第一話
もう殺すしかない。
そんな結論を出すのに時間がかかりすぎたと思うほどには十二分に耐え忍んできた。
「ジュリエット、僕は夢を見ているんだろうか?君は本当は天使で、いつか僕の前からいなくなってしまうんではないかと恐ろしくなる。でも君を見ているとそんな考えが馬鹿らしくなるくらい君の存在は光り輝いていて、触れられないのがもどかしくなる。……ねえ?今日こそは降りてきてくれないか?君は幻ではないと僕の身体に刻みつけておくれ。僕の天使さま」
奴は柔らかな芝生の上に片膝をつき左手を胸に当てる。口元に緩やかな笑みを浮かべた奴は請うように右手を頭上に差し出している。薄茶の髪は艶やかに波打ち、どちらかといえば尖った印象を与えがちな面立ちを和らげる。鼻は高すぎもせず低すぎもせず、すべてのパーツがこれ以上ないよいう配置に収まっている。一番印象的なのはその瞳だ。紫色の瞳はアメジストのような輝きを放ち、一瞬でも視線が交われば目を逸らすのは困難な、そんな甘やかな魔力を持っている。どこの王子様だと問いただしたくなるその美貌は老若男女問わず魅了する。気障ったらしい仕草も奴がすれば様になり、差し出したその手が振り払われるなんて微塵も疑わない。
私はそんな奴を冷ややかな目で見下ろした。
「帰れ」
ポイントは簡潔かつ冷酷に。余計な事を言えば奴に会話の口実を与えることになってしまう。
どんなに罵ろうとも話せば話すほどに奴の口角が上がっていくため、何を言っても無駄だという事に遅ればせながら気づいた。作戦を変えて言葉少なに奴を追い払う作戦に移行したがうまくいっていないのが現状だ。
「ふふふ。相変わらずジュリエットは恥ずかしがり屋さんだなあ。遠慮せずに僕の胸の中に飛び込んで来ていいんだよ。しっかり抱きとめてあげるからね」
そう言って奴はおもむろに立ち上がり、両手を広げた。ここは二階といっても結構な距離がある。どれほど奴が身体を鍛えていようとも落下する人間の体重を受け止めるには骨の何本かを犠牲にしなければならないだろう。私にも奴にも百害あって一利なしだ。そもそも捕まったら最後、即監禁コースの男の腕に誰が飛び込むかと内心叫びつつ、下手な事を口走らないように、目を細めて奴を睨んだ。すると何を思ったのか奴は笑みを深め、こう宣った。
「君に翼があるのならどこへも飛んでいけないように捥いでしまいたい。だって必要ないだろう?君の居場所は僕の腕の中だけなのだから。さあ、堕ちてきて。僕のすべてで愛してあげる」
ぞくり、と背筋が震える。もちろん私に翼など生えていないけれど。もし翼があったのならば、私は羽ばたいてここじゃないどこかへ行くし、奴は愛していると言った女の翼を宣言通り一切の躊躇いなく捥ぎ取るだろう。こんな例えは馬鹿馬鹿しいけれど、奴の言葉に偽りはない。だからこそ空恐ろしく感じる。
指先に届いた震えをやり込めるように欄干を握って身を乗り出すと、毅然と声を張り上げた。
「いい加減にして!この、ストーカー!」
奴はにっこり笑い「君のストーカーなら光栄だ」なんてふざけたことを言いだした。
*****
私以外の人に奴の評価を聞けば大体の人が美辞麗句を並べ立てるだろう。子供時分から神童と持て囃され、成人した今尚同年代で奴と肩を並べられる者はいない。経済学しかり算術しかり歴史学しかり。国中を見たって奴と対等に会話できるものなど数える程だ。宰相候補のくせに剣を持たせれば本職と対等に打ち合い、団長自ら騎士にならないかとアプローチしているらしい。
能力面はさることながら、外見、内面、共に非常に優れている。
すらりと伸びた肢体は姿勢が良く、武にも通じているだけあって身体は引き締まり、適度な筋肉に覆われている。顔面は言わずもがな、清廉な見た目が内面を表すようにその気性も穏やかだ。常に微笑みをたたえ、何事にも動ぜず、物腰は丁寧。自身の優秀さを鼻にかけるような事はないが、だからと言って謙虚すぎるという事もない完璧な貴公子だ。
単身でも非の打ち所がないというのに、生家はユーフィルム家という国で一位二位を争う名家だ。父親は外務大臣を務め、一族に渡って国の中枢を担っている。
年頃の娘達がこんな好物件を見逃すはずがなく縁談話はひっきりなしだと聞く。いい歳なのだからさっさと結婚すればいいものを何をとち狂ったか婚約者のひとりもいないという。ちょっと前に奴に直接そう言ったら『君が首を縦に振ってくれたらすぐにでも』と寝言を言いだしたので、丁重に追い返してやった。
とまあ私以外の人間にとって奴は完璧超人なのである。
ーーそう、私以外には。
私に言わせれば奴は、様々な面で優れているが故に厄介な、盲信的で、ドがつく変態であり、恐ろしく執念深いストーカーだ。
奴と知り合ったのは、一年前に参加したウィンブル家の夜会だった。
ウィンブル家はユーフィルム家には及ばないものの国の中枢に食い込む名家の一つだ。野心に燃える両親はもちろん夜会に参加し、拒否権があるはずもなく私も同行させられた。
季節は春の終わりで、庭園に咲き誇る薔薇が美しかったのを覚えている。月明かりの中でも色あせる事なく存在を主張し、瑞々しい香りが会場に立ち込めていたまとわりつくような空気を洗い流してくれる。
愛想笑いに疲れた私は咎めるように見てくる両親に気づかないふりをして、早々に会場を後にした。想定されていたのか、自慢したかっただけなのか、迷路のように植えられた薔薇の道を照らすように所々松明が焚かれ、導かれるように進むと開けた場所に佇む東屋に出た。
誰もいないのをいいことに私は白い椅子に座って見るともなしに薔薇を眺めた。
夜でも充分美しいが昼間はもっと美しいのだろう。庭園はどこもかしこも綺麗に整えられ、文句のつけようがない。青い空のもと、緑生い茂る芝生と蔓草の先に真紅の薔薇。東屋は白で統一され、目を凝らせば細かい細工が施されている。猫脚のテーブルと椅子は優美の一言に尽き、アフタヌーンティーのスタンドとティーセットが揃えば童話のような茶会が始まるだろう。
夜は夜で静謐な空気と相まって美しいが好みから言えば是非とも昼の茶会に招待してもらいたかった。
そんな事をつらつらと考えていると来た方角から足音が近づいてきた。
別にやましい事はしていないが、どきりと心臓が跳ねる。両親が連れ戻しにきたのかもしれない。もしくは人目を忍んで逢瀬にきた恋人たちか。どちらにしても遭遇したくないなと思い、立ち上がって東屋を後にしようとした。けれど思いの外、その人物の歩みは早くどちらへ行こうか思案しているうちに、対面してしまった。
視線が交わった瞬間、世界が静止したようだった。絵画の中に閉じ込められたような錯覚に僅かな目眩を覚える。
月明かりに照らされ、咲き誇る薔薇の中で、より一層美しいかんばせの青年。暗色の夜会服を着ているのに輝きを放ち、薄闇の中でも恐ろしいほど造作が整っているのがわかる。白い頰は滑らかな線を描き、神の采配かと思うような鼻梁は男女共通の美を称えている。その中できりりとした眉と利発そうな瞳が青年としての魅力を際立てていた。一つ残念なのは暗闇の中では彼の瞳の色が分からないことだ。
私が見惚れるというより驚愕して目を瞠っていたのと同じように、青年も私を微動だにせず見つめていた。
どれほど時間が経ったのだろう。気まぐれに吹いた風に目の乾きを感じ、ぱしぱしと瞬くと魔法が解けたように時間が動き出した。先に口を開いたのは青年の方だった。
「……失礼しました。不躾にも貴女に見惚れてしまった事をお許しください」
顔が美しいと声まで美しいのか。静謐な月夜にふさわしい滑らかな声は心地よく耳朶を擽る。私は声も出せず、反射的に首を振った。
青年はゆっくりとした歩調で近づいてくると私の手を取り、指先に口付けを落とした。手袋越しなのに、移されたように指先に火が灯り、離されたと同時に反対の手で握りしめた。心臓がどきどきとうるさい。指先の熱が全身を駆け巡っていくようだ。いったい自分の身体に何が起こっているのか。こんな感覚は初めてで戸惑いつつも、目の前の青年が次に起こす行動を期待する自分がいた。
甘やかさを称えた瞳がまっすぐに私の目を射抜く。私は無言のまま見つめ返し、青年は蠱惑的な唇を開いた。
「僕はライオネル・ユーフィルム。よろしければ貴女の名前を教えていただけませんか?」
その名を聞いた瞬間、全身を駆け巡っていた熱が一気に冷めた。
ライオネル・ユーフィルム。その名を聞いた事のない人間などこの国にはいないだろう。連日新聞に取り上げられ、雑誌で特集も組まれている。乙女たちは白黒の写真をうっとりと眺め、切り抜きを集めていると聞く。
だが私は名前は知っていても奴の顔は知らなかった。両親が写真や絵姿といったものを徹底的に排除してきたからだ。
そもそもの話をするならば我がグランハート家と奴のユーフィルム家は敵対している。いや、敵対していたと言った方が正しいだろう。
家格は拮抗し、何代にも渡って国を二分するように争い続け、時には流血沙汰にまで発展したという。それでも絶大な勢力を誇っていた両家は国を担い、その傍らで蹴落とし合うという歴史を刻んできた。
そんな均衡が崩れたのは今代、私の父が家督を継いでからだ。詳しくは教えてくれなかったがユーフィルム家の作略に嵌ったとか、貶められたとか。我が家はあっという間に傾き、首都の中心部に構えていた豪奢な屋敷を引き払い、何十年も前にセカンドハウスとして建てて結局使わずじまいで放置していた家に引っ越す事を余儀なくされた。
両親はすべてユーフィルムのせいだというが、正直グランハート家を没落させたのは父の愚鈍さにあると思っている。頭は決して悪くないが、思い込みが激しいというか視野が狭いというか、甘やかされて育ったせいか詰めが甘いのだ。
頭よりは手下その二くらいが丁度いい。そんな人間を跡取りにした祖父もどうかと思うが今となってはどうしようもない。
そういう訳で我がグランハート家は時の権勢を失い、ユーフィルム家を一方的に敵視している訳だ。
私個人にとってライオネル・ユーフィルムを忌避する理由はない。そもそも関わりを持ったことはないし、噂話に聞くだけで特に興味もわかなかった。けれど理由はないけれど刷り込みというものはなかなかに厄介なものらしい。
両親は事あるごとにユーフィルム家への恨みつらみを吐き出した。まだ子供だった私の前で。私の脳みそにもユーフィルム家は敵と刻まれてしまい、成長するにつれほんの少しづつ世の中の仕組みが分かってきても、ユーフィルム家に対していい感情を抱けなくなってしまった。
ライオネルには悪いがここは穏やかに退場させていただこう。あちらとてグランハート家の人間と関わりたくはないだろう。以前の政敵とはいえ今となっては見る影もなく、耳元を飛び回る小うるさい蝿だ。こんな出会いはなかった事にした方が互いのためだ。
「申し訳ありません。父と母が待っているのですぐに戻らないといけないんです。それでは……」
私はライオネルの横を通り抜けそそくさと立ち去ろうとした。しかしそれは叶わなかった。手を掴まれ、バランスを崩しつんのめりそうになったところを引き寄せられ、抱きしめられてしまったのだ。掴まれた手はそのままにもう片方の腕が腰に回される。
誰かとこんなにも密着したのは子供の時以来だ。先ほどの指先へのキスとは違う、全身を包むような熱に冷めたはずの体温が再度上昇した。
「そう言って僕の前から消えてしまうのですか?やはり貴女は月の精霊だったのでしょうか?月夜の薔薇園に佇む美しい人。貴女を見た瞬間、僕の魂は奪われてしまった。どうか、貴女の名前を教えてください。僕の前からいなくなってしまわないように」
精霊は名前を知られるとその人物に縛られ、どこにも行けなくなる。精霊の嫁取りという古くから伝わるおとぎ話で、精霊に惚れた男が騙して名前を聞き出し、自分の嫁にしてしまうという、ロマンチックに語られるがなんともひどい話だ。
なぞらえての発言なのか、慣れてるなこいつと思いつつ、私は困ったように眉尻を下げた。
「美しいだなんて。もったいないお言葉でございます。高貴なあなた様にお教えできるような名前は持ちません。どうか離していただけませんか?すぐに戻ると言って出てきたものですから両親も今頃心配していると思うのです」
「では、一緒に戻りましょう。ご両親に挨拶した後、一曲踊っていただけませんか?」
青年は腕を緩めるどころか、更に密着してきた。初対面の男にここまで密着される謂れはない。いくら見目麗しくとも強引だししつこいし、この時点で個人的な好感度も下がってきていたが穏便に済ませるために面には出さず、淑女の仮面を被り続けた。被り続けたつもりだった。
「ダンスなんて恐れ多い。ユーフィルム家の方とご一緒出来る身分ではございません。何よりあなた様と踊れば、会場中の乙女を敵に回してしまいますわ」
「貴女を非難できる人がこの世にどれほど存在しましょうか。宗教画に書かれた女神も貴女を見れば自身を恥じるに違いありません」
そう言ってライオネルは残しておいた後れ毛を一房すくい上げると口付けた。行動も気障ったらしいが、さっきから精霊だの女神だの。小っ恥ずかしい台詞が出てくる出てくる。恥ずかしいを通り越し、鳥肌が立ってくる。
「……そろそろお暇してもいいかしら?約束があったのを忘れていましたの」
「約束?まさか男ですか?」
なぜ不貞を疑われるような眼差しを受けなければならないのか。ライオネルは目を眇め、声も先ほどの甘やかな声とは打って変わって地を這うような低さだ。
何度も言うが私とライオネルは初対面だ。家同士の確執は深いとは言え、ライオネル個人と面識はなかった。そもそも私は名乗ってもいないのだから、ライオネルにとっては名前も知らない赤の他人のはずだ。
不可解に思いつつ、彼の目と声に本能的な危機を感じ、私は慌てて否定した。
「違います!男性に知り合いと呼べる方はいませんわ。お友達。そう、お友達のエミリーと約束がございますの」
適当な名前をあげれば、ライオネルは納得してくれたようだ。すぐに甘やかな笑顔に戻すと、私の腰を抱いたまま、歩き出した。
「そうですか。では、会場に戻りましょうか。ご両親に挨拶をして、僕と踊って、エミリー嬢に会いに行きましょう」
ちょっと待て。なぜ、決定事項になっている。両親に挨拶はしないし、ダンスなんて以ての外だし、エミリーは実在しない。
腰を抱かれているため、私も歩かざるを得ない。けれどこのまま会場に戻れば、両親は怒り狂い、会場も騒然とするだろう。
ライオネルはその容姿でただでさえ目立つ。そこにかつて敵対していたグランハートの娘が隣にいればどうなるか。火を見るより明らかだ。
「ちょ、ちょっとお持ちください!」
前に出そうになる足を踏ん張ると、ライオネルもやっと立ち止まってくれた。私は深く息を吐き出し、覚悟を決めた。
名前を告げづに穏便に済ませたかったが、そんな事は言ってられないだろう。腕を振り払い一歩離れると正面に立つ。若干俯き、彼の顔が見えないようにした。先程のような冷たい表情を向けられるのは勘弁したかったからだ。
「……申し遅れました。私の名はジュリエット。グランハート家の娘でございます」
ライオネルは息を飲んだ。「……君が」と掠れた声が聞こえる。これで分かっただろう。グランハート家は没落したとは言え、ユーフィルム家との長年の争いが消えてなくなるわけではない。私たちは相容れない存在なのだ。恋愛ごっこも許されない家同士に生まれた。私たちの出会いをなかったことにするには充分な理由だ。
神童と言わしめた彼が理解できないはずがない。私は踵を返し、今度こそ立ち去ろうとした。したのだがやっぱり手を掴まれて、すっぽり奴の腕に収まってしまった。
何を考えてるんだこいつ、と半眼で顔をあげると、さっきまでとは比べものにならない、輝くような笑みがそこにはあった。
「ジュリエット。なんて素晴らしい響きだろう。美しい君の名にぴったりだ」
ライオネルは満足そうに口元を緩める。舌舐めずりしそうな勢いだ。切れ長の瞳は潤み、尋常じゃない色気を放っている。
私は貼り付けていた笑みが引きつっていくのを感じた。なにか、とんでもないものに捕まってしまったような。身体の奥からぞくぞくと湧き上がってくるこれはまぎれもない恐怖だ。
「……っ!!離して!気安く名前を呼ばないでちょうだい!」
腕を突っ張るが細身に見えてもライオネルの力は存外強くて外れない。ライオネルは気分を害するどころか、ますます笑みを深くし、私の耳に唇を寄せて囁いた。
「ジュリエット。あなたは僕のものだ。もう、離さない」
何がどうしてこうなった。これはいわゆる一目惚れというやつか。こんな強引な一目惚れ、迷惑以外の何物でもない。
見た目云々はともかく私の態度はそれほど褒められたものじゃなかったはずだ。丁寧ではあったが素っ気なく対応し、名前すら教えなかった。それともこれは嫌がらせだろうか。私が嫌がっている事に気付いていて、ねちっこく距離を詰め、鳥肌が立つような台詞を連発していたのかもしれない。いや、そうに違いない。暇つぶしにちょうどいい獲物がいて、しかもそれがグランハート家の娘とあらば、弄ぶのにもってこいだ。
私が惚れたら最後、こっ酷く振るに違いない。
そんな思惑に誰が乗るものか。いくら見目が良かろうが、才能に恵まれていようが、こんな男願い下げだ。
パンッと乾いた音が鳴る。手袋越しだからダメージは半減したかもしれない。頰を叩かれた男は何が起きたのか理解できないのか頰に手を当て、きょとんとしている。
「今度は拳を喰らわせてやる。嫌だったらとっとと私を離しなさい」
そう言って拳を握りしめた。本気だと見せつけるために。ライオネルは自分の頰を撫で、甘やかに微笑んだ。
「君にもらえるのならどんなものでも享受しよう」
私は奴の鼻っ柱に遠慮なく拳を叩き込んだ。
一体、何がいけなかったのか。ここから私と奴の怒涛の一年が始まる事になる。