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どうして電車の吊り革を握っても充分な安定感を得ることが出来ないのだろう。と、いくら考えてみてもやっぱり体は揺れるので、今日も俺は電車に揺られながら通学している。
一本前の電車に乗れば座席に着くことが出来るだろうか、いやあえて一本遅らせてみてはどうだろうか、という思案はなんの解決案でもないことをこの身で経験している俺は、ならば最も睡眠時間を確保することの出来る時間に乗り込んだ方がいいに決まっているという結論に至ったのである。
我ながら素晴らしすぎるこの結論に辿り着くまでに一ヶ月もかかってしまった。
現在、高校生一年目の五月である。
神様からの恵みとも思えたゴールデンウィークが時間を超越してしまったのかと思うくらい、本当にあっという間に過ぎ去り、今日からは再び意味不明の呪文を聞き流すだけの授業が始まってしまうのだが――。
その昔、タイムワープやタイムマシンといった手法のSF小説が流行ったように、俺もそれを体験してしまったのかもしれない。
俺のゴールデンウィーク、お願いだから帰って来てくれ。
しかしまあ、物語は進化し続けている。昨今の物語ではディメンションワープやタイムスリップといった時間的あるいは時空的な超越現象にもその原理なる法則があったりするし、サイエンス『フィクション』だと理解しているにしても科学が進歩すればあるいは……という切なる思いを捨てられないでいる。
とは言ったものの、現実世界での話、理論上は時間移動を出来るらしい。
簡単な話だと光より早い乗り物が過去に行けるタイムマシンだ。難しい話だと惑星をぶっ壊すくらいの重力を操ることが出来れば時間を操れるらしい。
難しい話だから、俺にはわからないけれど。
そして、今。地球をぶっ壊すほどではないが俺の体を飛翔させない程度に強い重力と、眠たいけれど頑張っている瞼が格闘している中で、手持無沙汰の耳がすぐ隣にいる女子二人組の会話をキャッチした。俺が通う高校の制服の、女子用のそれを着た二人だった。
「あなたって、いつも一つ前の電車で登校していたと思うけど。もしかしてゴールデンウィークで呆けてしまって、寝坊でもしてしまったの?」
「うっさいわね、違うわよ。というか聞いて!? 朝起きたら自転車壊れてるわけ。いいえ、正確には壊されていたっていう感じだったわ。山の狐でも下りてきたのかしら」
山の狐に自転車を壊されたって……この女どこに住んでいるんだよ。
「あらあら、ふふっ。大変だったのね、では私の話を聞いてくれる? ゴールデンウィークなんだけどね、退屈だったから、面白そうな本を読んでみたの」
「あっそ。まったく、こっちは大変だったっていうのに。それで、どういう内容の本よ」
すごく大人びた声と一方はすごく不機嫌そうな声。友達同士なのだろうか。
「SF……ホラー、いや……違うわね。ファンタジーという感じだったかしら。その手の類はこれまで読んだことがなかったから詳しくはないんだけど」
「はは……アンタがファンタジーをねぇ。異世界とか魔法とか?」
「まあ、平たく言うとそんな感じかしら。よくわかるのね。でもひょっとして私が知らないだけで有名な本だったのかもしれないわね。あなたは読んだことがあったの?」
「べっつに……っていうか、今時たくさんあるんじゃないの? そういうのって」
「ふふっ、そうかもしれないわね。ところで、今日のあなたちょっと変よ?」
「そりゃ自転車壊れたんだからイライラするって」
「そうじゃないの。妙にそわそわしているというか、上の空というか」
――ファンタジー小説の話か。
そういえば、SFとファンタジーってどこが違うんだろうな。不思議な現象だけどその根本は科学による、というのものがSFの認識でいいのだろうか。まあ、この場合の科学は空想論であることは前提として。
それでは、ファンタジーってなんだろう。理屈も何もない、単なる不思議現象のことか?
手のひらから炎を出すのはファンタジー、魔法陣みたいなものから悪魔を召喚するのもファンタジー。それはそうと、悪魔の存在自体がファンタジーのようなものなのどうけど。
だったら神様なんかもファンタジーに属するのだろうか。そもそも神様って人間の想像だろ? となると人間の想像自体がファンタジーなのかも知れない。
あと他には……ドラゴンとかだな、うん。男子の心を震わせるよなぁ、ドラゴンって。男ならさ、死ぬまでに一度はドラゴンの背中に乗って空を飛んでみたいとか思うだろ?
とまあ、どうでもいいことを考えていると、知らぬうちに重力と瞼の喧嘩は後者が勝利を得たようで、ようするに完全に目が覚めてしまったのだ。
最近は本当に寝てばかりだったのに珍しいこともあるもんだ。今朝、母さんには遊んでばかりいないで勉強しろと怒られたけれど、俺はべつに遊んでいるわけではない。ただ、寝ているだけだ。
「話、戻るけど。あまりにも面白くて全部読んでみたの」
「あー、さっき話してたくだらないファンタジー小説のこと?」
再び隣の女子の会話が耳に入る。
「そう、そのくだらない本。でもなんだか不思議なのよね、他人事のようには思えないのよ」
「小説なんて所詮誰かの創作物なのに。え、なに感情移入とかしちゃったわけ?」
「これが感情移入だとすると、私もずいぶんと人間臭くなったものね」
「へー。そりゃよかったよかった」
冷静で大人びた声と、めちゃくちゃ不機嫌そうな声での会話だったので、その声の主がどんな顔をして会話をしているか気になってしまい見てみると、確かに一方は背が高くて大人びた顔立ちだった。二つに結ったお下げ髪が金持ちのお嬢様感を醸している。また一方は、ショートカットで気の強そうな女である。顔に不機嫌と書いてありそうだ。
じろじろと見ているわけにもいかないので視線を戻す。
その時――。
「おっ……とぉ、お!?」
電車に乗っている時に感じるアレ……なんだっけ、まあ、減速の時に生じるそれによって俺の体が電車の進行方向へ吹っ飛んだ。
あ、慣性の法則だっけか。
そんなことはどうでもいい! このままだと名前も知らない同じ学校の女子にダイブしてしまう!
俺は最大限の力で吊り革を握りしめた。上を向いてそれを確認する。
ってオイ! 吊り革が根元から千切れてるじゃねーか! 二百キロくらいの荷重に耐えられるはずだろうがコノヤロー!
もうだめだ、間に合わない。あと一秒も経たないうちに、俺は痴漢か何かと勘違いされるだろうな。
覚悟を決めて、強く目を閉じた。
……と思ったけどやっぱり駄目! 最近の女はちょっと体に触っただけで犯罪扱いするってニュースで見たぞ! 電車で通勤するサラリーマン涙目だって言ってたぞ!
神様、俺を助けてくれ!