第六話
「私を愛してると言うなら死んでくださらない?」
「愛しい君を一人残していけないよ」
「じゃあ、私が死んだらあなたも死ぬの?」
奴はそれは美しい笑みを浮かべて、清々しいほどきっぱりと言い切った。
「もちろん。君のいない人生なんて想像も出来ないよ」
その言葉に私は拳を握りしめ、覚悟を決めた。
*****
奴を殺す方法は実に簡単だ。
私が死ねばいいだけの話である。
私を本当に愛しているのかは分からないが、奴の私への執着は本物だと、この一年を通して嫌というほど理解できた。
でなければ、こんなに頻繁に軽犯罪を繰り返し私に会いに来る事はないだろう。奴は世間では立派な貴公子を務めつつ、私の前では立派な変態ストーカーを究めている。
なぜ、私にそこまで?と思わない事もないが、私が死んだら奴も死ぬというなら、言葉通り死んでもらうだけだ。
問題は如何に奴の前で死んでみせるかという事だ。
否、如何に私は死んだと奴に思わせるかだ。私が実際に死んでしまったら、それこそ本末転倒というものだ。私が死ねば私が抱える諸問題は一気に解決するが、自殺するほど追い詰められてはいないし、できれば、長生きしたとは思っている。
私は死にたいのではなく奴に死んでもらいだけだ。
そのために見せかけの死が必要となるのだが、私にはとっておきの秘策があった。
この計画のために、彼には是非ともロレンスになってもらわなくては。
*****
「お久しぶりです。ヨハネス様。あの夜会一度きりのご縁に寂しい想いをしておりました」
そう言って、上目遣いで拗ねたように見つめれば、ヨハネス・ルクセンブルクは面白いくらいに狼狽して、視線をあちこちにさ迷わせた。
「や、やあ。グランハート家のご令嬢。久しぶりだね。美しい人に寂しい想いをさせてたなんて、紳士にあるまじき行為だな。あ、あはは……。申し訳ないが、私はちょっと忙しいので、またの機会に……」
「そんなつれないこと仰らずに。少し私とお話ししてくださいませんか?よろしいでしょう?ね?」
砂糖過多の口説き文句はどうしたと問い質したいくらい、言葉にキレがない。額にも汗が浮かんでいるようだ。前回は近すぎるほど体を寄せ、何かと理由をつけて触ってこようとしていたくせに、紳士的というには引き過ぎで会話の適正距離からも遠く、隙あらば逃げ出そうと機会を伺う小動物のようだ。
何をそんなに恐れているのか。まあ、分からないでもないが、素知らぬ顔して今回は私から迫る。私が一歩近づいた分、彼が一歩離れるという行為を繰り返し、壁際まで追い詰めれば、ヨハネス・ルクセンブルクに逃げ場はない。
「私のささやかな願い、お優しいヨハネス様は叶えてくださいますわよね?」
私は極上の笑みを貼り付けた。私の笑みにヨハネス・ルクセンブルクは何を感じ取ったのか、「分かった!分かったから少し離れてくれないか!?」と恐ろしいものを見たような眼差しを向けてくる。失礼な。私が何をやったというのだ。頼みごとだって、言葉通りささやかなものだ。奴の暗殺を依頼する訳でもなく、関わった彼に何か損失がある訳でもない。
一度は確かに私を助けると言ったのだ。彼の誠実さを私が証明してあげようというのに、躊躇うことなどないではないか。何より、美人の頼みは一も二もなく頷くものだと相場が決まっている。
「仮死の毒!?そんなもの何に使うんだ!?」
「乙女の秘密ですわ」
そう答えた私にヨハネス・ルクセンブルは脱力したように肩を落とした。
「……何に使うかは置いておいて、そうやすやすと手に入るものではないと思うが」
「だからこうして、ヨハネス様を頼っているのではありませんか」
場所は変わって解放された庭園の方へ来ている。夜会を開く家というものはどこもかしこも庭があり、我が家の自慢とばかりに美しく整えている。
家主のセンスと財力が問われるため、怠慢は許されないのだろう。この家はなんと噴水まで設えていた。庭の中心にある噴水は円型で恐らく大理石で作られている。中央には翼を生やした天使が水瓶を持ち、そこから水が止めどなく溢れている。
夜の噴水で逢瀬を、なんてロマンチックではないか。にも関わらず、私たちの他に人はいない。
昼間なら可愛らしい天使と清涼な水の流れに癒されるのだろうが、いかんせん夜とあってはいくら松明が焚かれていようとも、天使の顔は影に覆われ不気味でしかない。それに春の終わりと言っても夜は結構冷え込む。バルコニー程度ならともかく、長時間外にいれば普通に凍える。噴水の側なら尚更だ。恋人たちならお互いの熱で平気なのかもしれないが、今日のところはそんなお熱いカップルはいないらしく、私にとっては都合のいい事である。
噴水から水が流れているため、静か過ぎることもなく、内緒話をするにはもってこいだ。豪快な天使に感謝せねばなるまい。
「……もしかして、以前あなたが助けて欲しいと言った事と関係があるのか?」
彼は声の聞こえる最大限まで私から距離を取っているにも関わらず、更に声を潜めた。何かを探すように視線を巡らし、ずっと落ち着きがない。せっかくの色男が台無しだ。追手から逃走中の犯罪者のようだ。
彼がここまで怯える相手はひとりしかいないだろう。
まったく。奴は一体何をやらかしたのか。以前、奴が持ってきた手紙に差出人の名前はなかったが、まず間違いなく挙動不審なこの男が書いたものだ。奴は手紙を届けただけで、詳細は語らなかった。それでも奴と彼の間に何かがあったのだと馬鹿でも察するほど奴の言わんとするところは明け透けだった。
奴の手のひらの上で転がされているようでまったくいい気がしない。
関係ないのに巻き込まれてしまった彼も憐れだと思うが。
醸し出す雰囲気だけで人はここまで変わるのかと感心しつつ、私にはどうでもいい事柄のため、そっくり頭から追い出した。
「さあ、どうでしょう?知らない方があなたの為だと思いますけれど」
ヨハネス・ルクセンブルクは沈黙し、ごくりと生唾を飲み込んだ。嚥下するのを見届けて、私は更に優しく問いかける。
「お優しいヨハネス様は憐れでか弱き小娘にお慈悲の手を差し伸べてくださいますわよね?」
「……ぜ、善処する」
「今度こそ助けてくださいますわよね?」
「…………はい」
なぜ、ちょっと涙ぐんでいるのだろう?もしかしたら奴に何かされたのかもしれないが、私は彼に何もしていない。可愛らしくお願いしただけだ。男らしく袖で目元を拭うのはやめて頂きたい。
*****
数日後、Y・Rから片手に収まるほどの小瓶が届けられた。
青緑色の小瓶はよく目を凝らすと細工が施してあり、瀟洒な香水瓶のようにも見える。試しに蓋を取り、鼻を近づけてみても匂いはしなかった。
蓋を元にもどすと私は右手で瓶を握りしめた。もう片方の手は膝に抱えた本の表紙をなぞる。
ロミオとジュリエットは悲劇とされているが、私には幸福な物語だった。
家は敵同士でも、他の誰にも祝福されなくとも有り余るほどお互いを愛し合っていた。たとえ、最後に待っているのが死だったとしても、最後の瞬間までふたりは愛を貫き通したのだ。
それが、どれほど得難く、幸福なものか。
ジュリエットは世界で一番の幸せ者だったに違いない。
名前は同じジュリエットでも私は彼女のようにはなれない。愛を誓い、愛のために人生を捧げるなど、出来るはずがない。
だから私は彼を殺すしかないのだ。
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『ライオネル・ユーフィルム様へ
私があなたの愛に答える日は永遠に来ないでしょう
私は死にます
こんな女に懸想せず、まともな女を好きになっていれば、あなたも幸せになれたはずなのに
それでも、あなたはこんな私を追って、一緒に死んでくれますか?
ジュリエット・グランハート』
人気のない教会の祭壇の前にはひとりの少女が横たわっていた。豊かな亜麻色の髪は床に波のように広がっている。白皙の頰に血の気はなく、知らなければ精巧に出来た人形だと勘違いしてしまいそうだ。華奢な肢体が纏う白いドレスは彼女の清らかさを最大限に引き立たせ、彼女は天使なのだと言われれば、すんなり納得してしまうほど、よく似合っていた。
そんな少女の元にひとりの青年が歩み寄る。少女のすぐ横に跪くと亜麻色の髪に愛おしそうに手を滑らした。
青年は知っていた。
少女が人形でも天使でもない事を。
どんなに冷静さを装って大人ぶっていても、最後には子供のように癇癪を起こす一面も。口も達者だが、それより先に手や足が出るところも。愛を語る言葉に不愉快そうに顔を顰めながら、頰を赤く染めている姿も。
美しい物を愛し、物語を愛し、愛するものを前に輝くエメラルドのような瞳も。
それら全部が愛しい彼女を形作る。
青年は初めて貰った彼女からの手紙を手に苦笑を漏らす。
「こんなまわりくどい事しなくても、君の可愛らしい願いならいくらでも叶えるのに」
青年は懐から小さな小瓶を取り出した。青緑色の小瓶は奇しくも少女の側に落ちている小瓶によく似ていた。
「愛してるよ、ジュリエット。心から」
青年は小瓶の蓋を開け、一気に煽ると、少女の柔らかな唇に口づけを落とした。