Ⅰ アリスという名の少女
『退屈ほど辛いことはない』
これが少女――アリスの持論だ。勉強は考えようには辛いと感じたことはないし、寧ろ新しい事を知ることができるというのはとても面白いと彼女は思うらしい。しかし、時として勉強は退屈だと感じることもあるようだ。
ここで、アリスのことについて説明する。
金色の髪は肩ぐらいまであり、ふんわりと自然なウェーブヘヤー。目はエメラルドのように澄んだ緑色。好きなことは楽しい事を考えること。嫌いなことは退屈な事というパッと見で見たら可愛らしい人形のようだが、つねに何かを考えているだけなのかもしれない。そんな彼女は今年で十歳になった不思議の国のプリンセスだ。
不思議の国とは簡単に言えば、動物、植物、精霊、人間がお互い助け合いながら暮らしている王国である。この国では人間以外も喋ることができ、お互い意思疎通も可能だ。
そして、アリスは現在城にある彼女の部屋で日課の勉強をしていた。いや、していたのは過去の話だ。現在進行形で云うと、彼女は勉強をサボっている。そう、彼女は現在部屋の窓から空を見上げていた。
「今日もいい天気。こんな日だったら外に出掛けた方が楽しいはずなのになぁ」
大きな窓から青く澄んだ空を見ながらアリスは呟いた。空は青々としていて、大きな白い雲がそれと対比するように浮かんでいる。窓を開けると、心地よい風が部屋に吹いた。彼女は背伸びをして大きく息を吸う。新鮮な空気が肺に入る感覚は疲れていた体を癒した。
しかし、癒しの時間は長くは続かなかった。風が机の上にあった紙を飛ばしはじめたのである。アリスが気付いた時には紙は全て色んな場所に飛んでいた。急いで紙をつかまえようとするが、風が邪魔してうまく取ることができない。
そんな時、ガチャとドアの開く音が聞こえた。普段なら何気ない音が時として恐怖に感じるとはまさにこのことだろう。アリスは恐る恐る振り向くと、そこには眉間に皺をよせた白うさぎ――ホワイトが立っている。どうやら、彼女の部屋に入った瞬間に全てを理解したのだろう。そのままホワイトは彼女につめよる。これは相当お怒りのようだ。
ホワイトはアリスの教育係兼従者だ。真っ白な毛と赤くルビー色の目した愛らしい姿とは反対に性格は真面目で厳しい。それはアリスの事が大切だと思っているからだ。
その真面目な性格は彼の服装にも表れている。彼がいつも着ている真っ白なワイシャツは第一ボタンまできっちりと留められ、首のギリギリの位置に赤いリボンを結ぶ。真っ黒なベストと赤チェックのジャケットはいつもぴっしりと整えられており、身だしなみを気を付けているようだ。
彼と彼女の出会いはアリスが六歳の頃。当時、森で迷子になっていた彼をアリスが保護したことから彼自身がアリスに仕えたいということで従者になったそうだ。
たとえ、大切に思っているアリスだとしても教育係としての責任がある。つまり、仕事とプライベートは別なのだ。まぁ誰であれ、いきなり部屋に入って紙が部屋中にバラバラであったら気にするはずだ。
「アリス? この部屋の有り様はなんですか。数分前に僕がきたときは、こんなに散らかってなかったはずですよね」
まるで蛇のように睨んでくるホワイトにアリスはビクビクしながらも目を合わせる。怒っている時のホワイトはその愛らしい容姿とは違って肉食獣ように獰猛で恐ろしい。アリスとしてはホワイトを怒らせる気はなかったが、彼は話を聞かないとすまないようだ。
「こ、これはね。わざとやったわけじゃないの」
「ほう……。では、その理由を聞かせてくれますか」
「うん」
ホワイトは身近にあった椅子を二脚向かい合うように並べると、一つはアリスに座るように言い、もう一つに自分が座った。アリスはなるべくホワイトと目を合わせないように床を見つめている。彼はこれだけで、アリスがわざとやったというわけではないというのは分かっていた。しかし、何故こうなったか話を聞かない限りは分からない。
「さて、何が起きたのか詳しく聞かせてもらいましょうか」
取り調べの始まりである。勿論、犯人役はアリス、警察官役はホワイトだ。ホワイトは膝の上で手を組むと、アリスをみつめた。その目は獲物を狙う猛獣のようだ。
アリスは青ざめた。これはホワイトにこの状況がなんでこうなってしまったのかを彼に分かるようにきちんと説明しない限り、教育と書いて地獄と読むお説教ルートに行くことは間違いない。彼女はゴクリっと唾を飲み込むと、大きく深呼吸をした。
まず、相手に状況を説明するときには自分の気持ちを落ち着けることが重要だ。その場の感情に流されて話すと伝えたいことが半分も伝わらない。ここでは話す前に、客観的にこの状況になるまで何があったのか思い返してみる。そうすることで、落ち着くこともできるし、同時に話す内容も考えられるのだ。
その間にもホワイトは、今か今かと足をこつこつ鳴らしながら待っていた。その顔には笑みがあるが、背後には怖い鬼のスタンドがいるように見える。まさにこの状況は蛇ににらまれた蛙だ。
アリスはおそるおそる口を開いた。
「あのね、最初はホワイトに言われたとおりに課題をやっていたの。でも、途中からつまらなくて」
「それでどうしたのですか?」
「空を見たの。良い天気だなって。それから窓を開けたの。そうしたら勉強できるかなって。それで気がついたら、こうなってた……」
アリスは間違えたことや嘘は話していないと思った。自分の話したことは事実をありのまま伝えただけなのだから。しかし、目の前のホワイトも微笑んだままだ。何故か、窓は閉めたはずなのに、どんどん部屋が寒く感じ、彼の背後の鬼が自分に向かって包丁を投げてきそうな気配がしたのは気のせいだと思った。
「アリス、君の説明はよくわかりました。貴方がわざとやったわけではないのも分かります。ですが、僕にはあなたが勉強をサボって、空を見て窓を開けた結果こうなったと聞こえました。休憩が必要ないとは言いません。しかし、サボりはよくないですよね。これはアリスを立派なレディにするためなんです。分かってくださいね? 心配しなくても大丈夫です。僕が分かってくれるまで何回も説明しますから」
ホワイトはにっこりとまるで天使のような笑みを浮かべる。この時点でアリスはあっ……、これは終わったなと覚った。彼女の心の中で天使の服を着た鬼が微笑んだのは気のせいではないだろう。
その後、アリスとホワイトの勉強という名の教育指導は夕食前まで続いた。全てが終わったあと、彼女がへとへとになって動けなくなったのはいうまでもない。
***
アリスには勉強の他にも日課がある。それは夕食後にこっそり自室から抜け出し、ホワイトの監視を外れて城の警備を務めている仲の良い騎士と話をすることだ。内容は主にアリスのホワイトに対する愚痴や今日一日のやったこと、彼女の考えた空想の話など挙げたらキリがない。
そして今日もアリスは自室からホワイトの目を盗みこっそり城から抜け出した。目的地は城の外にある庭園だ。話し相手の騎士の予定は昨日聞いたばかりで、この時間であれば庭園にいるという話であった。向かいながら今頃、過保護すぎるうさぎが自分のことを必死になって探していると思うと自然と笑みが出る。今日は夕食までみっちりと勉強をしてから疲れたのだ。この息抜きがないと明日のやる気もなくなってしまうだろう。
本当はホワイトの目を盗んでこんな遅い時間に出るのはいけないということは、分かってはいるのだ。いつもホワイトに勉強の事だけは勝てないが、この夜の鬼ごっこはそんな彼を唯一からかうことができる機会だった。これだけは止められる気がしない。何故なら、あのホワイトがこの時だけは凄い心配そうな顔で本気で自分を捜しに来てくれるからだ。
小さい頃に森で迷子になった時も、ホワイトが一番先に自分を見つけてくれた。そのことがとても嬉しかったことは今でも忘れられない思い出だ。絶対見つかってしまうのは分かっているが、今だけはと毎日の日課になっている。
そうこう考えているうちに目的地の赤や白のバラが咲いている場所に来ると、探している騎士がベンチに座って星を見上げていた。そういえば、今日は星が良く見える。雲一つない空は星空観察をするのにぴったりだ。
アリスは気づかれないように一歩一歩そっと近づくが、運悪く足下にあった枝を踏んでしまった。気配を察するのが早い騎士は周りを見渡すとすぐに自分の真後ろにいたアリスの存在に気付いた。目が合うと、アリスは苦笑いを浮かべる。
「こ、こんばんは……」
アリスはドレスについた葉っぱを掃うと、騎士の顔を見つめた。眉間にシワがよっている所を見ると、彼は怒っているらしい。何故、彼が怒っているのか大体の予想はつくが、謝る気はない。今だけは自分の為に多少の犠牲は目をつむってほしい。この時間を取られたら明日のやる気が無くなってしまう。数時間後にホワイトに怒られるのは分かっているが、こればかりは譲れない。
「また自室から出てきたんだな。俺がホワイトさんにいつも『またあなたがアリスを呼び出したのですね。アリスが襲われたらどうしてくれますか? 責任をとってあなたが守ってくれるのですか』って云われるんだ。少しは俺に頼るのはやめろ」
「いや! アリスは絶対会いに行くって決めたの! アリスは、ノワールと話がしたいの。人は一日一回または一週間に一回でもいいから誰かに相談する必要があるって父様も言ってた」
騎士――ノワールは眉間に皺を寄せながらアリスに文句をいう。アリスは頬を膨らませるとそっぽをむいた。いくら頼るのを止めろと云われても他に話し相手がいないから無理なのだ。確かにアリスの周りには他にもたくさん人はいる。いつも自分についているメイドや厨房の料理長、執事、ホワイト、自分の両親である女王と王。しかし、自分の考えを素直に伝えることができる存在はホワイトの他にはノワールしかいない。ホワイトに話せる内容も勿論ある。しかし、ホワイトの文句は彼に直接云うことは不可能だ。他に話せる相手を作れと云われても、今は滅多なことがない限り、外出はホワイトに禁じられている。したがって、新たに話し相手を作れというノワールの提案は受け入れることが出来なかった。
「勝手に決めるな。俺はいつお前の話し相手になると許可した? 最近、ホワイトさんに城内で、すれ違うたびにお前と会ったことに関してグチグチ云われるんだ。こればかりは俺もさすがに辛くなってきた。もう、ホワイトさんにいう言い訳も底をつきそうだ」
ノワールははぁと大きくため息をついた。いつも注意しながらも最終的にはアリスの話は聞いて、相談にのってくれる。本当に彼には迷惑をかけてばかりだが、アリスは感謝していた。これからも彼にホワイト関係で迷惑をかけるのは変わりないだろう。
ここでノワールの事について皆様にお伝えしよう。
ノワールは闇のような真っ黒な髪の毛に紅色の目をした青年である。見た目はかなり整っているが彼を一言で表すと黒という言葉がふさわしい。
彼の名であるノワールは、けしてあだ名やコードネームとかではなくちゃんとした名だ。本名をノワール=クロービィスといい、この国で云う男爵家の次男という立場に彼はいる。彼が騎士になったきっかけとして、彼の兄であるアドリアン=クロービィスが男爵の爵位を継いだことにより、彼自身が家の爵位に縛られない仕事がしたいということ。自分自身を高めたいということから彼は王国の騎士として十歳に入隊した。現在、二十四歳だが、彼はこの城の騎士団長という役割についている。
ここで、この国の騎士やメイド、執事について補足説明を入れておく。
この国には城に仕える者の上位の位を持つ者にはトランプカードに基づいた名前が与えられている。騎士はスペード、メイドはハート、執事がダイヤ、その他(厨房、事務、庭師など)はクラブに分かれている。基本、どの部隊も十三人のメイン部隊がおり、中でもキング、クイーン、ジャックの役割の者は特別だと云われているが、その中にジョーカーと呼ばれる役割が存在する。その役職はジョーカーの名のもとにその城の切り札となる存在に命名されるのだ。
そんなジョーカーの役割は現在、ノワールに付けられている。これは彼の騎士としての実力と経験を評価してだそうだ。そんなジョーカーの印として彼は他の役付きのナンバーたちとは違った服が支給されている。それが現在彼が着ている黒の軍服だ。他の騎士たちはキングまでの者は白地に青の軍服。役付き以外の者には水色の軍服とされており、何故ジョーカーが黒なのかというのは何物にも染まらない、この誓いは永遠の者なりと云った意味がある。
ノワールにとってアリスとは守る存在であり、大切な人。彼女が自分に望んでいることがあったら、できる限り叶えてあげたいと彼はいつも思っている。
そんな彼の事をアリスはとても温かみがあり、困った人には誰にでも手を差し伸べるような優しさを持ちながらも不器用な人だと思っている。優しいからこそ、突き放すことができない。でも、それが彼らしいと思う。出来れば、この性格は変わってほしくないなぁと思うのだった。
「今日もここに来たということは何かあったのか? 話だけなら聞くぞ」
「うん、今日はノワールに聞いてほしい事がたっくさんあるんだ」
アリスはにっこりと笑みを浮かべると、ノワールは顔を赤らめた。彼は庭園の中のベンチへとアリスを誘導した。ここは庭園の薔薇が一面に見れる場所であり、アリスの母である女王のお気に入りの場所だ。アリスも何度か母とともに来たことがあったが、自分一人でここまで来たのは初めてある。何故ならば、この庭園は一種の迷路になっており、道が分からないものは迷子になる通称『薔薇の迷宮』と呼ばれている場所だからだ。いつもは母に案内されるため、迷路としてこの場所を解いたことがなく、まだ一人ではここまで来ることができない。この迷路を抜けると、ベンチにたどり着く。そこは今までの通ってきた道にあった薔薇が見える絶好の場所であった。
いつもは陽の光に浴びて薔薇の中の露が光っていて綺麗だが、夜の庭園も星々の光に照らされてとても綺麗であった。
「ここ、キレイ……」
「俺は朝よりも夜の時間に見るこの薔薇がいつも好きだ。花の精霊たちが薔薇たちと秘密の話をしていて、朝よりもより一層輝いて見える」
ノワールは嬉しそうに薔薇を見つめていた。彼の話によると、ここにはよく来るそうだ。だいぶ前にここに来た時に朝よりも薔薇たちが輝いてみえたことから、それ以来疲れを癒すために来るようになったそうだ。特に夜の時間と云うのは精霊や花たちが活発に動いていたり、話をしたりするためあちこちが光り輝いて見えるらしい。しかし、薔薇や精霊たちの話の内容は人には聞き取ることのできない小さな声なので聞こえないのだ。それを聞いてアリスはうなだれた。
「で、今日はまたホワイトさんの愚痴か? それとも空想の話か?」
「うん、ホワイトの方。また今日も二時間コースだったの。本当にいや。きっと今頃も私が居ないことに大騒ぎして城内を駆けまわっているわ。でもね、最近アリスの脱走の回数が多くなったからこっそりドレスにGPSを付けていたの! 慌てて違うワンピースに着替えてきたんだ」
アリスは頬を膨らませるとホワイトに関する愚痴をノワールに伝えた。ノワールはアリスの話を聞きながら彼の趣味の一つであるハーブティーをティーカップに注ぐと、アリスに手渡す。
本日のハーブティーはラベンダーティーだそうだ。効果として不安や憂うつ、怒り、ストレスなどをやわらげる効果があり、心を落ち着かせてくれるらしい。最近、眠りが浅いと思っていたアリスにはピッタリな効果である。
「ホワイトさんの過保護なところはいつも通りだと思うが……。それほど、ホワイトさんがアリスを思ってくれているってことだからいいんじゃないか。一番怖い事は相手にされなくなって無理されることだって聞いたこともあるしな」
「わかってるよ、心配してくれるだけでも幸せなんだって。でもね、それが辛い。最近なんてホワイトのが良いって言わないと外にでちゃダメなの。しかも、外出するときは必ず彼がついてくる。本当に落ち着けるところなんてないの!」
アリスは立ち上がってノワールの軍服を掴む。その顔は今にでも彼の首を絞殺しそうな勢いである。
「しかも毎日なの。ま、い、に、ち!! 父様や母様に云ってホワイトの従者としての役割を外してもらおうかと何度考えたかわからない……。何よ、その目は。外せないことぐらい、分かってるよ」
そうなのだ、アリスの個人的意見でホワイトを外すことはできない。それは迷子だったホワイトを無理矢理アリスが王に頼んだことだから、いくら云った本人が外してくれと云っても認めてもらえないのだ。実際、アリスが頼んでも無理な理由は他にもあるが、ここではこの発言を控えさせて頂く。
「早いうちに慣れた方が身のためだと思うぞ。どうせあと何年かしたらお前が望まなくても誰かしらの婚約者候補と結婚してしまったらホワイトさんとも離れざるおえなくなるからな」
ノワールの言葉は正論である。確かにアリスに婚約者候補は何人かいるらしい。今は訳あって顔合わせが出来ていないが、一番の候補は隣の国の王子様だそうだ。遠くない未来に誰かと結婚するなんて今は想像つかないものだ。今が一番いい。まだ十歳のアリスに恋愛などはなかった。あるとしたら、敬愛や尊敬だろう。
「どうしよう……。ホワイトがいなくても大丈夫だと思わせるには一人でも強い人がそばにいること。それには……。そうだ、一日だけノワールがアリスのそばにいてくれればいいんじゃないかな!」
アリスは立ち上がると、パンッと手を叩いた。ノワールは「はぁ?」と叫ぶ。彼の心の中の声を代弁するなら「お前本気で云っているのか?」だ。確かにノワールであればその条件に当てはまるだろう。騎士団長としての彼の実力であれば、強盗や人さらいからだって彼女を守ることができる。
アリスはニコニコと笑顔でノワールにお願いと云ったが、ノワールは首を横に振って否定のポーズをとった。彼には騎士団長という役職であるがゆえに多忙なのである。王から命令があれば直々に任務を遂行しなければならない。今の時間は夜のため、まだ忙しくないが、昼の時間帯にはまだ新人の騎士の指導や国の見回りなど仕事は様々である。
ノワールとしてはできる限り、アリスの願いは叶えてあげたいことには変わりないが、相手はホワイトというアリスを意地でも捕まえようとしているかなりの強者だ。彼は敵にしたら十倍返しで嫌がらせが帰って来るような相手である。そんな相手には自分は勝てる気がしなかった。
「……俺は絶対やらない。ホワイトさんを敵に回したくない。もう俺には罰則が二回ついている。あと一回やってしまったら始末書を書かなければいけなくなるからな。こればかりは無理だ」
「大丈夫。アリスが父様にいっておくから。絶対良いって言ってくれるもん。それにあと一回なんてそんなにすぐ来ないよ。背後霊に呪われているわけでもないんだし」
「そうだとは限らない。俺はアリスに関わった時点で罰則対象なんだ。本当なら会話も二、三分で済ませなければいけないレベルだぞ! 見るか? ホワイトさんが制作した城内ルールブック」
ノワールはポケットから手帳サイズなのにやけに厚さがある本をアリスに見せた。タイトルには『城内ルールブック ~これが守れたら君も立派な騎士~』と書かれている。まさか、あのうさぎはここまで自分をしばっているとは思いもしなかった。これは過保護のレベルを超えて、犯罪レベルのストーカーである。アリスは次にホワイトと顔を合わせるときに苦笑いにならないか不安になった。
アリスはノワールからガイドブックを受け取るとパラパラとページをめくる。手帳サイズなのに厚さがあるため実に読みづらい。仕方なく片手でめくるのを諦め、両手で本を抱えた。パラパラめくっていくと、あるページでアリスは手を止めた。そこは騎士が主従関係をはっきり持っていないと書かれている欄だ。そこには太文字で何処の文字よりも目立つように書かれた文があった。
『姫との接触は最低限に。彼女との友愛、恋愛関係はご法度である』
この文を見た瞬間、アリスは思わずページをくしゃりと握りつぶした。何故、私は必要以上に彼らと関わってはいけないのだろう。自分が姫だからなのか。それでも人の友人関係まで制限される権限にはあのうさぎは持っていないはずだ。彼らと仲良くするかしないかは自分の自由ではないのか。
アリスは下唇をかみしめながら必死に目から溢れる涙を堪えた。何もできない自分がいかに無力で何もできないと考えたら涙が止まらない。
泣いているアリスを見てノワールは、彼女をそっと抱きしめた。彼女が何に泣いていて自分は何故無力なのだろうと考えているのはノワールには分かっていた。何せ彼女が生まれた時から一歩離れた位置で誰よりも彼女を見てきたのだ。それにしてもホワイトがやりすぎだと思っていたのは前からだったが、この本はアリスに見せるべきではなかっただろう。結果として彼女は自分の無力さを悔いているのだから。
「アリス、俺はここに書いてあることは話半分にしておけと城のやつら全員に伝えている。だから、お前は気にしなくていいんだ。実際、お前が誰かに話すとき、そいつらはお前のことを無視しているか?」
アリスは首を横に振る。思い返せば、自分が話し掛けた時には彼らはアリスを無視したことはなかった。それよりも自分が話し掛ける前に彼らから話し掛けてくれたことの方が多かったのだ。
「そうだ。みんなお前のことを嫌いな奴はいないし、寧ろお前と話がしたくてたまらないんだ。さっきホワイトさんが作ったって言ったが、もとはこの国の宰相が原文を作ったものをホワイトさんがこれでもゆるくしてくれたんだ。前なんか、話しただけで罰則対象だったが、今はアリスの教育上適さない行動をしたものにしか罰則はないんだ。ホワイトさんは本当にお前の事見ていると思うぞ。だから、泣くな」
ノワールはアリスの髪をくしゃりと撫でた。じわじわと溢れる涙を両手でおさえ、アリスは目をこすると涙をふいた。さっきまでホワイトへの悔しさは消えていた。彼は本当に自分を思ってくれているんだと思い、胸が温かく感じた。
ノワールからそっと離れると、遠くからホワイトの声が聞こえた。時間を見ると、もうとっくに就寝時間は過ぎている。このままだと、メイドたちにも声をかけかねない。
「ホワイトが呼んでいるから部屋に戻るよ。このままだとまたノワールを困らせるよね……」
「そうだな、今日はここまでの方がいい。部屋まで送るか?」
ノワールは席を立つと、アリスを先程と同じように迷路の入り口まで案内した。アリスは名残惜しそうに先程のベンチを見つめたが、首を横に振った。もう時間的にも彼と話している時間はないのだ。自分が就寝時間にベッドにいないことが王や女王にバレたら大変なことになる。
「ううん、部屋までは自分で戻れるから平気。それよりもホワイトに会うかもしれないから何か考えておいた方がいいかも。多分、あと二、三分でこっちに来そうだから」
「さっき言い訳はもうないって話したよな? これ以上何を考えろと?」
「そうだなぁ……、今日は星が綺麗だったから夜空の星を眺めながら薔薇を見てた。でもいいんじゃないかな。あと、さっき言っていたノワールに一日護衛を頼むって件、アリス諦めないからね。明日でも父様に伝えてみるんだから!」
アリスは拳を握ると、空を見上げた。空は星が輝いている。この明かりであったら自室まで帰れるはずだ。ノワールは生返事で頷いた。もうどうにでもなれとでも思っているのだろう。
「はいはい。ホワイトさんにバレないように帰れよ」
「うん、じゃあおやすみなさい」
そう云うと、アリスは小走りで走り出した。あっという間にその姿は花園の外に出ている。その姿をみてノワールは呆れたように見つめた。あれが守るべき姫なんだろうか。あれだけを見たら守らなくても彼女だけで逃げるくらいはできるのではないだろうか。彼はクスリっと笑みを浮かべるとアリスとは逆方向へ歩いて行った。その途中、ホワイトと遭遇したが、彼は何も話さなかった。ホワイトはしつこく彼に聞いたが、彼は苦笑するだけだった。
この数日後。ノワールのもとにアリスの一日護衛を命じる手紙が届けられた。ノワールは頭を抱えると、その日の夜とてもいい笑顔をしたアリスが彼のもとへとやってきた。どうやら、そろそろ女王の誕生日が近い事もあり、プレゼントを探したいのだそうだ。いつもは城の温室や庭園で育てている花を渡しているが、今年はなんとしても城下町で売られているある物が欲しいため、何度も王に言ったと話していた。一体、彼女は何を買うつもりなのかは全く不明だが、命じられてしまったら、これは覆すことはできない。ノワールは大きなため息を吐くと、アリスの言葉に渋々了承したのだ。
***
誰もがこんな日々が毎日繰り返されると思っていた。それはアリス自身も思っていたことで、そんな変わらない日々が彼女にとって幸せだった。
だから、変わらない日々に「終わり」が来るのを誰も気付かなかった。
女王の誕生日の翌週、いつものようにアリスを起こしに自室にメイドが訪れると、そこにはアリスはいなかった。いつもと違った光景に胸騒ぎを覚えたメイドは直ぐにホワイトのもとへ向かった。
ホワイトはすぐに王や女王に現状を離し、すぐに城中をメイドや騎士が捜索し始めたが、その日は誰一人として彼女を見つけることが出来なかった。
アリスを捜索していると一人の騎士がホワイトのもとへとやってきた。どうやら、ノワールも今朝から見ていないと騎士は言う。もしかしたら、ノワールがアリスを連れて行ってしまったのではないか。ホワイトはそう思ったが直ぐにそれを否定した。彼は国や住民の為に行動する人間だ。一時の感情でアリスを連れていくということは緊急でない場合ないだろう。ホワイトはメイドや騎士たちにアリスとともにノワールの捜索を命じた。
後日、国中に捜索願いのポスターが貼られるようになった。それでも彼らが見つかったという証言はなかなか来なかった。
彼らがいなくなるなんて、誰か想像できただろうか。いや、誰も想像できなかったのだ。
それでも、住民たちはわずかな希望をもってアリスを探し続けている。
ある者は、もう一度あの愛らしい少女に会うため。
ある者は少女の笑顔を見るため。
ある者は見つけ出してアリス自身消えた理由を問うため。
彼女を見つけられる日は果たして来るのだろうか。こうして、住民たちのアリスを捜し続ける日々が始まったのである。