第三話
「なんであなたがこんな所にいるのかしら?ここはグランハート家の敷地だと思うのだけれど?」
「もちろん、君の隣が僕の居場所だからだよ」
奴は悪びれるどころか、素晴らしくいい笑顔でそう宣った。
白いシャツに黒いスラックス、首に緑色のスカーフを巻いているだけなのに、頭上に冠が見えそうな王子っぷりだ。大抵のお嬢さんなら奴の一言二言で腰砕けになるだろう。もしくは視線ひとつで落とせるかもしれない。アメジストのような瞳は私の目から見ても充分魅惑的で、紫という色をひとつの芸術に昇華させている。主観が入ると価値は暴落するが、客観的に見れば、奴の美貌というものを認めざるを得ない。
だからこそ、残念だ。
なぜ、奴は許可もなく我が家の裏庭にいるのだろう。グランハート家の人間がユーフィルム家の血族を敷地に入れるはずがないため奴の不法侵入は確定している。
この間まで春だと思っていたが、もうそんな季節が来たのか。いったいどこから湧いて出ただろう。庭の手入れをおろそかにするからこういった事態になるのだ。後で両親に文句を言わなければ。
兎にも角にも害虫駆除が先だ。
「私の隣よりもあなたにふさわしい場所を教えてあげる」
私はとびきりの笑みを貼り付けた。つられたのか、首を傾げつつ奴も唇に弧を描く。私はすとんと表情を落として、淡々と言い放った。
「牢屋の中よ」
行き過ぎた行為を懺悔しろ。けれど、私の言葉は通じなかったのか、奴の減らず口は留まるところを知らなかった。
「君と一緒ならどんな場所でも楽園に違いないね」
違う。そういう事を言いたいんじゃない。その返しだと私まで牢屋に入ってるではないか。私は軽い目眩を覚え、欄干に寄りかかった。
両親公認の引きこもりで奴に会わなくて済むと喜んだのもつかの間、こんなにも早く奴と再会するなどと誰が予想できただろう。
この間のガーデン・パーティーから一週間も経っていない。何だったら夜会などの頻度を考えて、これまでで一番早く再会を果たした事になる。
悠々自適な引きこもりライフを満喫するために、私は自室で寛いでいた。
前の屋敷から引っ越してきて五年も経ったせいか、やけに小物ばかりが増えた気がする。家具は淡い花柄のカバーがかかったベッドとリチャードが作ってくれた書き物机と揃いの椅子に、これまたリチャードが作ってくれた腰の高さに片手を広げた程の大きさの本棚があるだけだ。
夜会のためにと言っては、ない金を捻出して両親が用意したドレス一式はクローゼットに押し込んであるが、乳母のマーニャにもらった童話集や、小遣いをコツコツ貯めて集めた本が棚に収まり切らずに部屋のあちこちに置きっ放しになっている。宝物を守るドラゴンのように、大小様々なぬいぐるみたちが本と一緒に鎮座し、言ってしまえば足の踏み場がない。それでも、引っ越してきた当初のよりは大分ましな状況である。
大きな家具は持ち出せなかったため、埃を被っていた客間をそのまま使っていた。真っ白だったはずの壁紙は日に焼けて黄ばみ、ベッドは軽く叩いただけで埃が舞う有様だった。それこそ寝るためだけの部屋だったため他に家具もなく、掃除という技術を学ぶまでは空咳と随分親しくしたものだ。
壁紙を張り替えるという技術は三年前に習得したため、黄ばんだ、ではない生成りという柔らかな色合いに、花模様をあしらってある。
掃除の技術と片付けの技術は別物で、今の所片付けの技術は習得に至っていない。
そんな部屋でベッドに胡座をかいて、奴から贈られてきた品を目の前に並べていた。
せっかく奴がドレスだのアクセサリーをくれたので、捨てるのももったいないし有効活用できないか考えていたのだ。ちなみに、絵は速攻で火にくべた。冬だったら燃料の足しになったものを、ごみが増えて後始末が面倒なだけだった。
ドレスから布をとって、ぬいぐるみたちのために仕立て直そうか。アクセサリーもそのままだと大きいからパーツを別けて。口元に手を当てて考えていると、ふと窓の外が気になった。
カーテンが揺らめいて、心地よい風が入ってくる。大きなガラス扉は全開にしており、風と一緒に入る穏やかな陽射しが室内を照らしていた。
この部屋の中で一番気に入ってるのは何と言っても裏庭に面したバルコニーだ。半円を描くように張り出しており、裏庭を一望できる。夜になれば外に出ずとも星空を眺める事ができるため、以前住んでいた屋敷よりよほど気に入っていたりする。
本来なら素敵な場所なのだが、奴から贈られてきた絵の事を思い出し、憂鬱な気分になった。
バルコニーに佇む私の姿を描いた絵は明らかに不法侵入の形跡だ。裏庭のどこかに潜んで、私を観察していたのだろう。
なんとなく嫌な予感がして、昨日の今日でまさかと思いつつ、バルコニーから呼んでみれば、待ってましたと言わんばかりに奴は現れた。
両親の留守を狙って来たのか、はたまたずっと潜んでいたのか。どちらにしても笑えないから、深く考えるのはやめておく。
奴の存在はなかったことにして、部屋に引きこもってしまおうか。甘い誘惑に駆られたが、そういう訳にもいかないだろう。絵姿が贈られてきた事から考えても、これが初犯ではない。今後の対策も踏まえて、奴の侵入ルートを考察してみることにした。
裏庭まで来るにはルートが二つある。正門から入って屋敷をぐるっと回るか、裏門から入るルートだ。正門には常に鍵がかかっているため、開けてもらわないと入れない。よって正門ルートは選択肢から消える。
ならば裏門はというと、本来なら使用人が使うためにあるのだが、我が家には酔狂な執事もとい、忠義心に厚い執事リチャードひとりしかいないため、専ら彼専用だ。裏門と呼んではいるが、家の裏手には山菜などが取れる小さな山があるため、正しくは横手奥だ。南向きに立つ家の北西側に通じており、マーケットへ最短の道で行けるようになっている。
当然、裏門にも鍵はかかっているため、鍵がなければ入れない。リチャードは有能なので、鍵を閉め忘れるなんて初歩的なミスを犯すこともないだろう。
まあ、リチャードはすでに結構なお歳なので、ないとは言い切れないが。頭よりも身体に仕事が染みついているのか、そういう初歩的なミスは今のところ皆無だ。耳が遠くなってきたらしく、大声で言わないと用事も聞き入れてもらえない。それでも現役バリバリの矍鑠とした好々爺だ。もう随分前から引退を考えてもいいぐらいなのだが、彼がいなくなると本気で我が家が立ちいかなくなるため、まだまだ元気でいてもらわないと困る。
閑話休題。
正門も裏門もきっちり施錠され、屋敷はぐるりと壁に覆われている。何十年も前に建てたとは言っても、金を湯水のように使っても滝壺のごとく稼いでいた時代に建てた家のため、その辺はきっちりしている。
おいおい導かれる結論が、無駄に優れた身体能力を使って壁をよじ登って侵入してきた、だ。
正門側だと人目につく恐れがあるため、裏庭側から登って来たに違いない。普通の煉瓦塀でいくら上背があっても手をかけられる高さではないため、よじ登るという表現が相応しいだろう。
これでは防ぎようがないではないか。施錠に不備があったなら私が気をつければいい話だったが、壁を登られたら私だけでは対処しきれない。とは言っても奴はこれ以上の罪を重ねる気はないらしい。壁をよじ登れるという事は、バルコニーまで登ってくるのも容易いはず。屋敷に侵入してない分、まだマシだろう。だから私も、今のところは悠長に構えていられる。
私はバルコニーの欄干に肘をついて無言で奴を見下ろした。両親に見られたら行儀悪いと怒られるが、ありがたいのか残念なのか私以外は留守中のため、私の行動を見咎める者はいない。
私はバルコニーに立っているため奴は当然、頭ごと上を向く事になる。首が痛くなりそうだ。奴は平気そうにしているが、首を痛めて苦痛を味わえばいいのに。と奴の首回りを注視しているとスカーフの隙間から白い布がちらりと見えた。包帯を巻いているらしい。なるほど、包帯を隠すためのスカーフか。
そういえば、とガーデン・パーティーでの一幕を思い出した。あの時は首に噛み付いて逃げたんだった。血の味がしたから、今もくっきりと歯型が残っているに違いない。ざまあみろと思うが、それでも懲りないのだから、たちが悪い事この上ない。
熱心に見上げてくるその瞳は、あなたが恋しいと全力で訴えかけているようにも見える。けれど、弧を描くその唇はいつだって完璧な角度を保っていて良く出来た仮面のようだ。
これが恋の病に侵されたゆえの行動なのか、己の進退をかけた嫌がらせなのか、はたまた別の理由に起因するのか。仮面のような微笑みから読み解くのは難しい。
まあ、いいか。と私は独りごちる。理由はどうあれ私がするべき事に変わりはないのだから。
「質問に答えてくださる?どうして我が家の裏庭にいるの?通報されても文句の言えない立場だって分かっているのかしら?」
通報するぞと脅しをかけても奴はどこ吹く風である。逃げるそぶりを一切見せず、堂々とした立ち居振る舞いはどこに出しても恥ずかしくない貴公子然とした態度だ。ただひたすらに残念なのが我が家の裏庭であるという点だ。
「君がしばらく夜会に不参加だと聞いて、矢も盾もたまらずに会いに来たんだ」
奴は悲しげにまぶたを伏せた。ここからでも分かるくらい、奴のまつ毛はびっしり生えている。心なしか震えていて、とっくに成人した一人前の男なのに儚く消えてしまいそうだ。
「君と僕を繋ぐ接点は絹糸よりも細い。その事に気づけなかった僕を愚かだと罵ってくれて構わない。だから考えたんだ。どうすれば君と逢瀬を重ねられるのかを」
こういう殊勝な態度が母性本能をくすぐるのだろうか。奴の言動の端々から女に馴れていそうな風情なのだが、Y.Rと違って浮ついた話はあまり聞かない。漏れ聞こえてくるものの大半は明らかなでっち上げで、根も葉もない噂話程度だ。
情報統制がうまいのか、口の固い女を選んでいるのか、そっち方面でも奴は優秀らしい。
「考えに考えて僕はようやく気づいたんだ。それは至極簡単な答えだった。考えるまでもなかったんだ」
奴は伏せていた顔を上げ、晴れ晴れとした笑みを浮かべた。天上も奴を祝福するように、光を降り注ぐ。それと比例して私の表情筋が死滅していくのが分かった。
「こうやって、君に直接、会いにこれば良かったんだから」
なのにどうしてそんな結論を出してしまったのだ。優秀さをどこに置いてきた。罷り間違っても完璧な貴公子が出す答えではない。
私はここにきて嫌な可能性に思い至った。
奴の言葉ではないが、それは実に単純明快な答えだったのではないか。
奴と出会ってからの日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
初対面での慇懃無礼な態度。奴の体温。頰を張った乾いた音。繰り出した拳。芝生の感触。口内に広がった血の味。贈られてきた下着一式。夜空を見上げる私。首に巻かれたスカーフと包帯。バルコニーと裏庭。熱を孕んだようなアメジスト色の瞳。
星と星が線を結ぶように、私の中にひとつの結論が浮かび上がる。
これは惚れた腫れたの話ではない。ましてやただの嫌がらせでもない。
不可解に思っていた事柄すべてに説明がつく。
そもそも前提からおかしかったのだ。その美しい容姿と溢れんばかりの才能が目を曇らせていただけで、答えは初めから用意されていた。
奴は完璧な貴公子という仮面を被った、ただの変態である、という厳然たる事実が。