序
MMORPGの舞台――エルスタントに近似した世界に迷い込んだ雄也は、マイキャラのルチルとしてこの世界での生活を始めた。
この世界の住人となったかつての仲間と合流し、新たにラッシュという仲間を迎え、曲折を経て仲間達と絆を紡ぐ。
そうした中、交易都市リーバーは謎の食糧危機を迎える。贅沢の許されない状況となったリーバーだったが、ルチルの料理と町民一丸となった対応によって食の自由を取り戻したのだった。
交易都市リーバーは、自治都市という名も持っている。これはMMORPGエルスタントに元々あった機能からなる。
プレイヤーはクエストをこなす事で都市への貢献値を上げる事ができ、貢献値を一定以上貯めると都市クエストが発生する。
都市毎に違うクエストを達成すると、都市の自治権を獲得でき、それまでコンピューターによって自動で行われていた事をプレイヤーが担う形になる。
また、影響力を高めるという名目でギルドへの所属が前提となっており、単独では挑戦できない都市クエストは勿論の事、その前提となる通常のクエストもギルドでこなす事が慣例となっていた。
ギルドアージュファミアもまた、他ギルドと共に都市クエストに挑戦した者達で構成されている。例外と言えば後から加わったラッシュくらいなものだ。
「ま、思惑は違うけれどね、ご近所さんは戦友みたいなもんさ」
「なるほどな」
少し華奢な、しかししなやかさを感じさせる女性、ヴァネッサと、筋骨隆々の大男ラッシュがそれぞれ別の卓に座り、会話を交わしていた。ルチルはラッシュと同席しており、コップを両手で持って微かに白く濁る果実水を口に運んでいる。
「三代目に変わってから課せられた通関税がめちゃくちゃでね……一部の冒険者にとっては嬉しい事もあったんだけど、それで周辺の村もガタガタになってね……気付いたらあたしらの目標はリーバーの自治権を獲得する事になってたね」
その話は雄也にも覚えがあった。
エルスタントの世界は、割と暗い。残虐な行為は無いし、人々も明るく振る舞ってはいる。しかし、どことなく現代日本人からは受け付けないような重さや暗さが漂っているのである。健気に頑張っている村人からのクエストなどにもそういう物が滲み出していた。雄也が異世界転移するまでエルスタントを続けていたのは、重厚な生活システムと、ギルドアージュファミアの存在があったからだ。それが無ければ、気が滅入るという程ではないものの、引っ掛かる物を吐き出す事も飲み下す事もできず、辞めていたに違いない。
「リーバーの人達が喜んでくれて、嬉しかったにゃ」
嘘ではなかった。たかがゲーム、と言ってしまう事は容易い。だが、されどゲームなのである。
十を越えるギルドによる総力戦。領主による圧力を一つ一つ跳ね除け、小さな自由を一つ一つ得ていく。脅威を覚えた領主による横暴な振る舞い。清廉潔白と名高い地方領主と共にリーバー領主を追い詰め、獲得した自治権。残念ながら自治権は貢献値の最も高いギルドに渡った。貢献ランキング三位にすら入れなかったアージュファミアは、特別な権利は得られなかった。
それでも、その日を境にリーバーは変わった。行き交うNPCは増え、物価は目に見えて下がり、物の流通は増えた。様々な圧力から逃れるだけのクエストが減り、街をより良くする為のクエストが増えた。
「私も、だよ。あの時さ、言ったじゃん。大袈裟だ、って。正直、あの時、私も小躍りしたいくらいだったよ」
少し気恥ずかしそうに笑みを浮かべるヴァネッサを見て、ルチルは目を丸くさせた。が、すぐに笑みを浮かべた。
「……そんな気、してたにゃ。ヴァネッサ、クエスト受ける時、いつも静かになるにゃ。じっくり話聴いてるんだってルチルも思ってたけど、にゃ」
でも、違う気もしてた、と暗に口にして、ルチルはコップに手を添えて、でも飲まずに手を放した。
「……なんでかな。あの時から、リーバーを開放できるって確信があってさ。クエストを受ける度に決意を固めてたんだ」
昨今のゲームは、余程マイナーなタイトルでない限りWikiが作られる。Wikiはハワイ語で『速い』を意味し、情報の素早い更新を第一義として存在している。その為、大勢がいつでも編集でき、バックアップシステムなどによる気楽な更新が可能となっている。そのシステムを使った情報群――ゲームで言うなら攻略情報――を包括したページを『Wiki』と言う。
大抵のMMORPGではWikiが作成され、攻略情報が持ち寄せられる。ヴァネッサのプレイヤーはリーバーの自治権を得る手段をWikiによって知っていたのだ。それがエルスタントのヴァネッサにフィードバックされていた。
不意にルチルは気になった。彼女の抱いた気持ちは、プレイヤーの気持ちとどのように違うのか、と。
エルスタントの住人は、プレイヤーとして遊んでいた頃のルチルを知っている。様々な出来事の記憶も共有している。ならば、住人とプレイヤーは、どこまで共有されているのか。
「……そういえば、あの時、エルダが二十日以上寝ないで頑張ってたよにゃ~」
「え? エルダは頑張ってたけど……」
「なんでもないにゃ♪」
エルスタントの時間は五時間で一日だった。二十五時間で五日である。また、七百二十時間で百四十四日が過ぎる。七百二十時間とは、現実での一ヶ月だ。
エルダのプレイヤーは現実で四日以上寝ずにリーバー都市クエに挑み、アージュファミアの順位を押し上げた実績がある。追従する形でルチルやヴァネッサも可能な限りの時間を投入したので、エルダが寝ていないのは二人とも知っている。
が、エルスタントの住人であるヴァネッサは、それを知らない。
「まぁ確かに、エルダはあの時、一番頑張ってたね」
「うにゃ♪」
確実にプレイヤーとヴァネッサは違う。それでも時間を掛けて共に築いた関係を、雄也は信じたいと思った。
その日、ここ三週間を思えば珍しく、ラッシュとルチルは薬草を取りに街の外へ出掛けようとしていた。
街の近くで取る薬草は街で栽培されている薬草と変わらないのだが、元手がただなので近場に取りに行っているのだった。だが、ルチルの倉庫内資産は莫大で、実は多少けちったところで意味は殆どない。
「上級薬草欲しいんだけどにゃ~」
ヴァネッサに禁じられていた。というのも、ルチルが記憶喪失になったのが高級薬草採集の為の移動中だからだ。乗り物に乗ってもまる二日かかるダンジョンに生えているのだが、ルチルの様子が万全でない事もあり、ラッシュを同伴して近場に行く事しか許可されていない。
「普通の薬草でも上級回復薬を作れてたと思うが。何か違うのか?」
「あれ、上級薬草入ってるにゃ。ブレンドにして材料減らしたけど、そろそろストックが切れちゃうにゃ~」
なんでもないかのようにルチルは言っているが、ブレンドは制作難易度が高い行動だった。純粋に上級薬草を使うのが最も楽で、なおかつ性能も高くなりやすい。ブレンドした場合は成功難易度が下がる上に、性能も下がる可能性が出てくる。それを成功させ、性能もすえおきなのは、一重にルチルの調合スキルが高い為だった。
「なるほどな。最悪は買うようか」
「それもありかにゃ♪」
ラッシュもなんでもないかのように流したが、彼はブレンドの難しさを知らないだけである。
街の外を目指して歩いていた二人は、荷を台車へと下ろす商人達を見掛ける。台車に積まれた荷は、商店へと運ばれていくが、その光景は少しおかしいものだった。
馬車の待機場所は、基本的に物を下ろす場所ではないのだ。そこは主に、乗り込んだり積み込んだりする場所だった。下ろす場合はアフターサービスで店の前まで行く事が多い。
「……何かあったのか?」
普段よりも声を張り、ラッシュが訊ねる。ラッシュは基本的に距離を取ってコミュニケーションを取る。近付くと怯えられる事がよくあるからだった。
「ああっ? 何か、何か……そうですなぁ。キャンセルですわ。冒険者が護衛依頼を。はぁ……代わりがいりゃ頼むんですがね、あの日以来さっぱりでしょ?」
「あの日、にゃ?」
雄也には思い当たる節があった。食料不足である。しかしそれは、NPCの増加による食料不足であった筈だ――と思った矢先に、気付くのだった。交易が滞っている、という話を。周囲の変化が多過ぎて、雄也の思考は麻痺していたのだった。「冒険者が消えた話、お嬢ちゃんは知らないかい? 今日、ようやく依頼を受けてもらえたと思ったら、直前でキャンセルだよ。全く……」
「…………冒険者が消えたって、大体どれくらい前にゃ?」
「もう一ヶ月以上前になるね。お嬢ちゃん達も気を付けなよ」
「ヴァネッサ! なんで黙ってたにゃ?」
「……すまん、護衛任務のキャンセルがあってな。いや、荷馬車が門の前にな」
「……そうかい」
要点を得ない会話ながら、ヴァネッサは全てを察し、椅子に座るように促した。ルチルは素直に従い、飛び乗るように椅子に座る。ラッシュも居心地悪そうにゆっくりと椅子に座る。
「ラッシュからどこまで聞いた?」
「なんにもにゃ。何聞いてもヴァネッサに聞けしか言わないにゃ」
「ん。そうさね、ルチルが戻ってきたあの日、冒険者が一斉に消えたんだよ。いや、正確には、消えたとしか思えなかった、かな」
「…………どういう意味にゃ?」
ヴァネッサの言葉は普通なら理解しがたい事だった。だが、雄也からすれば何も不思議は無い。何故なら、彼はこの世界に降り立った例外の一人だからだ。これ以上の不思議など存在しようがない。
「うちからも消えた人が居る、という事にゃ?」
「……記録上はそうなる、ね」
『記録上』ヴァネッサがこのように表現するのもおかしな事ではない。皆、消えた冒険者の事を記憶していなかったのだ。ただ、ぽっかりと、ある筈のモノが消えた。それが帳面上に現れてるのである。それもそこかしこの店で。
それに付け加え、アージュファミアでは記憶に齟齬を抱えた少女が発見される。冒険者消失は確定的なものになった。そしてヴァネッサは、リーバーの代表ギルドを通して、冒険者消失を主張したのである。全ては、冒険者を守る為に。それが結果としてリーバーの交易を滞らせていたのだった。
「……だ、誰が消えたにゃ?」
次々に名前をあげ、ヴァネッサが否定していく。が、ある名前を口にした時、ヴァネッサが目を丸くさせた。
「ま、待った、ルチル! ……クサフカヒ?」
「草不可避さんが居ないにゃ?」
「…………確かにその人がうちのギルドに居たんだね?」
「うにゃっ」
ふざけた名前を口にしている二人だが、当人達は真剣である。
草不可避は、リーバーの自治権を得る直前に加入し、それ以後ログインしていない幽霊部員のような人だった。
それをヒントにまさかと思い記憶を探るも、ルチルがログインした時間帯に居ない筈の半蔵が居たりする事から、ログインした時に居なかった人がこっちに居ない、という説は否定された。残る可能性はログインしてなかった期間が長い人か、と雄也は当たりを付ける。
「何人くらい抜けてそうにゃ?」
「……ルチルは、うちのギルドマスターの名前、分かるかい?」
「え?」
さっと血の気が引いた。
「姫宮鈴穂、にゃ」
「ルチルは、私達が忘れた事を、覚えてるんだね」
ヴァネッサが手元のノートを手早く捲り、目的のページを見付けたのか、開いた状態でルチルの眼前に置く。
「……多分、六人、だよ。本当は、全員揃ったらギルド館の部屋が埋まる筈だった、みたいなのさ」
ノートには姫宮鈴穂の名が記され、その横に護衛任務でアステルムーバ、と書いてあった。
「マスター、居ないにゃ……?」
「……この人が、マスターだったなんてね」




