第二話
ウィンブル家の夜会ではその後、奴が手を離した隙に力いっぱい突き倒し、距離が開いたところで靴を脱いで全速力で逃げ出した。芝生が整えられていたため裸足でも痛くなかったのが救いだ。奴が追ってきていないのを確かめ、靴を履くと会場に戻る。思った通り、両親は周りに気づかれないよう説教してきたが、顔を真っ青にして体調が悪いから先に帰りたいと言ったら渋々許可をくれた。その日はなんとか事なきを得た。
これまで私は割と頻繁に夜会だの茶会だのに参加させられていたが、奴と会うことはなかった。なぜなら、ここでもユーフィルム家を避けてきたからだ。彼らが参加しそうなものは極力出なかったし、どうしても一緒になってしまうものには私は留守番という形をとった。夜会デビューして二年経つが数ある夜会の中で一度も邂逅しなかったのは両親の努力が身を結んだ唯一の結果といえよう。
そもそもなぜここまで徹底していたか。というのも、私が両親にとって最後の切り札だったからだ。両親は気づいているのかいないのか、やることなすこと裏目に出て、返り咲くどころか自分たちの立場を更に追いやっている。焦りを募らせては失敗を繰り返しの悪循環で、ありがたい事に今のところ借金はないがその内こしらえてくるんじゃないかとひやひやである。
両親にその手の才覚がないのが原因なのだが、すべてをユーフィルム家のせいにして、現実逃避している嫌いがある。
グランハート家を復興させるために短絡的な父と母が思いついた方法こそが私をユーフィルム家に負けず劣らずな名家の子息に嫁がせる事だった。婚姻関係で結ばれた家同士の繋がりは強い。嫁の生家として発言権を持てるし、事業をやっていれば色々融通が利く。いわゆる政略結婚だ。どちらにもメリットがあって成り立つものだが、我がグランハート家が没落した今、こちら側が提供できるメリットは家格のみだ。これでも歴史は古く、長きに渡って貢献してきたため、その点のみは他家に誇れる。まあ、言ってしまえばそれだけだ。古いだけの名門など他にいくらでもあるし、敢えて落ち目を選ぶ必要はない。ならば家格以外に何があるのかと言えば、両親いわく私の美貌らしい。
自分で言うのもなんだが、私の容姿は大変優れている。それこそ、天使だの女神だのと例えられて、不敬だと申し立てる者がいないくらいには。
その美貌を持って名家の子息を色仕掛けで落としやろうというなんとも不甲斐ない作戦なのだ。
私は淑女教育を熱心に施され、外見だけは完璧に仕上がった。ドレスを纏えば男たちの視線が集まるし、にっこり微笑めば大抵の者は頰を赤らめる。
両親は無駄に積極的で、方々に私を売り込み、さらなる高みを目指している頑張っている真っ最中だ。
狙い目はグランハート家の後釜的な位置に収まっているルクセンブルク家の嫡男。
ライオネルには及ばないもののそこそこ優秀で、将来的に大臣の地位には着くのではないかと期待されている。眉目秀麗とは言わないが甘いルックスは万人に受け、あちこちで浮名を流していると聞く。
ライオネル・ユーフィルムは規格外なため比べるだけ酷というものだが。
ちゃっかり後釜に収まったルクセンブルク家に思うところはないのか疑問だが、あの両親なら仕方がない。
という具合に私はグランハート家の切り札であり、詰まる所、政略結婚の駒なのである。
結婚に夢も希望も抱いていないため、自分の境遇に対して特に不満はないが、率先して家のために頑張ろういう気概もない。
がみがみ説教を食らうと長くなるため、概ね大人しく従ってはいるが、ウィンブル家の夜会のように面倒くさくなって抜け出す時もままあったりする。
そのせいで奴に会ってしまった訳だが。
そもそも何故、奴と会わないように計られていたかと言えば、ユーフィルム家との確執よりも、今回のような事を防ぐためだ。
若者の恋心は靴底についた泥よりも始末が悪い。感情ばかりが先立って、周囲の状況などお構いなしに盛り上がり、時に最悪の結果を引き起こす。
私と奴は互いに見目が良いため、一目惚れでもされたら堪らない。長年敵対してきたグランハート家とユーフィルム家が縁を結ぶなんて天地がひっくり返るほど有り得ないし、両家共にごめんである。そんな、天地がひっくり返るような出来事を引き起こしてしまうのが恋だの愛だのだったりするため、私と奴の出会いの場は徹底的に避けられてきたのだ。
私が恋に落ちる事はそれこそ有り得ないと思ったが、両親的にはほんの僅かな危険分子でも排除したかったらしい。
それはユーフィルム家にとっても同様で、社交界という広いようで狭い場所で私たちは互いを知らずに生きてきた。
人生の中で両親が正しかったと思う唯一の事柄だ。
ウィンブル家の夜会ののち、頻繁に贈り物が届くようになった。
贈り主の名前にはR.Yというイニシャルのみ。両親は喜んだ。きっとルクセンブルク家の嫡男からに違いないと思ったからだ。彼のフルネームはヨハネス・ルクセンブルク。正しくはY.Rになるのだが両親にとっては些細な事らしい。
まさかユーフィルム家の子息からとは思いもよらないのだろう。
中身はその時々で、薔薇の花束だったり、ドレスだったり、アクセサリーだったり。下着一式が贈られてきた時には両親にばれないように燃やし尽くして灰にした。
両親に連れられて夜会に行くと必ず奴はいて、隙を見せた瞬間に物陰に引っ張り込まれ、私に密着すると、砂を吐くようなゲロ甘な台詞を連発した。
『僕のジュリエット。君が太陽なら僕は雲だ。その美しさはあまねく人々に降り注ぐ陽射しのように光輝いていて、だから僕は君を誰からも隠してしまいたいんだ』
『最近、寝る前にこんな事を思うんだ。君を知らなかった僕はどうやって息をしていたんだろうって』
『ああ、僕はなんて愚かなのだろう。君の美しさを讃える言葉が思いつかないなんて。艶やかな亜麻色の髪を何に例えればいい?エメラルドのように輝くその瞳をどう表せばいい?』
などなど。脳みその代わりに砂糖でも詰まっているんじゃないかと、頭をかち割って確認したくなる程だ。
耳が溶ける前に逃げ出したいのは山々だが、がっちりホールドされるため、最初の時のように逃げ出すのが段々難しくなってきた。
腕ごと抱き込まれ手を封じられた時は、ヒールで思い切り足を踏みつけた。小指を狙ったのがうまくいったようで、奴は蹲って悶絶し、私はそのまま会場を後にした。
次の夜会では壁際に追い詰められ、手を封じられたのはもちろんの事、壁を利用して足も抑えられた。仕方がないため壁で反動をつけて、顎に頭突きを食らわせた。私の頭頂部も多大なダメージを負ったが、泣き言なんて言ってられない。奴はやっぱり顎に手を当てて悶絶したため、その隙に逃げ出しだ。
更にその次はガーデンパーティーに参加したのだが、さすがの私も警戒を怠らなかった。必ず、人の目がある場所で誰かと会話し、ひとりにならないよう注意した。奴はいつも私がひとりになった瞬間を狙ってきたためだ。
ガーデンパーティーは見通しの良い庭園で行われていたため、物陰に引きずり込まれる事もない。にも関わらず、主催者が挨拶をする段になり皆の注目が逸れた時を見計らい、人攫いのように抱きかかえられて、会場から連れ出されてしまった。
まさに神業だった。あんなに人がいる中で誰にも気づかれずに人を連れ出すなど、不可能なはずなのに、奴は飄々とやってのけたのだ。これが天才というものなのか。そんな才能、豚にでも食われてしまえ。まあ、中心にいるのが嫌で端の方にいた私も多少悪かったかもしれないが。
前回と同じように壁際に追い詰められ、足と手を封じられ、がっちりと肩を抑えられ、やっぱり奴は甘い言葉を垂れ流す。
ここまで私に嫌がらせをしたいのかと呆れつつ、それ以上の事はしないのだなとふと思う。有り得ないほど密着するし、誘拐犯一歩手前だが、無理矢理唇を奪ったりはしない。押し倒しすような事もしなかった。
そうなる前に逃げていただけかもしれないが、いくらだってチャンスはあっただろう。する事と言えば逃げられないように抑えられ、甘い言葉を囁くだけ。口説いているだけなのか、嫌がらせをしたいだけなのか、何を考えてるのかさっぱり分からない。だからと言って身に迫る恐怖がなくなる訳でもなく、私は逃げるために奴の肩に顔を埋めた。驚いたのか奴はびくりと肩を震わせ、だらだらと垂れ流していた言葉を引っ込めた。心なしか伝わってくる体温が上がった気がする。
私は大きく口を開け、奴の首に思いっきり噛み付いた。口内に鉄の味が広がる。
奴は声にならない叫びを上げ、私は唾を吐き出すと脱兎のごとく逃げ出した。靴は脱いで両手に持っている。なんだか裸足で芝生を駆けるのがくせになってしまいそうだ。
ここまでくると外に出る事自体が危険に思えてきたため、両親と交渉した。
ちなみにライオネル・ユーフィルムにちょっかいをかけられている事は両親には告げていない。より一層の面倒事に発展しかねないからだ。家同士の問題になった場合、負けるのはグランハート家に決まっているし、なんと言っても相手は完璧超人のライオネル・ユーフィルムだ。両親に太刀打ちできるとは到底思えない。
奴は奴でグランハート家とユーフィルム家の間のややこしい因果関係ゆえ、実に堂々と両家にばれないように絡んできているため、その辺は考えているらしい。
「お父様、お母様。しばらく夜会への参加は控えさせていただけないでしょうか?」
私は食事の手を止めて、両親に告げた。父は怒りも露わにカトラリーを皿に叩きつけた。母は淑やかさこそ忘れなかったものの眉を寄せて、私を睨め付ける。
「何をふざけた事を言っている。お前の肩には一族の復興とユーフィルム家への報復がかかっているのだぞ。わがままを言うな」
「なんて親不孝な娘なんでしょう!誰のおかげでここまで大きくなったと思っているのですか」
小娘の肩に大層なものを背負わすな。ここまで育ってこられたのは先祖が遺した功績と乳母のマーニャのおかげだ。とは口が裂けても言えないため、頰を染めて幸せそうな笑みを作った。
「お気づきかもしれませんが、贈り物をくださる方がいらっしゃるでしょう?彼とは先日の夜会で親しくなったのですが、お互いにゆっくりと関係を進めたいと思っているんです。彼はとっても恥ずかしがり屋で、公にするのは待ってほしい、と」
そう言えば、母が「まあ、まあ、まあ!」と声を張り上げた。さっきまでとは打って変わって気色の笑みが見る間に浮かんでいく。
「贈り物の主ってR.Yのお方よねえ。やっぱりそういう関係だったのね!もっと早く言ってくれればよかったのに。ご挨拶に行かなくちゃ。ねえ、あなた!」
「よくやった。ジュリエット。これでグランハート家が政界の頂点に近づくというものだ」
「お待ちください!ふたりの関係をもっと深めていきたいのです。政略結婚ではなく愛し合って、かけがえのないパートナーとして未来を歩んでいけたらと。家同士の繋がりでの前に個人として。そのための時間をいただきたいのです!」
八割方は嘘だが、贈り物は都合が良かったので利用させてもらう。両親は贈り物の主がヨハネス・ルクセンブルクだと思い込んでいるから、こんな話でも信憑性が増すはずだ。
イニシャルで贈られてくる点でも恥ずかしがり屋という部分に辻褄が合うだろう。
両親はすっかり信じ込んだようだった。怒っていたのが嘘のようにほくほく顔をしている。最後には「お前の好きにしなさい」というお言葉までいただいた。関係を深めたいから社交界に参加しないなんて言い訳、普通は通用しないが我が両親ならごり押し出来ると踏んではいた。逆にこうもあっさりいくと別の意味で心配になってくる。
兎にも角にも外出しなくていいという言質は取ったのだ。家に引きこもってしまえば、奴にも手出しはできまい。その内飽きて私から手を引くだろうからそれまでの辛抱だ。面倒な夜会に行かなくて済むなら一石二鳥というもの。こんな嘘が長続きしないのはわかっているが、その時はその時で適当に言い繕ってしまえば問題ない。それまでの間、引きこもりライフを存分に楽しもうではないか。とか思っていた私の方が甘かったと知るのは、そう遠くない未来だ。
家に引きこもって数日後、新たな贈り物が届く。差出人の名前はもちろんR.Yだ。
シンプルな白い封筒に入っていたのは「いつも君を見守っているよ」というメッセージと一枚の絵姿だった。
描かれていたのはバルコニーで星を眺めている私。細部までよく表現されていて、いつを描いたものなのかすぐに分かった。その日は空気が綺麗でいつもより星が輝いていたから、夜風の冷たさも忘れて熱心に眺めていたのだ。ネグリジェにカーディガンを羽織っただけの格好だったが、私の部屋は裏庭に面しているため誰かに見られる心配はなかった。
我が家に不法侵入しない限りは。