第七話
準備は万端だった。
ーー万端だったはずなのだ。
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我が家に隣接する森の奥には小さな教会が建っている。
グランハート家の別邸が建つ前からあったが、その時にはすでに存在を忘れられており、無人と化していた。
私が見つけられたのは偶然だ。この家に引っ越してきたばかりの頃、反抗期真っ只中にあった私はよく家を飛び出し、森に逃げ込んだ。
逃げ込んではリチャードに連れ戻されていたのだが、当時の私は今の私ほど聞き分けが良くなかった。両親とリチャードの隙を突いては森に入ったものだ。
裏門から少し森の奥に入ると、分かりにくいが一本の道があってその道を歩くのが私は大好きだった。木々が生い茂りどこか陰鬱とした森で、道とも言えない獣道だったけれど、僅かに差し込む光が別の世界に誘っているようで、童話の登場人物になれたような気がした。
このまま、ここではないどこかへ行ければいいのにと思った矢先に見つけたのが、その教会だった。
建てた当初は美しかったのだろう教会も今や見る影もなかった。
扉は蝶番が壊れ、ほぼ全開だった。白いはずの壁は蔦が覆い草汁で緑色に変色し、ステンドグラスも砕け散り雨風が吹き荒び放題だ。整然と並べられていただろう椅子も壁際に追いやられ、辛うじて椅子だったと分かる程度にしか原型を留めていなかった。
神に祈るための祭壇も雨土に汚れ、神を冒涜しているとしか思えない惨状だった。
それでも、私にはその教会がとびきり美しく特別な場所に思えた。
私が見つけた、私しか知らない、私だけの場所。
だから私は森へ行くのをぱったりとやめた。私を探しに来たリチャードにその教会を知られたくなかったからだ。
私だけが知っていればいい。他の誰も知らなくていい。
幼い私はちっぽけな独占欲を満たすために、大切な場所を手放したのだ。
そうすれば、永遠に私のものになると思ったから。
最後の手向けだ。奴の死に場所は私の特別にしてやろう。
たとえ偽りだったとしてもあんなに熱心に私への愛を捧げたのだ。ほとんど嫌がらせだったとしても、最後くらい私の一部をくれてやってもいいかもしれない。
何より、我が家で騒動を起こす訳にもいかず、人気のない場所が他に思い浮かばなかっただけだが。
我が家から教会まで歩いて十五分ほどの距離だ。存在は忘れ去られているとは言え、昔は人が通っていたであろうその場所はそれほど遠くなく、奴ならば場所を記せば自力で辿り着けるだろう。
朝日が登る前、闇に乗じてひっそりと家を抜け出した。
バルコニーから外へ出るのは数年ぶりだが、案外うまくいった。掴まりながら体を宙にぶら下げ、なるべく音がしないように中庭に降り立つ。両親とリチャードが起きる前に帰れば、抜け出した事はばれないはずだ。部屋に戻る時はもちろん、壁を使ってバルコニーによじ登る。これが意外と登りやすく、もちろん奴が登ろうと思えば楽勝だったのだが、流石の奴もそこまでの暴挙にはでなかった。
裏門から出てランプを灯すと、記憶を頼りに獣道を捜す。
教会へ行くのは見つけた時以来だ。しかも世界は闇に覆われ、森は侵入者を拒絶するように、ざわざわと音を立てている。
けれど、私は迷わなかった。何度も何度も記憶の中で繰り返した道だ。たとえ、我が家への帰り道が分からなくなったとしても、この道だけは迷わず進む自信があった。
いろんな事をとりとめもなく考えながらしばらく歩くと、森が途切れた。
気だるげな朝日がのっそりと顔を出すのに合わせ、薄闇の中に黒い塊が姿を現す。
着いた。ほんの少し明るくなった視界に飛び込んで来たのは、あの時よりまた幾分かぼろくなった教会だった。
扉は完全に外れて、蔦は勢力を増し、森に同化しかけている。中も変わらずひどい有様だ。瓦礫が積み上がり、折れた枝が転がっている。
それでも、砕けて床に散らばったステンドグラスが僅かな光に反射し煌めいて、朝の清廉な空気が神聖さを呼び込む。朽ちて尚、私を受け入れてくれた気がした。
けれど、この空気に浸っている時間はなかった。
昨日も我が家を訪れた奴に、明日、陽が昇る刻に我が家に来るよう言っておいたのだ。
中庭に置き手紙を残してきた。手紙には私が死を選ぶ事、そしてこの場所に来るようにと書いて。
手紙を読んだなら奴はもうすぐ、ここに来るはずだ。“仮死の毒”を飲んで効き始めるまでに多少の時間を要するだろう。
のんきにしている場合ではない。
“仮死の毒”はヨハネス・ルクセンブルクが首尾よく入手したらしく、あの日から一週間もせずに家に届いた。
服用量は一回一瓶。効果の持続時間はたったの一時間。
思ったより時間が短く、タイミングを合わせるのは難しそうだが、贅沢は言っていられない。よっぽどの事がない限り、奴が時間に遅れることはないだろう。私が知る限り奴はそういう奴なのだ。
私は祭壇へいき、寝転ぶ場所を確保した。瓦礫を退かし、ガラスのかけらを拾った木の枝で払う。作業が終わると私はそこに座り、隠しポケットから青緑色の小瓶を取り出して目の前に掲げた。
『ロミオとジュリエット』に出てきた、本来なら二人の道を繋げるはずだったアイテム。けれど運命は狂い、二人の命を奪う『毒』になってしまった。
そして今、奴の執着から私を解放するための『救い』に。
小瓶の蓋を開けると私は躊躇いなく喉の奥に流し込んだ。
飲んでしばらくすると、瞼が重くなってくるのを感じた。身体の力が徐々に抜けていく。手の中から小瓶が転がり落ちた。
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「……てるよ、ジュリエット。心から」
誰かに名前を呼ばれて私はうっすらと目を開く。なぜか身体が自由に動かず、内心で眉根を寄せる。
ああ、そうだ。思い出した。私は“仮死の毒”を飲んだのだ。奴に死んでもらうために。
別に、本当に奴に死んで欲しかった訳ではない。お前が死ぬ程嫌いなのだと、伝えるだけで良かったのだ。
口で言ってもどうせ分かってもらえないから、行動に移しただけ。
ここまですれば流石の奴も理解するだろうと思って。
だから。奴との最後だから、この場所を選んだ。奴との終わりにここが相応しいと思った。
の、だけれど。
私の視界に映り込んだ奴は、私が持っていたのによく似た小瓶の中身を何の躊躇もなく口に含んだ。
なぜ?どうして?という疑問が際限なく湧き出るのに言葉にならない。
私の思考能力は鈍いままにも関わらず、一つの結論を出してしまった。
もし、奴の言葉が全て真実だとして、私が死んだと思った奴が取る行動は決まっている。
(……まさか、毒を!!)
そんな。まさか。止める間もなく奴は毒を飲んでしまった。私は死んでない。死んでないのに!
まさしく『ロミオとジュリエット』ように。
私は声にならない声で叫んだ。
その声を聞き届けたように、奴の紫色の瞳が私を射抜き、近づいてくる。私を見つめるその瞳はいつも通り愛おしげに細められ、唇は満足げに弧を描いている。
ああ、やっぱり顔だけは極上だ。間近で見ても、間近だからこそ分かる美しさがある。女達が嫉妬するほど肌のきめが細かく滑らかで、つい触りたくなってしまう。
紫の瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいて、何時間、眺めていても飽きる事はないだろう。
奴が望めばいくらだって別の道があったのに。私なんかと関わらなければ、私なんかに恋をしなければ、私なんかよりずっと美しい女性が貴方の前に現れたはずなのに。
童話のように身も心も美しいお姫様が。美しく才能に満ち溢れた貴方に相応しいお姫様が。
なのに、奴は一心に私を見つめ、奴の唇はそっと私の唇に舞い降りる。
眠り姫を目覚めさせる、唯一の王子だと言わんばかりに、甘く優しいキス。
ーーだったのは、触れ始めの一瞬だけだった。
あろうことか、次の瞬間に奴の舌が私の唇を押し開き中に侵入してきた。もちろん私は抵抗しようとしたが、身体に力は戻っておらず、それは叶わない。
通常の私なら舌を噛み千切ってやったのに!と内心歯ぎしりしながら、されるがままに奴の深い口づけを受け入れる。奴の舌が私の舌に触れるという不可解な現象に翻弄されていた私は気づくのが遅れてしまった。
奴は煽った毒を飲み込んでいなかったのだ。
私の口内に奴の舌と共に液体が流れ込む。吐き出そうとしても奴が離してくれるはずもなく、酸欠になりかけた身体は空気ではなく口の中にあったものを飲み込んでしまう。
それを見届けて奴はやっと口を離してくれた。おまけとばかりにちゅっと音を立てて。
「たどり着く先が天国でも地獄でも、僕は決して君を離さない。だから、安心して僕の所に堕ちてきて?」
ぺろり、と濡れた唇を舐める奴は壮絶な色気を放っていた。
奴は微笑んだまま、私に覆い被さるように倒れた。耳元で吐き出される呼吸は乱れて苦しそうだ。奴に乗っかられた私はもっと苦しい。
奴の心臓と私の心臓は重なり合い大きすぎる心音を奏でる。
初めからひとつだったみたいに。
私は悟った。悟ってしまった。
私は毒を飲んだのだ。
奴から決して逃れられないこの世で最も理不尽な毒を。
沈んでいく意識の果てに見たのは、幸せそうに睦み合う一組の恋人達だった。