Ⅱ 想い人
「おっ、白うさぎの坊やじゃないか。またコーヒーでも飲んでいかないか?」
行きつけだったタルトケーキの美味しいカフェに行くと店長がわざわざ外から出てきて挨拶をする。彼も変わらず元気そうだ。
「いえ、今日は散策に来ただけなので……。また遊びに来ます」
「おう、そうかい。じゃあまたな。今度はアリスお嬢様と一緒に来てくれ」
「ええ、今度はぜひ彼女とともに来ます」
店主は目を伏せると、すぐに笑みを浮かべてホワイトを見送った。他のアリスと一緒に回っていた店に回っても店の店主たちは明るい笑顔で接客をしている。それを見てホワイトは安心したような少し寂しいような複雑な気持ちを抱いた。
アリスとノワールがこの国から消えて、住民たちがアリスの捜索を始めて六年たった。
六年という時は短いようで長い。それはホワイト自身も思っていた。六年といえば、十歳だったアリスも十六歳。彼女が嫌がっていた政略結婚という重い言葉も感じなければならなかったのだろうなと彼は苦笑いを浮かべる。
城から歩いて十分ほどの場所にあるこの町には、雑貨から食品、衣料品や薬などが全て揃っていた。ホワイトもよく息抜きがてら寄る場所も多く、今日も休日の散歩がてら遊びに来たのだ。というのは、表向きの理由だ。本当の彼の目的はアリス捜索の為である。この場所はアリスがよく城から抜け出して遊びに来た場所でもあったのだ。六年前以降、ホワイトは何度もこの町に来たが彼女を見つけることはできなかった。だが、アリスとの思い出の場所を巡るだけでも彼の気持ちは安らげるのだ。今日もまた、アリスの面影を抱きつつ、町を歩きながら彼女と回った行きつけの店に足を踏み入れることにしたのだった。
結論から言うと、この国からアリスがいなくなって住民たちの生活全てが変わることはなかった。けれども、昔よりも活気がない。ガヤガヤと賑わっていた場所も人はまばらにいるほどになった。それを観光客が見ても住民たちの些細な変化はきっと分からない。今の様子をアリスが見たらなんていうのだろう。ホワイトは記憶の中のアリスを思い出し涙をそっと流す。彼女は毎日のように城下町に出て住民たちと会話を楽しんでいるのが日課だった。あのお店は彼女は毎日通っていた店だった、と自分の声が記憶の扉を叩く。
『ねぇ、君は迷子? 寂しいならアリスと一緒に行く?』
これがアリスと初めて会った時に話し掛けられた言葉だった。何も記憶がない状態でホワイトは蹲って泣いていた。そんな彼にそっと手を差し出したアリスはホワイトにとって神のような存在だったのだ。
それからホワイトは決意した。記憶が戻らないのであれば、これから自分の一生を彼女に差し出そうと。その日からホワイトはアリスの傍を片時も離れることはなかった。
彼がアリスと対等な存在になり、守れるような立場になりたいと考えるのにそう時間はかからなかった。日に日に弱い自分が彼女に守られることに違和感を感じたのだ。
アリスと対等になるには強くならねばと、まずは剣の稽古を兵士に頼んだ。もともと力がなかったホワイトにとってそれは身を削るような辛さだった。だが、全て彼女の為だと考えればどんなに辛い事でもやってのけられた。次に昔よりも勉学に励んた。この国に来てから自分がどのような存在なのか知りたいと思い調べることや最低限の知識は身に付けていたが、それでは足りないと感じたのだ。知識は少ないより多い方がよりいい。そして彼は日々身を削るような努力の末力を身に付けていった。
ホワイトにとってアリスは守るべき存在で一番大切な人だ。これからも彼女の傍を離れず、彼女が別の誰かと添い遂げるまでと思っていた。だが、六年前のあの日をさかいに心だけが取り残された感覚だけが彼に残った。王や女王はそんな彼には自分の好きなことをせよと命じた。
初めの一年は国中を捜しまわり、誰よりもアリス捜しに全力を注いでいた。しかし、年が過ぎるごとに自分自身の限界と情報だけが得られない状態が続いた。それは彼自身を追い込み、やがてホワイトはただ淡々と今まで通りに与えられた仕事だけをやるようになってしまった。
”捜しても無駄ならばもう諦めてしまおうか”
その言葉がホワイトの中を廻った。もう自分が一生を捧げようと思った相手はいないのだから。何度ももう一人の自分が、もう無理だから諦めろとささやく。
でも、彼は諦めなかった。記憶の中のアリスの笑顔が彼の脳裏から離れなかったこと。六年前のアリスが消える前に彼女が彼に伝えた「ある言葉」が彼の支えになったのだ。
アリス失踪六日前の出来事。それはいつものように青々とした空に白い大きな雲がある普段と特別違わない日の事だ。いつものノルマを済ませたアリスはホワイトを薔薇庭園に誘った。庭園の椅子に座り、ホワイトは慣れた手つきで紅茶をカップに注ぐ。琥珀色の液体が真っ白なカップに注がれ、アリスの大好きな柑橘系の香りがついた紅茶がその場で香る。彼が紅茶の用意ができたと同時にアリスは白いハンカチに包まれた包みをそっと皿に置いた。彼女はニコニコと笑みを浮かべながら包みを開くと、良い焼き色のクッキーがそこにあった。一番シンプルなチョコチップをたくさん入れたクッキーだ。
『これね、今日厨房を借りてアリスが作ったの。良かったら食べて?』
スッと、皿のクッキーの一つに手を伸ばすと、アリスはホワイトにそれを差し出した。彼はクッキーを受け取ると口に含む、素朴な味で一口噛むとチョコの味が広がる。まずくもないし、特別美味しいわけでもない。それでも、アリスが自分のために作ってくれたこの菓子は不思議と彼の心を満たしてくれた。幸せなお茶会。でもそれは長くは続かなかった。急にアリスが真剣な顔をしてホワイトを見つめていたのだ。その表情は十歳とは思えないぐらい大人びていた。
『ねぇ、ホワイト。もし、アリスがホワイトを忘れてしまっても、アリスがこの国からいなくなってもあなたはアリスを見つけてくれる?』
『当たり前です。僕は貴女がどんなところにいても必ず貴女を捜しだして見つけます。たとえ、貴女が僕のことを忘れても僕は諦めることは絶対しません』
ホワイトはアリスの両手をギュッと握る。アリスは驚いたようにホワイトを見つめた。まさか、手を握られるとは思っていなかったのだろう。彼女の顔が徐々にトマトのように真っ赤に染まる。
『僕は貴女の従者ですよ? もし、貴女のことを無視したら従者失格ですから』
『まるで何処かの王子様がお姫様を口説く時の台詞みたいだね……。じゃあ、約束だよ?』
両手を頬に当て、目から徐々に流れる涙をぬぐいアリスは笑みを浮かべた。ずっとぬぐい続けていないとまた涙がこぼれそうなぐらい顔は歪んでいる。その様子は今までホワイトが見たどの時よりも寂しげな顔だった。
『いつか、アリスがこの国からいなくなったら絶対にアリスを見つけてね? アリスがもし、この国の全てを忘れてもこの約束だけは忘れないから』
『わかりました。僕は貴女との約束を守ります』
今思えば、この時からアリスは自分がこの世界からいなくなることをわかっていたのかもしれない。この時、少しでも今までと違った様子のアリスに自分が気づいていればよかったと、ホワイトは後悔している。これがアリスとホワイトの最後の会話になるとは彼自身も気付いていなかったのだ。でも、約束をした以上、諦めてはいけない。
――彼女はきっとどこかにいるはずだ。僕がアリスを見つけられなかったことなどないのだから。
――彼女は今も僕を待っている。それが彼女と僕の約束だから。
ホワイトはそっと胸に手を当てると、空を見上げた。きっと彼女はこの空の下の何処かにいる。それだけを信じ、彼は今日もアリスを捜すために城下町を後にした。
***
不思議の国の中心、そこはこの国を統治する国王と女王が住んでいる大きな城が聳え立っている。荘厳な雰囲気の城内を直進し、門番の目を抜けて謁見室を通り過ぎた大広間のもっと奥に、その部屋はある。
王の寝室は、いま、異様な空気感をもたらしている。女性の嗚咽だけが、絢爛豪華なこの部屋に大きく響いているのだ。クリーム色の壁と金色に輝く柱。その部屋の中心には大きな藍色の天蓋がついた立派なキングサイズ以上のベッドがある。そこに、一人の男性が目を閉じて横たわり、脇には彼を包むように覆いかぶさり、エメラルドグリーン色の瞳が落ちそうなぐらい涙を流している女性がいた。女性はまさに一心不乱、と言った様子で涙をひっきりなしに流している。わけもない。ここに眠っている男性というのは彼女の夫、名をレオナールといい、この国の王なのである。女性はというと、血のように真っ赤な布に黒のフリルが所々に付けられたドレスを召した、ヴィクトリア王妃その人だ。しかし、この女王の気高さを物語るドレスは、いま彼女の零した涙によって、まるで土砂降りの雨の中に洗濯物を干したかのように、ぐっしょりと濡れてしまって、台無しになっていた。
女王を例えるなら一般市民がいくらお金を貯めても手に入れることができない宝石であろう。住民を分けると大きく分けて二つのタイプに区別できる。一つは彼女を目を輝かせて見つめ、崇拝する者。そういった人たちは女王をカリスマと讃える。もう一つは、彼女を見るたびに怯える者、彼女の仕事に納得できない者は、女王の野蛮さに慄く。女王はそんな存在だ。彼女は、良く言えば心優しい、悪く言えば気弱な夫に代わって、裁判官という役職に就きその腕を振るう。振るう、というのは実は比喩ではない。死刑囚とくればその首を刎ねるのに、もっぱらその腕を使うためだ。それが彼女の正義なのだ。
民は、女王の計らいによって裁判を傍聴することが許されている。喝采を送る者、目を伏せる者、憤る者。思い思いの感情がその場では渦巻くのであるが、一晩、ぐっすりと床につくとそんなことは忘れてしまう。覚えているのはかの気高き、高貴な、エメラルドの瞳の女王のことのみである。
さてそんな女性がいま、絶望に打ちひしがれた様子でうなだれ、嗚咽を漏らし、嘆いている。この光景を表すならばそれは異様なのだ。
ヴィクトリアは、夫である王の手を何度も何度も甲斐甲斐しく握り返し、彼がまたその手に温もりを取り戻して、自分の手を握り返してくれることをギュッと強く、目を閉じながら祈っていた。しかし、夫の手はいつまで経っても温もりは戻らず、彼のサファイアのように深い群青色の目が開くことはなかった。
「ヴィクトリア様、もうすぐ開廷のお時間です。ご準備をなさってください」
とんとん、と申し訳なさそうに女王の隣にいた彼女の秘書が肩を叩いたのに気がつくと、ヴィクトリアはゆらりと顔を上げ、秘書をきっと見つめるやいなや口を開いた。
「今日は開廷せぬ。わらわはレオナールの目が開いたときに一番初めにあいつの目に映るのが自分でありたい。我儘なのは分かっておる。だが、わらわはこの気持ちをまだ伝えていない。もう後悔をするぐらいならわらわもあいつのように二度と目を覚まさないまま眠りつづけていたいのじゃ」
「ですが、レオナール陛下はもう一週間は眠り続けているのでは? それではヴィクトリア様はどうなさるのです? まさか、ご自分も仕事をしないおつもりですか」
ヴィクトリアは秘書の言葉を無視し、レオナールの顔に手を当てた。たださえも白い彼の肌が眠っていることによって余計に青白く見える。死んでいないはずなのに、王から体温を感じることができない。もう彼は目を覚まさないのではないか。そう思うたびに彼女の瞳からじわりじわりと涙が溢れてくる。
まるで眠りの森の美女の逆パターンではないか。普段の王はヴィクトリアがきつい言葉を放ってもそこに隠された彼女の本質を理解している。彼女が度を越した行動を起こしてもそっと止めて、「行き過ぎだよ」とそっと囁く。思い返せば、何度も何度も王に助けられてきたのだ。それなのに今は、どうだ。こんなに泣こうが、喚こうが、ちっとも自分のこの思いが王に届くことはない。なにせこの一週間、指一本として動いたことがないのだ。ヴィクトリアは胸が張り裂けそうで、そしてお伽噺の人魚姫のように泡となったほうがマシではないかと考える毎日を送っていた。こんなに辛いことが他にあるだろうか。いや、ないだろう。彼のいない世界で生きていくなど、砂漠の中から一粒の金を見つけることに等しい。希望を持て、といわれても到底無理な話である。
ヴィクトリアにとって、レオナールはストッパーであり、舵取り役だ。彼がいなければ、自分は座礁してしまう。順風満帆とも思えた航海が突如、時化に見舞われたのは、2つの出来事がきっかけだ。
一度目は六年前のことだ。自分たちの娘であるアリスが行方不明になった。数日が経過してもアリスの目撃情報もなく、不安になっていたヴィクトリアを支えたのは紛れもないレオナールだった。今ほどではないが、女王の寝室で泣き叫んでいた彼女を優しくそっと抱きしめた。その時、女王の耳元で彼は、彼自身も身を削られる思いをしているにもかかわらず、笑みを浮かべながら励ました。
『アリスはホワイトが見つけてくれるから、私たちは彼女が帰って来た時に笑って出迎えよう。心配なのは私も分かる。だからこそ、私たちはアリスを捜してくれている人たちを信じなくてはいけないんだ』
その言葉でヴィクトリアが救われ、安心できたか、王は絶対に分からないだろう。その日から女王は前と変わらない態度で仕事を続けた。
二度目は三年前だ。いつものように裁判が開かれていた法廷で女王が罪人に最後の審判をする直前、法廷の扉が開かれた。女王は何事かと扉を開けた主を睨む。そこにいたのは城のメイドだった。彼女は緊迫した表情でその場が裁判の最中な事を気にせず、堂々とした態度でヴィクトリアのもと近付き、腰を下ろして跪いた。メイドから語られたのはヴィクトリアが考えてもない事だった。
『女王様、大変です。レオナール陛下が……。レオナール陛下が執務中に御倒れになられました 』
『な、なんじゃと……』
ガタリとヴィクトリアは玉座から立つと、メイドを見つめた。メイドはやけに真剣そうな顔で話を続ける。
『現在、寝室にてアルフォード様に様子を診て頂いていますが、まだ王は……』
メイドは目を伏せる。ヴィクトリアはその場にパタンと座り込むと、自分の手を見た。その手は震えている。まだ信じられないのだ。彼女はレオナールが倒れるなんて考えたこともなかった。今まで、自分の隣に立ち、いつも見守っていてくれた存在がいなくなる。それは怖くて不安でたまらなかった。震える手を必死に抑え、女王の威厳を保つために彼女は口を開いた。
『本日の裁判はこれにて閉廷とする。罪人は牢屋へと連れていけ』
ヴィクトリアはすぐに会場をあとにした。居ても立っても居られず、自然と足は小走りになり城内を駆けていく。そのあとを慌ててメイドも追いかけた。法廷から寝室までの距離がやけに長く感じる。走りながら思うのは王の事。もう手遅れになってはないだろうか。いや、そんなことはないと何度も何度も考えては首を横に振る。悪い方に考えたらそっちの方に進みかねない。彼は大丈夫なのだ。また自分に向かってこういうのだ。「そんなに急いでどうしたの?」と。ヴィクトリアはギュッと手を握り締め、レオナールの無事を祈りながら寝室へ急いだ。
寝室に来たヴィクトリアを待っていたのは、寝台から上半身だけを起こしているレオナールと一人の男性だった。彼は驚いた顔でヴィクトリアを見つめると、その顔に笑みを浮かべて彼女に声をかけた。
『……ヴィクトリア? そんなに息をきらしてどうしたんだい?』
『そ……、その態度はなんじゃ!! こっちはお前が執務中に倒れたと聞いていてもたってもいられなかったというのじゃぞ!』
ズンズンとヴィクトリアは今にもレオナールを殴りそうな勢いで彼に近づく。あと一歩で王のシャツに手に届きそうだった所を近くにいた男性が女王の肩をキュッと軽くつかみ、止めた。彼はこの国唯一の医者であるアルフォード公爵だ。彼の公爵という肩書きは嘘ではない。彼の家は代々不思議の国の王に忠誠を誓ってきた公爵家の跡取りなのだ。しかし、アルフォードとしては公爵の仕事をするよりも医者として住民を救う道を選んだ。そのことで彼の公爵という肩書きは彼が説明しない限りはないものとして扱われている。
空色の髪にモノクルを左に付けた彼は女王に向かってにっこりと微笑む。その見た目からは二十代の青年にしか見えない。だが、実際は三十代だそうだ。
アルフォードは手早く王の脈拍、心音、瞳孔などを診ると聴診器を耳から外した。
『女王陛下お久しぶりです。お元気でしたか?』
『お前の目からはわらわが体調が悪いように見えるのか?』
キッとヴィクトリアはアルフォードを睨む。その様子は蛇に睨まれた蛙と云うより、捨て猫が自分に触れてくる相手を信用できなくて威嚇しているといった感じであろう。女王の様子を猫に例え、笑いが込み上げたアルフォードは咳ばらいをすると、言葉を続けた。この女王は笑われるという行為が一番嫌っている。彼女の怒りを助長されるような行為はしない方がいいに決まっている。
『いえいえ、そんなことはありません。女王陛下もお元気でなによりです。ところで、王の容体ですが、現在は健康です。ですが陛下の体調は ……』
アルフォードが話そうとすると、レオナールがそっと彼の口の前に手をやり、口を封じた。いつの間にアルフォードの隣にいた王は顔では笑みを浮かべている。これは黙っとけということだろうか。全くこの人にはかなわないなとアルフォードは思うと、そっと自分の手で彼の手を外した。
『この話は私から云わせてもらってもいいかな? 自分のことは自分で話したいんでね』
『王がそうおっしゃるのであれば……。僕は席を外すべきですか?』
ガタっと寝台の近くに置かれた椅子からアルフォードは立ち上がると、レオナールに問う。すると、レオナールは首を横に振った。
『君にもここにいてほしい。私から全て話せるとは限らないからね』
レオナールはニコニコ笑うと寝台に戻り、アルフォードの座っていた席にヴィクトリアを座らせる。そして真面目な顔で彼女を見つめた。その表情はいつになく真剣な顔だ。
『君は私が最近体調が悪いことに気付いていたみたいだね。もう少し、君には隠しておきたかったな……』
『レオナール。わらわはお前が体調が悪いことは確かに知っていた。でも、お前がきっといつか話してくれると信じていたから何も言わなかったのじゃ。お前はわらわのことが信用できなかったのか?』
ヴィクトリアは今にも泣きそうな顔でレオナールを見つめた。彼は首を横に振る。
『これは私の強がりだ。君のことは一番信用しているし、愛している。私がこのことを話したら、きっと心配すると思ったんだ』
『レオナール、それは』
『君の性格は分かっているよ。でもね、私は君が一人で何もかも背負うことをさせたくなかったんだ。君は私よりもはるかに強い。それでいてなんでも背負って辛いことを言おうとしない。そんな君だから私は君を好きになったんだ。でも、そんなことを言っていられなくなった』
ヴィクトリアはレオナールを見つめると、彼は悲しそうに微笑んだ。
『私の体はもう限界なんだ。私の力だけではもうこの国をもう守れない。だから、私は最近倒れているんだ。この国自体が私の力の全てを使おうとしてね。時期に目も覚めなくなり、私は一生の眠りにつく。私に力があったのもそのためなのかもしれないね』
『……いつから、いつからそんな状態になったのじゃ!?』
ヴィクトリアはレオナールの側に寄る。レオナールは彼女の手を両手で握ると彼女を見つめた。その目はこれから先の未来に自分が彼女の傍にいられない後悔と全てを彼女に託すための覚悟を決めたことがみられる。
『アリスがこの国から行方不明になってからずっとだ。ヴィクトリア、私は死人と同じかもしれない。でも、心から君の活躍を祈っているよ。気の強い君だからこそ安心して全て任せることができる』
『お前もわらわを、わらわを一人にするのか? お前は遠くに行くのか?』
ヴィクトリアは震えながらレオナールの手をギュッと握った。レオナールはゆっくりと両手でヴィクトリアを抱きしめる。
『君を一人には絶対させないよ。君は泣き虫で強がりだから、私がいないとね。私はこの体が動かなくなるまで君や住人を守るよ。だから、泣かないで。その代り、私の体が動かなくなったら君がこの国を守ってほしい。私たちの大事なアリスが愛したこの国を。アリスが戻るまで』
『レオナール……。わかった、わらわが必ずこの国を守ってみせる。だから、絶対に死ぬな。わらわを一人にしないでくれ。もう誰かが、大切な人がいなくなるのは嫌なんじゃ』
ヴィクトリアはレオナールに抱き付くと、声をあげて泣いた。レオナールはそれを見て寂しそうに彼女を見つめた。しばらくしてヴィクトリアが泣き疲れて寝てしまうと、壁の方にいたアルフォードが口を開いた。
『……言わなくてよかったんですか。僕の予想ではあなたは明日も起きていられるか分からないですよ?』
『彼女にはこれ以上心配をかけたくないんだ。私が明日からいないと知ったら彼女はショック死してしまうかもしれない。それだけは避けたかったんだ。きっとね、ヴィクトリアは私が眠ってしまったら後を追うと思う。だから、私は君にも聞いてもらいたかったんだよ、公爵』
アルフォードは目を開くと、王はニヤリと笑った。まるで小さな子供が悪戯が成功したような表情だ。
『どおりで。なんか話がうまいなぁって思ったんですよ。じゃあ、僕がこの国を守れと? 僕にそんな大役勤まりますかねぇ。何せ、公爵の役目を果たしていないんですよ。引き受けるとしてもって、三か月ですかね』
『三か月持てば十分だ。もう執事たちには公爵が仕事を引き継ぐと伝えている』
『……全て陛下の手のうちですか。その昔から拒否権がないで物事を進める癖、止めて頂けますかねぇ。こっちの仕事が大変になるじゃないですか。ただでさえもこっちの仕事も大変なんですよ』
ギリギリっとアルフォードは悔しそうに下唇を噛む。それに王は大声をあげて笑った。どうやら彼はこの状態になってから早めに公爵に引き継ぎができるように進めていたようだ。レオナールはそっとベッドサイドにある引き出しからある紙の束を取り出した。その束をアルフォードに渡す。
『はい、これは私が眠りについたときにやってほしいリストだ。この内容なら必ず三か月は回せるはずだよ。君にこの全てを任せるのはあくまでも最終手段だ。この時が来ないことを祈るよ。それに君は任せた仕事は必ずやり遂げるだろう?』
『この隠れサディストが。女王陛下の前では羊でいるようですが、僕の目は誤魔化せないですよ? 真っ黒な黒狼が貴方の中にいるんです』
『いいよ、私が悪役でも。彼女を守ると決めた時から悪魔に魂を売る覚悟だったんだ。私の初恋であり、手が届かなかった姫が私の隣にいてくれるんだったら、羊でも狼にでもなってみせるさ』
レオナールは自分の膝の上にいるヴィクトリアを見つめる。ヴィクトリアの頬は涙で濡れて赤くなっていた。
『それにね彼女は私のためにここまで泣いてくれるんだ。それだけで幸せだろう。だから、この幸せを壊したくないんだ。頼むよ、君以外に頼める相手は他にいない』
『……分かりましたよ。僕が引き受ければ何とかなるのでしょう? その代り、陛下もまだ起きていてくださいね? 明日からいきなりなんて僕にはできません』
『あぁ、そこはまだ心配ない。少なくともあと一年はなんとかしてみせるさ』
レオナールはヴィクトリアの髪を撫でながら答える。そのまま二人の唇が合わさりそうな気がしてアルフォードはすぐに逃げ出したくなった。この夫婦はまだ新婚気分が抜け切れていないのか。呆れつつも、まだこの二人が幸せな時間を過ごせること心から祈った。
『では、僕はこれで失礼します。女王陛下に宜しくとお伝えください』
『じゃあ、頼んだよ……』
これが三年前の話だ。この最後の言葉は果たして公爵に届いていたのか。それはいまだに不明だ。
王はこの日をさかいに徐々に起きている時間が短くなり、一週間前にとうとう目を覚まさなくなった。女王も一週間前から王の寝室にから一歩も出ず、泣き喚いた。
王がいないと女王は何もできないのだ。彼の励ましなしでできることなどあるものか。
今、王が起きていたら自分になんというだろうか。その目を細めて彼女の頭を撫でながら微笑み、「無理をしてはいけないよ」と穏やかな声で囁くのだ。そして今日もまた、ヴィクトリアは彼の手を握ったままゆっくりと目を閉じ、聞こえるはずのない彼の幻聴を子守唄のように聴きながら微笑む。夢は彼の存在を確かめられる唯一の場所なのだ。さて、今日の夢の王は困った顔で頬を掻きながらヴィクトリアに手を差し出している。それを受けて女王ヴィクトリアは、しばらく女王としての立場を忘れることに努めようと考え、「仕方がないな」とドレスと同じ色に染まった頬を緩ませて、手をかさねた。