばなるまいと、穿いてもいない褌を引き締めた時。
ピィ! ピィィーッ!
甲高い鳴き声が頭の上から降ってきたのである。
悲痛なその声につられて見上げれば、そこには高みを旋回中の大きな鳥影があった。
「あれは……」
「モンスター……? いえ、鳥でしょうか」
「もがもがが!」
なんて?
恐怖のあまり絶叫しないように猿轡を噛まされたヒナが、必死に鳥を見つめてなにかを訴えている。
特にパニック状態というわけではない。
ツナの缶詰さんの小脇に抱えられたまま大人しくしていることからもそれは明らかだ。
ヒナはどうやら、『よく見てください!』とでも言っているらしい。
俺は首が痛くなるほど見上げて、翼を広げた鳥らしき生物へ細めた碧眼を向けた。
……ん?
あいつ、足になにか掴んでないか……?
……おいおいおい。
マジかよ。
ありゃ、俺がモーちゃんたちに宛てた羊皮紙の手紙だぞ……
青い封もしてあるし間違いない。
ってことはつまり……あの鳥は……
「モーちゃんの鷹だよね……」
「ええ、私にもそう見えます。勿論、似た鳥である可能性も否定できませんが……」
「もごごもご」
「……うわぁー……なーんか嫌な予感がするー……」
「同意いたします。少なくとも吉兆ではないでしょう」
「もごもが……」
察しのいいヒナとツナの缶詰さんも、俺の言わんとしたことがわかったらしい。
鷹がここの上空を旋回中なのは何故か。
それはモーちゃんがこの村にいる、ないしはこの村まで来たという紛れもない証拠だ。
鷹はいわゆるメッセンジャー、故にシステム上自動的に持ち主の元へ帰るのである。
しかし、俺が送った手紙は鷹がまだその足に掴んだままだ。
きっとモーちゃん一行に届けることが出来なかったからだろう。
ではどうして届かなかったのか?
憶測になるが、届けるべき主人を見失った、もしくは────
「まさか、モーちゃんが消えたから……?」
「アキさん……?」
「ぷはっ! さすがアキきゅん! やっぱりそう思いますか!」
自力で猿轡を外したヒナも俺と同じ見解のようだ。
瞳を輝かせているところを見るに、彼女の恐怖はどこかへスッ飛んでいったらしい。
そのかわりに知的好奇心というアドレナリンで脳を満たしているのかもしれない。
少しばかりキョトンとしているツナの缶詰さんに、ヒナと二人がかりで説明しつつ村へと踏み入る。
「つまりね、モーちゃんたちもここまで辿り着いたんだと思う。たぶん、あの寒村でマーリンさんがNPCに攫われたんじゃないかな、キンさんみたいに」
「!! な、なるほど……彼なら確かに充分考えられます」
「マーリンさんって普段はちょっと天然なところがありますもんね……あっさり捕まりそうですし」
「うん。それにモーちゃんのパーティーも男性はマーリンさんだけだからな」
「そしてモーちゃんたちはこの隠れ里へ到達したあと、なんらかの事象で忽然といなくなってしまった……と考えられるわけですよ」
「うんうん。座標はここのままで、ね。だから鷹は手紙を届けられなかった」
「その原因がわからない以上、推測でしかありませんけどね」
「……お二人とも素晴らしい慧眼です……! 感服いたしました……」
ツナの缶詰さんが、ごっつい兜の下で目を見張っている。
本気で感心しているようだ。
むふん。
いやいや、それほどでも。
おぉ、ヒナの鼻がみるみる高くなっていくぞ。
俺に格ゲーで勝利した時並みだ!
「ただ、解せないことはまだあるんだよね」
「あ、モーちゃんの手紙ですか?」
「……すごいなヒナ……」
「えへへー」
「? アキさん、ヒナさん。出来ればこの無知な私にもわかるような説明をお願いいたします」
「えーとね、モーちゃんの手紙に……」
「待ってください! 誰かいます!」
ヒナが小さく鋭い声で制す。
村の入口を抜けた民家の手前あたりで、赤い霧の中に人影を見かけたらしい。
もしかするとここの住人かも知れず、俺たちは話を聞くためにも敢えてその人影に近付いてみた。
仮に誰何された場合は、迷い込んでしまった子供のフリでもすればよかろう。
だが俺の稚拙な作戦は、精神に受けた凄まじい衝撃により、一瞬で脳裏から消し飛んだ。
「……え? ……こいつ……って……」
「……な、なにがどうなっているんです……?」
「あ、あ、貴方は……!?」
人影は濃い紫色の鎧を、その巨躯に纏っていた。
人影は哀愁と苦悩に満ちた表情で、虚ろな瞳を宙へ彷徨わせていた。
人影は黒いマントを背に羽織り────
「……なんの冗談だよ……? あのエンブレムはまさか……」
────そこには、切っ先が下を向いた長剣を挟むように、二頭の猟犬が吠え立てる紋章が描かれていた。
俺やヒナ、そしてツナの缶詰さんにとって、因縁浅からぬその人物。
かつて廃人集団を率い、様々なMMORPGにおいてトッププレイヤー、トップ団の名声を恣にした男。
自分の惚れた女性に振り向いてもらえず、周囲に怒りの矛先を向けた身勝手極まる男。
剰え邪神アポピスを復活させ、世界に黄昏を齎してしまった巨悪。
それは、俺と一騎討ちの果てに敗北し、ゲームマスターの手によって永久BANとなったはずの────
「幻魔さん! 貴方はいったいなにをしているのですか! このようなところで!」
珍しいことに、ツナの缶詰さんが荒々しく叫びながら幻魔へ詰め寄る。
その迫力は、俺とヒナの首を竦めさせるのに充分であった。
しかし幻魔は虚空に視線を泳がせたまま、こう言ったのである。
「……ようこそ。ここはニブルヘイムです……」




