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のんびりと、一本道の農道を戻っていると、田植えをしていた稲守が椅子代わりになる岩に腰掛けて休憩しているところに出くわした。
「よぉ、稲守だっけ」
「あ、人間」
はは……そういえばこいつも神様だったな。
人間で言うと小学生の低学年くらいだろうか、そんな容姿の稲守が笹で作った小さな弁当箱からおにぎりを取り出し、それを俺に向けてきた。
「一つ食べます?」
可愛すぎる……!
断る理由があるはずもなく、俺も岩に腰掛けて稲守と一緒にちょっと早い昼飯を食べることになった。
「人間、昨日は大丈夫だったですか?」
「大丈夫って?」
「え、だって……いえ、そんなことよりも小夜様と一緒にいたことです。これまで小夜様に目を付けられて無事だったのは陽香様くらいですから」
出来れば『昨日』の話は勘弁してもらいたいんだけどな……どうせ、俺の記憶にない四日の話なんだろ?
「小夜って、月見里小夜のことか? 確かに昨日小夜には会ったけど、って厳密には昨日じゃないんだけ……はぁ」
今日が五月五日ということはどうやら間違っていないっぽいし、小夜が現れたのは五月二日の夜。どう考えても『昨日』なんて表現はおかしいと思うけれど。まあ、稲守が言うのだから、四日に小夜と会ったのだろう。
俺が言ったことを理解出来ない稲守は頭上に疑問符を浮かべ、キョトンと首を傾げて俺の顔を窺っていた。
……可愛いぞっ!
「というかさ、小夜って悪いやつなのか? あいつも神様なんだろ?」
「小夜様は夜の神様です。そこにあるものを見えなくし、そこにないものを見せる。そんな神様です」
あー、小夜もそんなことを言っていたっけ。
「私達神様は自然そのものです。人間が神様の存在を忘れてしまった時、神様は存在出来なくなってしまいます。でも小夜様はどんな時でも存在出来る。月と夜の神様の役割は、恐怖と幻想だからです」
何を言っているのか全然わからないけど、わかっているフリでもしておこう。
とりあえず俺はセールスマン並みの笑顔を作る。
「神様は存在出来なくなることを恐れて妖怪になります。そして妖怪になった神様は、他の神様の力で完全に存在を消されてしまうのです」
その時の稲守の表情はとても寂しそうだった。
胸がチクリと痛む。
神様は自然そのもの。人間が神様の存在を忘れた時、神様は存在することが出来なくなる……なるほど。深いな。
「俺が稲守を忘れるわけないだろ? だから稲守は存在出来る。ほら元気出せって」
言い終わった瞬間、一本道の農道を風が吹き抜ける。ざわざわと、山が揺れ出す。
「本当ですか?」
さっきまで可愛かった稲守が、声色を変えて、俺の瞳の奥を覗き込む。
獲物を狙う肉食獣のような目が下から俺を見上げている。
「本当ですか?」
背筋が凍る。
稲守の目が、一度だけ見た怖いハルカの目と重なった。
「本当ですか?」
「……ほ、本当だよ。約束する」
数秒前に稲守が見せた獣のような目はなんだったのだろう。
一瞬感じた恐怖はすぐに去り、稲守はまた可愛らしい顔に戻っていた。
小夜が俺の前に現れた時に金縛りのようなものを感じたし、さっきの稲守もそうだ。おそらくハルカもそうなのだろう。確かに神様は人間には出来ない何かを持っている。
背中に悪寒を感じた。
「人間? 陽香様が待っていますよ。早く行ってあげないと」
稲守は今、可愛らしい顔でにっこり笑っていた。
まあ、知らないことの答えを考えても仕方ない。そもそも考えることは不得意だしな。
「そうだった。ハルカのやつには聞きたいことがたくさん残っている。じゃあな稲守!」
立ち上がり、稲守に一度笑顔を見せて走り出す。
「……人間、気を付けて」
その稲守の声は俺の耳に届かなかった。
スマホは壊れているし、時計も持っていないので確かめようはないが、おそらく十二時を回った頃だと思う。
しばらくの間、ハルカの神社に向かって走っていた俺は、突如後方から襲い掛かってきた突風に煽られて前方に転がってしまった。
「うっわ、あぶね! 田んぼに落ちるとこだった!」
水を張った田んぼに落ちたりしたら絶対ハルカに馬鹿にされるだろうな。
などと、そんな悠長なことを考えている場合ではないことを次の瞬間に理解する。
「おい、クソ人間」
声がしたので振り返ろうとする。が、
「テメーまだ帰ってなかったのかよ。何度も言わせんなって、な? ここは人間が来るような所じゃねーんだよ」
「ぐっ……!」
またしても突風が背中を襲い、今度は前方へ五メートルくらい吹っ飛ばされる。
何言ってんだコイツ……というかマジで意味がわからない。
五メートル吹っ飛ぶって、はあ? どうなってんだ。
痛む体を無理矢理起こして、今度こそ後方を振り返る。一本道の農道。ずっと遠くの方に小さな人影が見えた。と同時に、
「痛ッ……!」
顔面に物凄い衝撃が走り、俺の体はそのままゴロゴロと後方へ転がった。
やべぇよ……よくわからないけれど、風の壁というか、衝撃波みたいなもので俺を攻撃してやがる。
口の中に血の味が広がり、土埃で汚れた鼻を拭うとベッタリと鼻血が手に付着した。
小学生の頃ですら喧嘩をしたことのない俺には考えられないほどの痛みだった。
起き上がっては吹き飛ばされることを繰り返し、人影との距離はどんどん離れて行く。
それでも的確に、空気の壁が俺の顔面や腹部を殴り続ける。
「がっ、ゴホッ、ゴホッ」
吐血……!?
マジかよ、ふざけるな。
血を吐くってアレだろ? 胃とか腸とかの内臓から血が出ているってことだよな? 冗談じゃねーぞ。
手で口元を押さえながら、おそらく俺にとって味方ではない『敵』であろう相手の姿を探す。
理由はわからないが俺を攻撃しているんだ。『敵』と呼んで間違いないだろう。
口元から手を離すと、漫画やドラマでしか見たことのないほどに手のひらが真っ赤になっていた。
「――ッ!?」
今までの風よりも重圧のある風が俺の鼻っ面を蹴り上げた。
いや、違う。風なんかじゃない。数十メートル先にいた『敵』が、俺の顔面にひざ蹴りを入れやがったんだ。
一体どんな速さで移動してんだよ。人間の常識ではまず考えられない。
……こいつも神様か。
たぶんコレ頭蓋骨とか割れてんだろうな、と思う。蹴り上げられたサッカーボールのように、俺の体は空高く吹き飛んだ。
ああ、ハルカが言っていたことは本当だったんだな……ボコボコにされて死にそうになるっていう話。
ドン、と。俺の体は背中から地面に叩きつけられて大きく跳ね上がり、腹部に追い打ちの蹴りが見事に入る。
感覚的に、そのまま数メートルは飛ばされたと思う。
「こりゃ驚いた。人間の体って意外に丈夫なんだな」
目を開く時間すら与えてもらえない。俺の顔面は何者かによって踏みつけられた。
ふざけんじゃねーよ。人間の体はかなり脆いんだぜ。打ち所が悪ければ即死だコラ。
「ぐっ……ぐぐ」
視覚は完全に塞がれているが、俺を踏みつける足を掴むことくらいは出来る。せめてもの抗いだ。
ハルカや稲守、暗くてよく見えなかったけれど小夜だってそうだった。神様はみんな和装を着ている。そして俺が掴んだ足も、その上には和装らしい生地がある。
間違いない。こいつ、神様だ。
俺の顔を踏みつける力が徐々に増し、脳みそに激痛が走る。気が遠くなっていく。
感覚が麻痺して、既に痛みを感じなくなっている。
これ以上は、本当に死にかねない。
「帰らねぇんなら気ぃ失ってろ。その方が幸せだろーよ」
一瞬だけ顔の上から足が離れる。が、そのまた一瞬後には理解し難い衝撃を顔面に受けることになり――俺は意識を手放した。