第八話
真っ白な光を瞼の裏に感じ、私はゆっくりと瞳を開いた。
白い天井が視界に飛び込んでくる。首を巡らせれば、開け放たれたカーテンからは青空が見え、僅かに開いた窓から、穏やかな風が流れ込んでくる。
ここは、いったい何処なのだろうか?
私の部屋でないのは確かだ。白い壁紙も白いカーテンも見覚えはないし、私の部屋がこんなに清潔感にあふれているはずがない。
物に埋め尽くされた私の部屋とは反対に、私が眠っているベッドと側にパイプ椅子があるだけだ。掃除が行き届いていて、かすかに消毒液の匂いが漂っている。
私は起き上がろうとしたが、あっという間にベッドに背中を戻す結果に終わってしまった。
感覚が鈍く、思ったように力が入らない。試しに腕を持ち上げてみたが、動きがぎこちなく、操り人形にでもなった気分だ。
しばらく、そうやって身体の状態を確認していると、扉がノックされた。
普通は許可があって入室するものだが、私が返事をする間もなく勝手に扉は開き、白い服を着た女性が入ってきた。
「グランハートさん。お加減いかがですか?」
声はかけられたがまたも返事があるとは思っていなかったらしい。女性は扉を閉めて、向き直ってからやっと私が起きている事に気づいた。
「……まあ!目を覚ましたんですね!良かった!すぐに先生を呼んできます!」
そう言い残したままあっという間に部屋から出て行ってしまった。
それからは怒涛のように物事が進んでいった。
まず、私の主治医だという白衣を着た初老の男性が脈をとったり、瞼をめくったり、腕を曲げてみたり、私の身体に異常がないか確認し、いくつかの問答をした。
特に異常がないのが分かると「とりあえず後遺症の心配はなさそうですね。経過を看るためにもうしばらく入院は必要ですが、すぐに元気に退院できますよ」と言って柔和に笑った。
主治医は忙しいらしく、一通りの診察を終えると退室した。後に残ったのは最初に部屋を訪れた女性で私担当の看護婦だそうだ。
「ご両親にも目が覚めましたとご報告させていただいたので、すぐに来られると思いますよ」
看護婦の女性も嬉しそうににこにこしている。
それは良かったと感想を抱くものの正直言って私はまったく状況を把握出来ていなかった。
ここは病院だ。医者と看護婦がいるのだからそれは間違いない。私が眠っていたのは病室で、主治医や看護婦の言葉から私は何日も眠っていたらしい事が分かった。
しかし、なぜそんな事になっているのか甚だ疑問である。
意識を失う前の出来事ははっきり覚えている。
手に入れた“仮死の毒”を使って自分の死を偽り、私が死んだら死ぬと言った奴を殺そうとした事。私が死んだと思い込んで本当に毒を飲んだ奴の事。タイミング悪く目が覚めた私に気づいた奴があろうことか含んだ毒を口移ししてきた事。
あの時、私は奴と死んだはずだ。
奴が飲ませたそれは紛うことなき毒だった。飲んだ瞬間に身体はこの上ない苦しみを訴え、意識が朦朧としだした。
すぐに解毒すれば助かったのかもしれないが、私と奴があの場所にいた事など誰も知るはずはなく助けが来る訳がないのだ。もし、見つけられたとしても、私たちが仲良く死んだ後だろう。
結論、私が生きているはずがないのだ。
さすがの私もここは天国かもとか思うほど、脳内お花畑には出来ていない。
疑問は尽きないが、ひとまず置いておく。
看護婦の言葉通り両親はすぐに駆けつけた。
それはもう凄まじかった。産まれてこのかた、受けた説教は数知れず、落とされた拳骨も一度や二度ではない。最近では躱すという技術を覚え、まともに両親の怒りを受ける事はなかった。それに、私が死のうがどうなろうが、グランハート家復興の最高の切り札がなくなって怒り狂う程度だと思っていたのだ。
両親は確かに怒り狂った。それはそれは悪鬼も恐れるんじゃないかと思うほど憤怒の形相を浮かべ、元アッパークラスの矜持はどこへやった言いたくなるくらい涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして。
「お前がそれほど思い詰めていたとはな。こんな結果を招くくらいなら、お前の自由にしていいんだ」
「あなたを失うほど悲惨な事はありません。ああ、ジュリエット。生きてて良かった!」
ふたりに抱き潰されそうになり、私はなんとか言葉を絞り出した。
「……お父様、お母様。ごめんなさい。……ありがとう」
私の頰を伝った生暖かい何かは、とめどなく流れ落ち、お父様とお母様の肩に大きなしみを作った。
しばらくすると席を外していた私付きの看護婦が戻ってきて、申し訳なさそうに「面会時間は終了です」と言った。両親は名残惜しそうに帰っていき、病室はあっという間に静かになった。
私はふうと何なのかよく分からないため息をついた。いろんな物事がぐるぐる回って、思考が追いつかない。それでも頭の中の大半をを占拠しているものに、否が応でも気づかされて。
奴は、どうなっているのだろう?
私のように入院している?それとも……。
心臓がどくどくと脈打つのは、身体が本調子ではないから。
紫の瞳が眼裏から消えてくれないのは奴がいつもまっすぐに私を見つめるから。
奴のことばかり考えてしまうのは、奴が私に毒を飲ませたから。
とりあえず、今は眠ろう。後遺症はないと言われたが、体力は戻っておらず、寝たきりだったため筋力も落ちているから安静にとも言われている。考えるのはすべて元通りに戻ってからだ。私は病人だという大義名分を引っ提げて、現実から目を逸らした。
*****
「やあ、ジュリエット。君は相変わらず美しいね。いいや、久しぶりに見る君は記憶の中のどの姿より輝いている。君に会えない日々はどんな毒を飲むより僕の心臓を締め付けて、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。でも、君を見た瞬間に恋しさが溢れて溺れそうになる。君ほど僕を苦しめる存在はいないよ。罪深い僕のジュリエット」
私はいつも通りバルコニーから奴を見下ろした。奴は今日も元気に不法侵入してグランハート家の庭に立っている。何事もなかったように、以前となんら変わりない。
ように見えるが実は私を責めているのだろうか?砂糖過多の口説き文句に多分に毒を含んでいる気がする。毒だの苦しめるだの罪だの当てつけとしか思えない。どちらかといえば、毒を飲まされたのは私のほうだが、そんな状況に陥ったのは私のせいだとでも言いたいのだろうか?それは、まあ、間違いではないのだが。
奴に会うのは実に一ヶ月ぶりだ。その間は入院しており、毒の後遺症を警戒しつつ、体力回復に努めた。聞いたところによると奴も別の病院に入院していたらしく、私と似たり寄ったりな状況だったらしい。それらは目覚めてからだいぶ後に知ったことだ。
つい最近退院して、やっと自宅療養となったところだった。入院中はとにかく暇だった。両親とリチャードは度々見舞いに来たが、暇だから本が読みたいと言っても身体に障るから駄目だと却下された。そもそもこんな物ばかり読んでいるから恋だの愛だのにうつつを抜かすんだと父親の説教が始まったため、本を読むのは断念した。
恋だの愛だのにうつつを抜かした覚えはまったくないのだが、結果的に両親に心配をかける事になってしまったため、逆らうのはやめておいた。
しかし私はその言葉で気づくべきだったのだ。
私が、私たちが起こした事の顛末が周囲の目にどう映ったのか。
奴と私という組み合わせが、如何に特殊だったのか。
真実はいくらでも塗り替えれると私は知っていたのに、まったく気づいていなかったのだ。
奴の言葉はとりあえず無視して、単刀直入に問うた。
「ねえ?この記事、どういうことかしら?」
私は用意していた新聞や雑誌をばらばらと庭に落とした。それはもう大量に。奴は無造作に一冊を拾うと“ああ、これね”と言わんばかりに朗らかに答えた。
「僕と君の愛の物語だね」
「違うわよ!!」
私が半眼で睨んでも奴はどこ吹く風である。それどころか嬉しそうに目を細めて、指で文字を追っているではないか。
『駆け落ちの果てに心中未遂か』
『悲劇!許されざる恋路の果てに麗しき恋人たちは死の楽園を選ぶ』
『ユーフィルム家とグランハート家の因縁。現在は?』
『話題の貴公子と深窓の美姫の語られざる恋物語』
『両家和解か』
『両者、愛の力で一命を取り留める』
『続報を待て!』
見出しだけでこれだ。一面から三面まで、他に書く事はいくらでもあるだろうに笑えないほど、一つの話題が 言及されている。正直詳しく読む気にはなれなかったが、読まなければ現状を把握のために仕方なかった。両親に聞こうにも気まずく、看護師は生暖かい目で見てくるため聞きたくなかったのだ。
新聞や雑誌に書かれた内容を纏めるとこうだ。
夜会で偶然出会ったふたりは、お互いに一目惚れをする。お互いが許されざる相手だと知らずに。事実を知った後も途絶えぬ恋情はいっそう燃え上がり、家という柵から逃れるために駆け落ちを決意する。
しかし、駆け落ちは失敗。
今世で想いが遂げられないのなら、死後の世界で一緒になろうと教会で誓い、心中するために二人は毒を飲んだ。
真相を知った両家は、二人を追い詰めてしまった事を悔やみ、和解した。
ーーと、『ロミオとジュリエット』ならここで終わりだが、この話には続きがある。
二人は毒を飲んだが、運良く通行人に発見され、病院に搬送された。通行人は医療の心得があったらしく、適切な応急処置を施し、二人は一命を取り留めた。
和解した両家は、愛する我が子たちが想い合う相手を尊重し、その仲を祝福した。
こうして、ふたりは家族公認の恋人同士となったのだった。
というのがここ一ヶ月で国民の話題の肴になっていた記事の概要だ。
私は問いたい。これはどこのラブロマンスだと。決して私と奴の話ではないはずだ。私と奴の関係を物語にするとしてもこんなに綺麗にまとまるはずがない。
最終的に私は奴を殺そうと目論んだし、奴も私を殺しかけた。
どこをどう曲解すれば、ロミジュリばりのラブロマンスになるというのか。
そもそも二人の関係(ストーカーと被害者)は私と奴以外知らないはずだ。ヨハネス・ルクセンブルクは気づいていたかもしれないが、教会で毒を飲んで死にかけの男女がいて心中だと断定して記事にするのは些か強引すぎる。ゴシップ誌の一つ二つは面白おかしく書き連ねるかもしれないがほとんどの記事で取り上げられているのは異常事態と言ってもいいだろう。しかもその記事のほとんどが、ふたりに同情的かつ好意的で、仲を後押ししているようにも見受けられる。
どう考えたっておかしい。憶測だけでここまで記事が膨れ上がるのはありえない。私たちの事を知る人物がリークする以外には。
そしてリークした人物が都合よく物語を書き換えたとするならばーーひとつの答えに辿り着く。
「あなた、仕組んだわね」
何を、とは言わない。奴は一から十まで承知のはずだから。どこからどこまで奴の手のひらの上で転がされていたのか、考えるだけで恐ろしい。
「何のこと?」
と言って困ったように眉尻を下げて苦笑する奴のなんと白々しい事か。
「私に“仮死の毒”を送ってきたのはあなたでしょう?私たちの話を立ち聞きしていたのか、ヨハネス様から直接問いただしたのかは分からないけれど。そしてあなたは私の計画なんてお見通しで、私が描いた物語を勝手に書き換えたんだわ」
一方的な愛を利用した殺人計画を実行するサイコサスペンスから、命を賭けた大恋愛を成就させるラブロマンスへ。