消える記憶
食料不足を脱した交易都市リーバーだったが、大本の原因は冒険者の大量失踪にあった。確かに居た筈の冒険者達を忘れるエルスタントの住民達。アージュファミアも数人の行方不明者がおり、その中にはギルドマスターも含まれているのだった。
ヴァネッサとルチルとラッシュが、一つの卓を囲んで居る。ラッシュは自分の意思を示すかのように少し椅子を引いて座り、ルチルは対象的に椅子を寄せている。ヴァネッサも椅子を寄せ気味ではあったが、背もたれに体を預け、距離を置いていた。その光景は、今回の件への関心の在り方を表しているかのようだった。
「探しに行くにゃ」
「ダメ」
ヴァネッサは僅かな間髪も入れず、そう返す。その短い言葉は、静かで、しかし強固な意思を感じさせた。
「マスターと一緒に行動してた人達に、心当たりがあるにゃ。その人達に話を聞きに――」
「ダメだってば!」
ヴァネッサは姿勢を正して、まっすぐにルチルを見た。強い口調で拒否を示したヴァネッサの表情は、雄也の予想とは裏腹に哀切を極めたものだった。
「皆、忘れてるんだよ。私も忘れてた。ルチルが居なくなってた事を忘れてたんだ」
「……意味が、分からないにゃ」
何を忘れていたというのか。いつどのように忘れていたというのか。その言葉からは何も分からなかった。そんな疑問を感じ取ったのか、ヴァネッサは「ちょっと待ってて」と言い残し、二階へと上がっていく。
「ギルドマスターとは仲が良かったのか?」
ラッシュがどこか遠慮がちに問う。今やラッシュもギルドメンバーではあるが、直接的に付き合いの無い人物の話だ。言ってしまえば他人が首を突っ込むような事とも言える。
その問いに、雄也はすぐには答えられなかった。ギルドマスターとの関係はあったが、特別な関係は無かったからだ。
「……マスターは、管理する人って感じだったかにゃ。一生懸命で、ギルドはそのおかげで大きくなったけど…………そんなに仲良くは無かった気がするにゃ」
あまりよろしくない評価だったが、仲が悪かった訳ではない。むしろ表面的にはとても仲がよく見えていた。
よく言えば距離を置かない、悪く言えば馴れ馴れしい態度で、人との距離をぐいぐいと詰める。ネットとリアルを分けず、あけっぴろげで、女性キャラクターを使っているにも関わらず男性のような口調のままだった。ぐいぐいと踏み込む性格の割に細かい配慮もでき、にゃあにゃあと喋るルチルの性別や年齢などに踏み込んではこなかった。
そんな、内面を前面に押し出して眩しい程に輝くその生き方を見て、あまりに自分と違うと感じた雄也はギルドマスターに対して気が引けていたのだった。
「そんな人を探しに行くのか?」
「ち、違うにゃ。マスターを皆大好きだったにゃ。ルチルも……好きだったにゃ」
言いづらそうに口ごもるルチルに手が伸ばされ、少し乱暴に頭が撫でられた。
「見つかると良いな」
「……うにゃ」
戻ってきたヴァネッサが卓の上に広げたのは、ギルドメンバーの活動記録とは別の、個人的な日記だった。隙間なく書き込まれた紙面には、自問自答のような形で、メンバーが消えた事に関する疑問が並んでいた。
「読んでも良いにゃ? えと、前のページとか後のページとか……」
「良いよ。ポエムとかは書いてないし」
そう言ってヴァネッサは笑みを浮かべたが、状況が状況なだけにルチルは軽く苦笑いを浮かべてノートを手にとった。
軽く捲った前のページは、半分近く紙面が余っている状態だった。更に数ページめくるも同様だ。雄也はその中の記述に見覚えがあった。というのも、この日記はヴァネッサが定期的に更新していたギルドホームページのブログと内容がほぼ一緒だったからだ。そこにはその日に活躍したメンバーの話だとか、面白おかしい出来事が第三者の視点で書かれている。
このブログを見てアージュファミアに所属したメンバーも少なくない。そしてギルドに所属し、少し経ってから驚くのである。あのブログを書いていたのはヴァネッサだったと知って。
それは事務的な報告の体を取ったブログが、その実、日々をエンジョイしているというのが分かる内容だからだ。対して、ヴァネッサという人物を見ると、第一印象ではあまり楽しんでいるようには感じられない。そこを意外に思うからであった。
だが、ヴァネッサと付き合いの長いメンバーは、彼女がそのようなブログを書くことを――周囲の言動を楽しく思い、日々を過ごしている事を――疑問に思わなかった。時折見せる振る舞いで、それが分かったのだ。
「懐かしいにゃ……」
雄也の懐かしいとは一体何を指し示しての物か、それは彼自身分からなかった。ブログの記事か。ブログの記事を通して見る過去のエルスタントか。ただぼんやりとそう呟いて、切なげに笑みを浮かべた。
その表情を見て思うところがあったのか、ヴァネッサはちらっとルチルを見た後、背もたれに体を預け、瞳を閉じた。
時間にして僅か、二、三ページ読めるかどうかといったくらいで、ルチルはぱらぱらとめくっていたページを問題のページまで戻した。そこにはメンバーが消えていると思われる事から始まり、幾つかの考察が交えられ、その証拠として活動記録と日記の記述が引用されていた。
直近で消えたのは三名。消えた六名のうちの三名だ。しかし、この六名には所属後すぐに姿を消した『草不可避』は含まれておらず、彼を含めるならば七名が消息不明となる。七名全員が揃うとギルド館が埋まる計算になるのだった。
即ち、直近で消えた三名とはルチルとギルドマスターともう一人のメンバーだった。それ以外は過去に遡るうちに忽然と記録が途絶えていたが、その三名はある日を境に消えていた。既に一ヶ月前なので雄也も細かい日付までは覚えていなかったが、引用された活動記録を見れば雄也にも分かった。その日は確かに、雄也がエルスタントの世界に迷い込んだ日であった。
「……ルチル、行方不明、にゃ? え、でも……」
ノートには、数日前まで活動していたと思われる『消えたメンバー』として、ルチルの名が刻まれていた。
「最初に見付けたのはアルだった。次に私。今でも覚えてるよ。あの時私は、このノートに書いた事を忘れて、あんたの事を鮮やかに思い出した……いや、思い出したっていう感じじゃ無かったね。忘れていた事が全部無かった事になった、って感じかな。上手く言えないけどさ」
そう言ってノートに記述された一文に手を当てる。そこには『消えた六名は恐らくギルドメンバーだろう』と書かれていた。
「後から読み直して驚いたんだ。ここにルチルの事は書いてなかった筈なのに……。きっと残りの六人と出会ったら、ここの文章の事はすっぱり忘れてしまうんだと思う……もう、何を信じていいのか分からないよ」
深い溜息をつき、窓から外を眺めるヴァネッサ。まだ外は明るく、ギルド通りに併設された芝生が輝かんばかりに鮮やかな緑を見せつけている。平和な一日の筈だが、三人の空気は重い。
ルチルが次のページへと送る。少し文字量が多いだけで、それはギルドメンバー消失前と大差は無かった。が、ある日を境に再び紙面いっぱいに書かれている。それはずっと続き、最後の日付まで変わらない。境となった日には、ルチルに関する記述で記憶に不安を覚えたと書かれてあり、そこから先は誰か一人にスポットを当てるのではなく、全員の何気ない日常の一幕が満遍なく記されていた。
「……ヴァネッサ」
雄也はこの日記から、ヴァネッサの苦悩を感じ取った。仲間だと思しき人達の思い出が消え、忘れていた事すら忘れ、ルチルの存在を刷り込まれた。そこから湧き出る不安は数多だ。
今覚えている記憶が全てなのか。掛け替えの無い人達を忘れているのではないか。明日にはまた誰かを忘れているのではないか。
「そんな泣きそうな顔しなくても平気さ。もう、誰も忘れたりしない。このノートがあれば、きっと大丈夫だよ」
「……大丈夫にゃ」
「ん?」
「もう、誰も、誰かを忘れたりなんてしないにゃ。多分、あの日、あの時に、世界は切り離されてしまったにゃ」
「……世界?」
「マスターがどうなったのか、それだけ確認したいにゃ。もし居なくなってるなら、マスターはこっちに居られなかったか、あるいは向こうを選んだんだと思うにゃ」
ヴァネッサは目を丸くさせている。ラッシュも思案げな表情で目を伏せていた。二人ともルチルの言う言葉の意味を僅かにも分かっていない。そもそも、エルスタントの外という概念自体無いのだから、当然である。そのような概念を持てるのはテレビや本などで物語に親しむ現代人だからであり、そうでない世界では一部の哲学者くらいであろう。
しかし、ルチルがこれから何をしようとしているのかは分かった。だから、ヴァネッサは首を左右に振る。
「ダメだって言ってんじゃん。もう、嫌なんだよ。一瞬でも忘れてる時間があるなんて、そんなの嫌なんだよ。気持ち悪いじゃないさ、ルチルを忘れてるなんて。まるで私が私じゃないみたいだ。私は私一人でここまで来たんじゃないんだ。ルチルや皆が居たから――」
そこまでまくし立てるように口にし、最後にぽつりと「私が居るのさ」と呟いた。
「ヴァネッサの気持ちは分かるにゃ。でも、だったら、なおさらこのままじゃダメにゃ。きっとこれ以上酷い事にはならないにゃ。心配だったら私も日記を付けるにゃ。必ず毎日見るようにして、もし全てを忘れても、ここに戻ってくるにゃ」
「……さっきから、何か確信があるような口振りだね。世界がどうとか、向こうを選ぶだとか……それは説明できる事? それとも『嫌われたくない』かい?」
幾分か落ち着きを取り戻したヴァネッサが、淡々と問う。嫌われたくないか、という問いに一瞬首を傾げたルチルだったが、ギルド館にやってきて二日目の夜に交わしたヴァネッサとの会話を思い出した。そして、あからさまに表情を固くさせた。
ヴァネッサは気遣わしげに、再びゆっくりと、優しい口調で問う。
「――それは本当に、私が知ると問題がある事? どうしても、教えられない?」
あの日、雄也の記憶があるが故の違和感に気付いたヴァネッサは、短い問答の末に、ルチルが単純な記憶喪失で無い事を確信した。雄也は『嫌われたくない』からと、ヴァネッサの追及から逃れた。その時は話したくなければ話さなくて良いと言ったヴァネッサだったが、今の彼女は自分でも不思議な程に不安に苛まれていた。その感情は、メンバー全員の日常を書いたノートを持ち出すまでもなく、ルチルを見詰める彼女の瞳が訴えている。
しかし、雄也にも答えられない理由がある。記憶の齟齬を説明するには、雄也の存在を明らかにする必要がある。あるいは嘘をつく事もできたが、雄也はそれをしたくないと思っていた。故にルチルは、口を一文字に結びながらも、悲しそうに瞳を伏せた。
「…………もうちょっと、もうちょっとだけ……」
不意にヴァネッサが身を乗り出した。
「ああっもう!」
俯いていたルチルを掬いあげ、膝に乗せる。
「大丈夫だって言ってんのにさ。あんたは……」
ルチルはヴァネッサの腕の中で少しの間、身を縮こませていたが、やがて力を抜いて体を預けた。やがて、ヴァネッサは小さく呟く。
「もうちょっとじゃないよ。全部話しても、私はあんたを嫌ったりしない。でも、話さなくても良いからね。どっちにしろ、私はあんたを受け入れるから」
空気を読むかの如く沈んでいく獣欲を自覚しながら、雄也はヴァネッサの胸に頬を寄せた。
「うにゃ。……いつか、話すにゃ」
ルチルがゆっくりと体を起こし、頬が触れ合う程の距離で、ヴァネッサと視線を交わす。懇願するような憂い顔を浮かべ、切々とした声で「だから」と、それだけを口にした。
「分かってる。でも、一人では行かせないよ。皆で行って、戻っておいで」
「うにゃっ」




