第四話
世の中には恋の病とは別に薬のつけられない不治の病があると聞く。
一つの言葉で括られるものの、ジャンルは多岐に渡り、他人に害のあるもの、無害ではあるものに分けられる。趣味と呼ばれる事もあるが、他人に理解される事はなく、共感を持ち得れば、それは同類であるに他ならない。
時として行動がエスカレートし、最終的に牢屋に行き着く者も決して少なくない。
恋とは似て否なるもの。
両者の決定的な違いをあげるとすれば、救いがあるのが恋で、救いようがないのが、奴のかかっている病だ。
一方的な贈り物。過度な接触。自宅への押しかけ。覗き。
これらは一般的なストーカー行為だろう。
行き過ぎた愛情や転じた憎しみから、元は普通の人間であっても至ってしまう可能性がある。それだけでも忌むべき行為であり、滅べばいいと思う事案だが、奴は更にその上を行く。
ここまでの奴の言動から考えるに、おそらくというか、十中八九、痛みを快楽とする被虐趣味者だ。
奴は様々な面で優れている故に慇懃な対応を受けてきたのだろう。家柄しかり、容姿しかり、能力しかり。奴を虚仮にできる人間がこの世の中にどれほどいようか。
ある程度ものを考えられる人間ならば、奴に手を出すより、すり寄った方が得策だし、自分の不出来を棚に上げて奴への嫉妬から危害を加えようとする愚か者が、身体的にしろ精神的にしろダメージを与えるなんて不可能だ。
奴は自身の奥深くに眠っていた開かずの扉の存在を今日まで知らずにいたに違いない。
故に初めて快楽を与えたであろう私にここまで執着してきたのだ。でなければ、殴る蹴るの暴行に加え、噛みつきまでしたのに私に付き纏う要因が見つからない。
いや、待てよ。そうなると奴の開けてはならない扉を開けてしまったのは私という事にならないだろうか?奴から逃れるためといっても手や足を出したのは私の方だ。過剰防衛と言われたらそれまでだが、他に方法を思いつかなかったし、奴がそっち側の人間だなんて予想できるはずがない。
私は悪くないという犯罪者共の常套句が思い浮かんで弾けた。
今、重要なのは奴が変態たる所以ではなく、変態を如何に追い返すかだ。下手に攻撃を加えれば奴は喜ぶに違いない。
だからと言って婉曲に伝えた所で、甘ったるい言葉に変換して打ち返してくるのだから、私へのダメージの方が大きい。
私は頭を振って、気持ちを切り替える。いくら考えたって最善の打開策は思い浮かばない。
ならば難しく考えるのはやめよう。いくら奴が権力者であっても、今のこいつは我が家に不法侵入しているただの犯罪者だ。遠慮していた私の方が馬鹿らしくなってくる。
奴を囲むように落ちていた影も横に伸び、時間の経過が伺える。陽が沈む前には両親も帰ってくるだろう。その前に決着をつけるべく私は重い口を開いた。
「……何を勘違いなさってるのか分からないけれど、私はあなたへの好意なんてこれっぽっちも持ち合わせておりませんの。男女の逢瀬とは同意の元に果たされるべきではないかしら?一方的な贈り物も処分に困りますし、こうして会いに来られても不愉快なだけですわ。早急にお帰りいただけます?」
奴を見る目にも最大限の侮蔑を込めた。これで伝わらなかったらどうしようと内心ドキドキしつつ、奴の反応を伺う。
奴は訝しげに眉をひそめ、思案するように顎に手を当てた。自身の行いを振り返っているのだろうか。よし、気づけ。自分が何を仕出かしたか自覚し、反省しろ。しかし、私の思いとは裏腹に奴はゆるゆると笑みを取り戻すと、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「ああ、ジュリエット。拗ねているんだね。君の意見を聞かなかったのは謝るよ。今度からは訪問する前に手紙を書くし、君が望む物ならなんだってあげる。妖精のドレスでも、小人が作った靴でも、ドラゴンが守る宝珠でも。君のためなら僕はなんだって出来るんだ。それだけは忘れないで」
見事に全く伝わっていなかった。お前は私の恋人かと思うような言葉にぞわっと鳥肌が立つ。
妖精のドレスも小人が作った靴もドラゴンが守る宝珠も、絶対に手に入らない物の例えで『月華姫の婿取り物語』という童話にも出てくる品々だ。
月華姫はこの世のものとは思えぬほど美しく求婚者が後を絶たなかった。結婚する気の全くなかった月華姫は効率よく振るために私と結婚したくば取ってこいと無理難題を条件に掲げたのだ。数多の求婚者たちは挑戦したが手に入らず、偽物を拵えた者も看破され、誰もが諦めざるを得なかった。たったひとりを除いて。
その青年はドラゴンと一騎打ちで対峙し、見事勝利したのだ。
青年は宝珠を携えて月華姫の前に現れるとそこで初めて誠心誠意プロポーズした。
その青年は実は月華姫の幼馴染で、幼い頃からずっと慕っていたのだが、身分が釣り合わず、想いを秘めていたのだ。
月華姫も同じく青年を想っていたが、身分ゆえに告げられず、わがままなふりをして結婚を遠ざけていた。
ドラゴンを倒した青年との結婚を誰が反対できようか。ふたりはめでたく結ばれ、末長く幸せに暮らしました、と物語は締めくくられる。
身分を越えたふたりのラブロマンスは世の少女たちの憧れの的だ。不可能を可能にするほどの愛に誰がときめかずにいられようというものだ。
多少なりとも相手に好意を抱いていればの話だが。
私の奴への好感度など、豆粒どころか砂粒ほども存在しない。そんな男に不可能を可能にすると言われてもときめきどころか身の危険しか感じないに決まっている。なんでも出来るからと言って人の家に不法侵入する男を素敵だと感動する女がいるものか。
そもそも人の話を聴かない男とどうしてなんらかの感情を育めると思うのだろう。
奴が変態だから仕方ないと諦めるには、心の許容量がそれほど大きくない私には出来かねた。
私は抑えきれないため息を口から吐き出し、欄干に肘をつくどころかしなだれかかった。
もう、面倒くさい。部屋に戻ってベッドに潜り込みたい。奴は変わらず、にこやかに微笑んでいる。あれは私への当てつけだろうか?苦しむ私を見て、やっぱり楽しんでいるのだろうか。変態であることに間違いはないだろうが、その欲求がひとつだけとは限らない。
そもそも、なぜ、私がこんな思いをしなければならないのだろう。夜会を抜け出して、偶然奴と出会って、それからは付き纏われて。家にまで不法侵入されて。欲しくもない甘い言葉を垂れ流されて。
私の中で切れてはいけない何かが切れる音がした。
「来るな。構うな。近寄るな。即刻、出ていかなければお前のご自慢の顔に傷をつけて二目と見られなくしてやる」
被る猫など一匹残らず逃げ出した。自分を取り繕う余裕など一切ない。私はすっくと背を伸ばし、目は座っていたはずだ。声は誰にも聞かせた事がないほど低く唸るようだったに違いない。
これで終われば良かったのに。
私の本性なんて世の男性が憧れるようなお嬢さんとはほど遠く、取り繕わなければ可愛げがないどころか、忌避されるほど気性が荒い。それを知れば大抵の男など離れていくに決まっている。私の上辺に騙されて、満足しておけばいいのに。
月華姫と同じように私は結婚を望まない。恋人もいらない。
恋心を押し付けられても面倒なだけだし、変態なんてもっとお呼びじゃない。
私はいつかするであろう政略結婚まで静かに暮らしたいだけ。ほんの少し両親に逆らって、最後には従って、ジュリエット・グランハートの人生を消費していくのだ。
そこにライオネル・ユーフィルムの居場所は欠片だってない。
それなのに、奴の中に私から手を引くという選択肢はなかったらしい。
「無理だよ。僕は君に囚われてしまった。自分でも信じられないほどにね」
奴は常に浮かべている笑みに苦味を加え、奴自身、困惑しているように見えた。それはほんの一瞬で気のせいだったのかもしれない。奴はすぐに仮面のような笑みを被り直すと、高らかに宣言した。
「覚悟しておくといい、ジュリエット・グランハート。君との間に高い壁が聳えるというのなら僕は軽く飛びこえよう。君との仲を割く者がいるならば、僕は決して容赦しない。君の心が僕にないというのなら、どんな事をしてでも振り向かせてみせる。絶対に逃さない」
紫の瞳がきらりと光る。獲物を見定めた肉食獣の瞳だ。
私は踵を返して部屋に戻ると手近にあった本を一冊掴み、再びバルコニーに出た。掴んだ本を奴めがけて思い切り投げつける。本の角が一直線に、奴の顔面へ飛び込んでいく。しかし、奴はひょいと片手で受け止めた。
本当に当たるとは思っていなかったが、こんなにもあっさり受け止められると悔しい。私は思わず唇を噛んで地団駄を踏む。奴は心底楽しそうに私を見上げ、思い出したと言わんばかりに、口を開いた。
「そういえば、大切な事を伝えていなかったね。愛してるよ、ジュリエット」
ついでのように言われた愛の言葉に私の理解が一拍遅れた。ぽけっと固まってしまった私に奴は声を立てて笑い、手に持っていた本を芝生の上に丁寧に置くと、一歩下がった。
私がまた部屋に戻って奴に投げつけるものを取りに行く前に、奴は驚くべき速さで植込みの向こうに消えていく。
こんな台詞を残して。
「今日のところは帰るよ。近い内に会いにくるから待っていて。愛しい僕の天使!」
私が呆然と奴を見送っていると、表玄関の方から、ガタゴトと車輪の回る音が聞こえてきた。門が開き、人の話し声も聞こえてくる。両親が帰ってきたのだ。
「ジュリエット!父と母が帰りましたよ!部屋にこもってないでお出迎えしなさい!」
と母の声が呼びかけてくる。私は慌てて玄関へ向かい、言われた通り両親を出迎えた。父はいつも通り不機嫌そうに眉根を引き寄せ、母もまた不満そうに唇を尖らせている。今日の夕飯でも、愚痴を延々と聞かされるに違いない。リチャードの姿は見えないため、馬車をしまいにいったのだろう。グランハート家も辛うじて馬車を所有している。二頭立ての馬車だが、年季が入っているため、車輪の音がうるさく、馬たちも人間で言えばリチャードと同年だろう。働き者の彼らにまったく頭が上がらない。
私は両親の相手をしつつ、心の中で首を傾げた。さっきまでの出来事が夢のように感じられる。奴は本当に我が家の庭にいたのだろうか。
恋に焦がれる乙女たちの視線を一身に集め、将来を嘱望されている青年が没落したグランハート家の庭で虚言を繰り返していたなどと、誰が信じられよう。
もしかしら、奴への嫌悪感が見せた白昼夢だったのかもしれない。
けれど、そんな現実逃避も長くは続かない。
両親との憂鬱な晩餐を終え部屋に戻るとバルコニーへ続くガラス扉を開けっぱなしだった事に気付いた。閉めるついでにバルコニーへ出て、裏庭を見渡した。
陽はすっかり落ちて、月光が荒れた裏庭を照らしている。芝生も蔦も伸び放題で、闇夜に浮かび上がる様は、幽霊屋敷のようにおどろおどろしい。裏庭まで手入れをする余裕はないため放置されているが、『眠り姫』に出てくるいばら城みたいで、バルコニー同様お気に入りポイントだったりする。
なんとなく奴と初めて出会った時の事を思い出した。こんな風に月が明るい夜で、美しい薔薇園だった。出会ってまだ二ヶ月ほどしか経っていないというのに、一度の邂逅が濃密すぎるせいか、やけに長く感じる。
嫌な感慨に顔を顰め、奴が先ほどまでいた場所を睨むと、黒い塊が落ちているのが見えた。そういえば、本を投げつけたんだった。拾いにいかなくては。
私は慌てて外に出ると裏庭に向かう。植木の陰を何かががさりと通りすぎて、びくっと肩を震わせた。いつもだったら平気だが、また奴が潜んでいたらと思うと背筋が粟立った。
わざわざ両親の留守を狙って会いに来たのだ。今、私に接触してくる可能性は低い。奴もそこまで暇ではないだろうし。私の姿絵を描いていたという前科はあるが、深く考えていたらきりがない。
やっと裏庭に到着し、本を回収すると早足で部屋に戻る。自室の扉を閉めて、ベッドに腰掛けるとほっと息をついた。
私は腕に抱くように持っていた本を胸から離すと状態を確かめた。本ではなく靴を投げれば良かったと、今更ながら後悔が過ぎる。もしかしたらページがばらばらになっていたかもしれない。頭に血が上っていたとはいえ、大事な物を投げるなんて馬鹿な事をした。月明かりしかないため、よくは見えないが、幸いな事に損傷はなさそうだ。私は本の表紙を撫でて題名を確かめた。硬かった表紙は擦り切れて、端が脆くなっている。金色で描かれていた題名は掠れて読めなくなっているが、それでもこの本の題名はすぐに分かった。
ふっと懐かしさがこみ上げる。
これはマーニャが餞別として譲ってくれた物だ。五年前、前の屋敷を引き払う時、多くの物を置いていった。その中には私が大切にしていた本も含まれていた。両親は娯楽本に理解を持たず、邪魔になるからと持っていくのは許されなかった。今よりずっと幼かった私は両親に逆らえず、生まれて初めて悔し涙を流した。
屋敷を引き払うと同時にマーニャも解雇されたのだが、この家に越してきてしばらくするとこっそりと私を訪ねてきて、この本を含めた何冊かを譲ってくれたのだ。
『お嬢様が大事にしていた本はございませんが、私のでよければ気晴らしにお読みください。お嬢様の心がいつまでも健やかでありますように』
印刷技術が普及してきたとはいえ、本はまだまだ贅沢品であった。没落寸前のグランハート家から支払われる給料など微々たるもので、すでに使用人のほとんどは辞めていた。最後まで残っていたのもマーニャを含む数人だった。
事情があって辞めるに辞められなかった者たちの中で、マーニャはただ自分の乳を分け与えた私のために残ってくれていたのだ。その上、涙を流した私のために本まで譲ってくれた。本に綴られているのは物語だけではなく、優しい思い出だ。
この本は特に思い出深い。
マーニャは悲しい結末だからあまり好きではありませんと言っていたが、そんなことないと私はよく反論したものだ。
この本は私にとって特にお気に入りの一冊だった。
題名は『ロミオとジュリエット』
私と同じ名前の主人公。甘く切ない恋物語は私の心を虜にした。
目を閉じれば彼らの物語が脳裏に再生されるくらいには何度も何度も読み返した。
バルコニーで愛を語り合うふたり。互いの瞳には互いの最愛の人が映っていて、どこまでも幸福に満ち溢れている。そこに昼間の光景が重なった。紫の瞳が私を捕らえる。ロミオとジュリエットの姿が私と奴の姿に書き換えられる。
私ははっとして目を開いた。さっきまでの思考を振り払うようにぶんぶんと首を振る。下ろしたままの髪が頰に当たって少し痛い。
せっかく優しい思い出に浸っていたというのに奴のせいで台無しだ。若干、ほんの僅かに、砂粒程度には似通った状況ではあるかもしれないが、美しい物語と現状を重ねるなど言語道断だ。
奴は変態以外の何者でもないのだから、端から物語は破綻している。
今日は奴に付き合わされたから、疲れが溜まっているのだ。こんな日はさっさと寝るに限る。お風呂は明日の朝入るとしよう。本は枕元に置く。広げたままだったドレス類は蹴って落とし、寝る場所を確保する。ベッドに鎮座していた熊のぬいぐるみを抱くと顔を埋め、幼子のように丸まった。
しんとした室内に聞こえるはずのない奴の声が鼓膜の奥を震わせる。
『愛しているよ、ジュリエット』
ドクドクと脈打つ心臓を抑えるため、ぬいぐるみを抱く腕にぎゅっと力を込めた。
もう二度と奴に煩わされなければいいのに。そう願っても、叶うはずがないともうひとりの私が囁いた。