速すぎて何もわからなかっただろう
けれども、赤ん坊が立ち上がる方法なんて考えることがないのと同じ感覚だった。
身体に取り込まれた≪秒針≫の使い方を、頭が、神経の中枢が、指先が、全身が思い出していく。
――≪秒針≫は感情を糧に時間を停滞させる力がある。
姉さんが運んでいたものは≪秒針≫だ。
フェンリル社の連中が姉さんを殺した理由は≪秒針≫だ。
大企業様が異常な技術や魔法や奇跡を回収しようと躍起になるのはよく聞く話だった。
けど、なんでこんな大事なものを姉さんが運ぶことになった?
わからない。けれど。
「……姉さん。姉さんがくれたものは全部、俺のなかにあるよ」
鏡を見つめながら、真っ赤な瞳に語り掛ける。
……力を試せる時間はあるだろうか。
物体を加速させる銀の炎。時間を止める時計の針。すでにどちらも体の一部になっていたがわずかな不安が過る。
ディストはゆっくりと目を瞑った。胸元に灯る銀の炎。熱を帯びて揺れる灯。火が穏やかに熱を広げると、知覚が拡張されていく。
壁を、天井をすり抜けるように意識が、同じ銀の炎を捉えた。
……五人だ。銀雲急便の義体が同胞の位置を明らかにして燃え滾る。
「企業の義体は便利だな。わかっちゃいたが」
姉さんが殺される原因となった仕事を用意していた連中が、すでにこのボロアパルトメントを包囲していた。
「……アメリア。ごめん」
後悔がなかったわけではない。ただ、どうしたらいいかわからなかった。
何もしなければ何もわからないまま連中の一員になる。――納得できない。
何もしなければこの想いをどこに向ければいいかわからない。
自分より大切だった者はもういないから、納得することが、命よりも大事なものに変わっていた。
静かに眦を決する。
軍刀を引き抜くと鈍色の刃を銀の炎が濡らしていく。
深く構え――ディストは深く地面を蹴り込んだ。
瞬間的に燃え広がる銀色。肉体は一瞬にして加速し、部屋の扉など容易くぶち破る。
そして、目の前の銀雲急便の女に刃を振り下ろした。
「お前らが!! お前らが関わらなければ!!」
きっと間違ったことを言っているだろう。
姉さんから仕事を求めて接触したはずだ。
けど、認めれば最後、身体を突き動かして銀に光輝する熱のやり場は、どこにもなくなってしまうだろう。
だからディストは自分自身を止めることなどできなかった。
型もなく、つい今しがた初めて握った軍刀を力任せに振るい薙ぐ。
加速し続け、荒れ狂う炎の渦を舞い上げて、激情を燃やし切っ先を研ぎ澄ます。
「ッ、お前……今さっき義体をつけたはずなのに。ふん、けど……その方法じゃ斬れない。本当に殺す気あるのか?」
刃と刃の向こう側。軋み火花を舞い上げる少女が悪態をついた。
揺れる長い銀の髪が火炎を巻いて靡いていた。
炎を睨む青い瞳がディストの歪んだ表情を映し出す。
目が合うと同時、少女は白銀の炎を瞬間的に瞬かせた。
「っ……!」
視界が銀に塗り潰されて眩むなか、脚を蹴り払われて重心が崩される。
みっともなく転びかける刹那、ディストは勢いよく炎を噴射した。
銀の炎で地を焼いて、対峙する少女の頭上を飛び越えてみせる。
同時、刀よりも慣れ切った拳銃を引き抜いた。
銃口を華奢な背に向ける。撃ち抜けば、姉さんを死に追いやった奴を殺せるだろうに、……引き金が酷く重かった。
――躊躇っているのか? もう後戻りもできないのに。
吐き気のするぐらいの自己嫌悪が指に深く力を込め直したが、発砲はわずかに遅れた。
「……逆巻け。≪分針≫」
少女が小さな言葉を呟くと、彼女の青い瞳のなかで、金色の光が反時計回りに揺れ動いていくのが見えた。
――直観的に理解できる。
それは異界道具の力を引き出すための詠唱であり、引き金だ。
目の前の女は≪秒針≫と同じような力を持っている。
確信と同時、握る拳銃が劈くような銃声を轟かせ――。マズルフラッシュが瞬き、――銃口に収斂していく。
身体が過去に押し戻されていった。引き金を押し込む前へ、拳銃を構える前へ。
頭上を飛び越える最中へ、視界が空を向いていく。
時の遡行は滞ることなく、炎を噴出してバランスを取り直すよりも前へ。
そうして彼女の脚が横薙いで、足元を掬われる瞬間にまで戻り――――そして時が再び流れ始める。
「ッ――!?」
何が起きたのか。
似た力を持っているせいか、鮮明に理解できた。
時間がほんの数秒、――巻き戻されたのだ。
理解はできたが、理解だけだ。身体と思考は追いつくはずもなかった。
転ぶ運命から逃げることはできなくなって、ゴツンと、勢いよく背と後頭部を地面に叩きつけられる。
「ここから逃げる方法はない。……ブツを渡せば文句は言わない」
鉄底のブーツが胴を踏み躙った。鈍い殴打。
臓器の圧迫によって否応なく嗚咽が漏れ出る。
反射的に睨み上げた眼差しが少女の青い瞳と再び向かい合った。
互いに目と目を覗き込み、刻まれた時計の針を見つめ合う。
「お前、≪秒針≫を使ったのか――!?」
「あれがブツだったんだろう!? 悪いな。俺が触ったら消えたよ……!!」
……使い方は今、目の前で教わった。
唱えればいい。言葉は少し違うが。
悩むことはなかった。歩く方法なんて考えたりはしない。
「悔め。≪秒針≫」
不快な時計の音が響き渡り――静寂が包まれる。
奇妙な表現だが、時間が停滞した。
宙を舞った砂塵さえもその場で静止している。
動くことができるのはディストだけだった。
触れたものは動くらしい。空気や重力が流れを帯びていく。ディストは自身を踏みつけていた脚を掴んだ。
掴んだまま立ち上がり、少女の体を吊るすように持ち上げる。
そこで≪秒針≫の時間が途切れた。
「ッ――――」
息を呑んだのは敵の少女だった。
ディストに足を掴まれ、宙吊りになって長い銀の髪が薄汚い地面を撫でていく。青く鋭い睥睨が突き刺さった。
だが、すぐに苦痛を帯びた彼女の表情は冷笑へと変わった。
「何がおかしい……」
「何もかもだ。義体の使いこなしは大したものだが。銃も刀もなっちゃいない。時間を止めてワタシをこんな格好にさせることができるなら殺すこともできただろう。それに、忘れているのか? 生憎ワタシは一人ではない」
……五人だ。
あまりに冷静じゃなかった。
ディストは咄嗟に炎を舞い上げ同胞の位置を知覚しようとするが、間に合わない。意識したときには頭上を影が覆っていた。
上空から放たれる蹴り。捕えていた女を放り投げ、すれすれで回避する。地面が激しく揺れた。舗装路だろうが構わずに砕けて、何条もの亀裂が奔る。
舞い上がる砂煙のなか揺れる炎。映り込む人影は全身義体だった。
銀雲急便以外のものもあるのか、蒸気が渦巻いて霧靄が纏いついている。
「ふふ……。ルーディオ、外してんじゃん」
「銃で撃ったら死ぬだろう? オレなりの配慮さ!」
全身義体男を楽しそうに嗤い、煙を裂いて緋髪の少女が肉薄してくる。
「……なにがおかしい!!」
彼らの態度が自分に向けられたものではないことはわかっていたが、それも許せなかった。振るう激情を、怒りを、枯れきった涙を、真っ向から相手にすらされちゃいなかった。
「私はもっとスマートにいけるがな?」
緋髪の少女の快活狂暴な笑みが迫る。張り詰めた獣の耳。加速に靡く尾。
少なくない数の人体改造施術から生み出された膂力が、巨大な両刃剣をバットのごとく振るい薙いでくる。
同時、後方から伸びる雷撃。――奥にもう一人いる。
ディストは義体整備用の潤滑液を足元にばら撒き距離を取った。
距離を詰めてきていたケモミミ女が、急加速したままゴミ山へ。摩擦の火花を凄烈に迸らせながら滑り突っ込んでいく。
「ぎゃ!?」
「ルサールカさん……!?」
煙の奥で支援していた少女が困惑するように名前を呼びかけていた。
「機転は効くが――無謀だな」
背後から気だるげな声。
ディストは反射的に声の方向へ軍刀を突き向けたが、刃先が捉えたのは炎の残像だった。
目も眩むような銀の光輝と烈風を生み出して、眼前にまで距離を詰めてくる。否、既に詰め切られていた。
とっさに回避行動を取ろうと緊張する四肢。動揺と硬直のなか掴まれる手。
引き寄せられる腕から銀の炎が広がり、制御下にない加速が脳をゆらした。
瞬間的に暗転する視界。
五感全てが吹き飛んで、なすすべもない超加速を前に、体が地面に叩き付けられる。
知覚の理解が追いつかず、なんの抵抗すらもできなかった。
「どうだ? 速すぎて何もわからなかっただろう」
小隊のリーダー格らしき男は刀の切っ先を向けながら、どこか気だるげな表情でディストを見下ろした。




