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 初めに知覚したのは、むせ返る程の緑の香り。日の当たる生け垣の香りを何倍にも濃くしたような、都会では嗅ぎ慣れる事のない、自然の香り。

 次に感じたのはまぶた越しにも感じる光。夜中に起きて電灯を点けるような――いや、それと比べ物にならないような強い光が辺りを照らしているようだった。少し俯きながら強引に瞳を開く。

 緑。背の高い草。木。山。青い空。振り向いても人工物の一切見えない――そこは草原のどまんなかだった。

「え?」

 管楽器のような、柔らかくも高く伸び広がる声が響く。ケモノの少女は辺りを窺う為に捻っていた体を戻すと、喉に手を当てた。その時の自分の手の感触に驚き――ややもして再び「え?」と声をあげた。


 草原に茶色の線が引かれていた。茶色の線は丘に遮られるまで続いて、その先に何かがある事を示していた。小さな――このような場所に不似合いな程に小さな――少女は、轍で遊ぶように左右に踏み越えながら、その茶色い道を歩いていた。

 それは歳相応の無邪気さを思わせた。深く刻まれた轍に、時にわざと落ちてみたりして、微笑ましい光景にも見えた。が、少女の表情は一片足りとも楽しそうには見えなかった。

 少女は、ここに至るまでを思い返していた。この道を探すまでの事ではない。あの草原のどまんなかに立つよりも以前の事だ。






 佐藤雄也、それが少女の名前だ。持ちネタは『ピャー』。彼と趣味の合う人物に行えば、ドッカンドッカンの一発芸だ。懇切丁寧に名刺を渡し、相手が顔を向けた時に行うのが最も効果的だった。ともあれ、今は名刺ケースも持っていないし、この姿ではそれも通用しないだろう。今の彼は二十五歳のフリーターではなく、小さな小さな女の子なのだから。

 その日雄也は、慣れないバイトで正社員にいびられ続け、心身ともに疲労していた。いびられるだけならまだしも、ミスをしてしまった自責の念が、正社員の言葉を耐え難いものに変えた。そうして終いには自暴自棄に囚われ、行き着けのコンビニの酒を全種類買い込んだ。缶や小さな瓶の物だけだったが、それだけで雄也の日給を超えている。

 ずっしりと重いビニール袋を引っ提げ、ぼろいアパートの階段を上がる。今にも消えそうな蛍光灯がある方はまだマシで、雄也の部屋の前は蛍光灯が切れている。だがそれにも慣れており、大して苦にもせず、ボロボロの錆びた鉄の扉の鍵を開け、部屋へと入る。


 ワンルームの部屋の中はお世辞にも良い環境とは言えない。ゴミなどは置いてないが、長年の生活により、臭く、汚い部屋だった。雄也以外が訪れれば、そこに気持ち悪いが追加され、臭い、汚い、気持ち悪いの3Kが成立するだろう。

 敷きっぱなしの布団、タワー型のでかいパソコン、これまたでかいモニター、そして布団に被さるようにコタツが置かれている。

 雄也はパソコンの前に陣取るとパソコンの電源を入れ、コタツの上に酒を並べていく。コンビニの棚にあった時には大した量が無いようにも思えたが、マウスやキーボードも置かれたコタツの上には置ききれなかった。

「へっ」

 掠れた弱々しい声。一日分の稼ぎを全部使って、一人飲み比べ大会、馬鹿な事をしてると今更ながらに思ったのである。酒を嫌いではないが、付き合い以外で飲む程好きでもない。好きでもない物に持ち金全てを注ぎ込む――こんな事は愚行以外の何物でもなかった。

 置ききれなかったカクテル系の酒を開け、飲む。左手で別の缶を畳へ下ろし、空いたスペースに飲んでいた酒を置いた。そんな事をしていると、パソコンはIDとパスワードを求める画面に切り替わっている。打ち込もうとして手前に置いた缶が邪魔である事に気付く。

「……っ。はっ……わろす」

 笑っているとは思えない、苦虫を噛み殺したような表情を浮かべ、缶をどける事もせず腰を浮かせて無理矢理にキーボードに入力する。そんな自分の奇行が面白くなり、また笑う。がやはり、その表情は笑顔から程遠いものだった。


「度数六とか。ビールより多いじゃん」

 そう呟いて一気に飲み干す。

「なのに飲みやす~い♪ ジュースだね、こりゃ」

 景気良くもう一本のプルタブも開け、ぐびぐびと飲む。その勢いは速く、ジュースもかくやと飲み干す。

「ジュースだね~♪ ジュースだね~♪ とってもジュースだね~♪」

 即興の歌を口ずさみながらダブルクリックしたのは、馴染みのMMORPGのアイコンだった。帰ってパソコンを点けこのアイコンをダブルクリックするまでが、彼の日常だ。

「今日のわんこ。ちゃんちゃんっちゃちゃんくぅ~ん♪ フヒ」

 画面に映し出されたのは小さな女の子だ。ただし、少女が女性である事を示すのは、その白いワンピースと長い髪くらいなものだった。その頭と、しなやかに伸びた細い手足、いずれも毛に覆われており、前述した要素を除けば性別は判断できそうになかった。

「今日もルチルちゃんは可愛いなぁ~。んほーっ。ぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろ」

 にやにやと笑ってこそいるが、その口調はどことなく覇気を感じられなかった。

 先程からの発言も、実のところ、酔いによるものではない。雄也は、酒に酔っても意識が明瞭なタイプだ。半日吐き続ける程飲んでも、意識ははっきりとしている。

 ――ただ酔っている振りをしているだけだった。風邪の時のような頭の重さを感じた事はあるが、呂律が回らなくなった事は一度も無い。それでも、楽しげに奇妙な発言を発する。そのように、演技する。

 雄也にとって、酒とはそういう物だった。

「は……」

 笑いとは違う。無意識に漏れた溜息。

 雄也は少女――ルチルにカーソルを合わせ、ダブルクリックした。画面が暗転し――






「おれ、佐藤雄也、ぴゃー…………くふ」

 驚く程可愛らしい声が、雄也の持ちネタを口にする。

 このネタは雰囲気が大事だ。状況を選ばずに行えばくそさむい結果しか待っていない。しかし雄也は、自分を取り巻くくそさむい状況が面白くて笑いをこぼす。

 男が漏らせば陰鬱な響きになるであろうその笑い声も可憐で、同時にこぼれた吐息すらもが愛らしかった。

(ルチルだな)

 それは雄也が想像した通りの、理想の少女だった。いや、正確に言うのなら、少女と呼ぶにはいささか語弊のある小ささ、オサナゴ。つまりは、幼女だった。

 

 ひたすらに広がる草原。どこまでも続く土の道。刻まれた轍と、馬と思しき動物の足跡。彼方には山、森。

 広がるのは濃密な緑の香り。花の香り。土の香り。

 雄也にはこのような大自然の中を歩いた経験などない。だから、大自然という物はこういうものなのかという問いには答えられない。しかし、はっきりと断言できた。これは夢などではない、と。未だかつて、ここまでリアルな夢など見たことが無いのだから。

 酒による幻覚だとか、死に掛けて走馬灯を見ているだとか色々考えられたが、度数六%を一リッター飲んだ程度でそのようになる訳が無かった。雄也の経験上、吐き気が起こるのは度数十%以上を五リッター以上飲んでからだ。空きっ腹という事を考慮しても、酒による幻覚は考えられない。ましてや飲み過ぎで死ぬというのもありえない。

 加えて、こうなったタイミングもおかしい。記憶の改竄が起こっている可能性は否定できないが、意識を失った記憶が無いのだ。酒を片手に暗転する画面を見ていた筈が、気付いた時には立った状態で目を閉じていて、草木の匂いが漂ってきていて、慌てて辺りを見た、という訳だ。


 雄也は早々に結論付けていた。ここは異世界だと。そして自分がこの姿だという事は、ここは通い慣れたMMORPGの舞台――エルスタントの世界だと。しかし、決して状況を整理できた訳ではない。何もかも分からないが、とにかく行動しなければと思い、複雑な胸中のまま歩き出したのである。

 雄也は轍を避けて道の真ん中に立つと、駈け出した。人に会いたい、その一心で。

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