EP 2
最初の入居者は訳ありウサギ
異世界での朝は、存外に静かだった。
青田優也はマンションの最上階、オーナーるーむのバルコニーで、愛用のマグカップから湯気を立てる珈琲を啜っていた。
眼下には緑の大平原。遠くに見える街道を、時折、馬車や奇妙な生物が横切っていく。
本来なら危機感を持つべき状況だが、この『オート・マンション』は、優也の魔力とユニークスキルによって鉄壁のセキュリティに守られている。部外者が許可なくエントランスを突破することは不可能だ。
「さて、開店休業というわけにもいかないな」
優也はポケットから珈琲キャンディを取り出し、ガリッと噛み砕いた。
甘苦い味が口に広がる。
このマンションを維持するためには、住人を入れ、家賃収入を得て、それを自身の魔力へと変換・還元するサイクルが必要だ。
だが、こんな辺鄙な場所に建つ高層マンションに、果たして客が来るものだろうか。
ふと、優也はエントランス前の植え込みに、違和感を覚えた。
グレーのコンクリートと緑の植栽の境界に、なにか「ピンク色のモフモフした物体」が落ちている。
「……死体か?」
いや、ピクピクと動いている。
長い耳だ。ウサギの耳が、力なく痙攣している。
優也はマグカップを置き、エレベーターホールへと向かった。
客商売において、店先の清掃と確認は基本中の基本である。
◇
自動ドアが開き、優也は問題の物体に近づいた。
そこに倒れていたのは、人間と変わらない少女だった。
プラチナブロンドの髪から生えた長いウサギ耳。お尻には丸い尻尾。服装はボロボロの冒険者風だが、足元だけはなぜか無骨な鉄芯入りの安全靴を履いている。
「……おい、生きてるか?」
優也が声をかけると、ウサギ耳がぴくりと反応した。
少女はうつ伏せのまま、消え入りそうな声で呻く。
「……にん……じん……」
「人参?」
「もう……歩け、ない……お腹、すいた……」
グゥゥゥゥゥ――。
少女の腹の虫が、モンスターの咆哮のように盛大に鳴り響いた。
優也はほう、と息を吐く。
どうやら行き倒れだ。
料理人として、腹を空かせた者を前にして見過ごすという選択肢は、彼の辞書にはない。
「立てるか? うちの店に来い。何か食わせてやる」
優也は少女を抱き起こした。
見た目によらず、その体は羽のように軽かった。
◇
マンションの一室、202号室。
優也は少女をとりあえずそこへ運び込み、備え付けのキッチンに立った。
冷蔵庫(氷魔法冷却式)を開ける。スキルによって初期配置されていた食材の中に、都合よく大量の卵と、新鮮な野菜があった。
「ウサギなら、やはりこれか」
優也は手際よくナイフを振るう。
玉ねぎを微塵切りにし、鶏肉を一口大にカット。フライパンでバターを溶かし、具材を炒めていく。香ばしい香りが部屋に充満し始めた。
そこへケチャップライスを投入し、強火で煽る。
続いて、別のボウルで卵を溶く。牛乳と生クリームを少々。
熱したフライパンに卵液を一気に流し込み、箸で激しくかき混ぜる。
ここが勝負だ。
完全に固まる手前、絶妙な半熟加減でフライパンをトントンと叩き、卵を木の葉型にまとめていく。
皿に盛ったチキンライスの上に、プルプルのオムレツをオン。
仕上げに、作り置きしておいた特製デミグラスソースをかけ、脇にはバターと砂糖でグラッセにした人参を添える。
「お待ちどうさま」
テーブルに皿を置くと、ソファで死んだようになっていた少女が、バネ仕掛けのように跳ね起きた。
鼻をヒクヒクさせ、赤い瞳を輝かせている。
「こ、これは……なんですか? 宝石?」
「『特製オムライス・デミグラスソース』だ。付け合わせの人参グラッセもあるぞ」
「い、いただきますっ!」
少女はスプーンを掴むと、震える手でオムレツの中央に切れ目を入れた。
とろり、と半熟卵が雪崩のように広がり、チキンライスを覆い尽くす。
その光景に、少女は息を飲んだ。
一口食べた瞬間、彼女の時が止まった。
「ふぁ……っ!?」
濃厚なデミグラスソースのコク、卵の優しさ、そしてバターの香り。
それらが口の中で渾然一体となり、飢えた体に染み渡っていく。
そして何より、付け合わせの人参グラッセ。
土臭さは微塵もなく、野菜本来の甘みが極限まで引き出されている。
「あま……おいし……こんな美味しい人参、食べたことない……!」
少女の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
彼女――キャルルは、ここ数ヶ月、野草と干し肉だけの逃亡生活を送っていたのだ。
元三つ星シェフの本気の一皿は、彼女の胃袋と心を、一撃で陥落させた。
◇
数分後。
皿まで舐める勢いで完食したキャルルは、ふぅ、と満足げな息を吐き、ようやく自分が置かれている状況に気づいたようだった。
キョロキョロと部屋を見回す。
「あの……ここ、お城ですか? 空気がすごく涼しいし、床もツルツルで……」
「俺が管理しているマンションだ。今は空室だがな」
優也は珈琲を飲みながら淡々と答えた。
「代金はいらないが、行き場がないなら部屋を貸そうか? 202号室、1LDK。敷金礼金はサービスする」
「す、住みたいです! でも……私、お金持ってなくて……」
キャルルはウサギ耳をぺたんと伏せた。
その姿は、捨てられた小動物そのものだった。
「出世払いでいい。君、冒険者だろう? 稼げるようになったら少しずつ返してくれればいいさ」
「ほんとですか!? やります! 私、足には自信があるんです!」
キャルルは立ち上がり、ガッツポーズをした。その拍子に、彼女は部屋の奥にある扉を開けてしまう。
そこにあったのは、純白の陶器――水洗トイレだった。
「これ……なんですか?」
「トイレだ。座ってレバーを回せば、水が流れて汚物を消滅させる」
「ええええっ!? 王族専用のマジックアイテムじゃないんですか!?」
「それに、奥にはお湯が出るシャワーと、フカフカのベッドもあるぞ」
その言葉を聞いた瞬間、キャルルの理性が焼き切れた。
美味しいご飯。安全な壁。清潔なトイレ。フカフカのベッド。
逃亡生活で擦り切れていた彼女にとって、ここは楽園だった。
「優也さん……私、一生ここから離れませんっ! 家賃でも掃除でも魔物退治でもなんでもしますからぁぁ!」
キャルルは優也の足にすがりつき、泣きながら懇願した。
優也は苦笑しながら、暴れるウサギ耳をなだめる。
「わかったわかった。じゃあ契約成立だ。今日からここは君の家だ」
「はいっ! あ、私、キャルルっていいます!」
こうして、青田マンションに最初の住人が定着した。
月兎族のキャルル。
彼女の入居を皮切りに、このマンションには次々と「規格外」な連中が集まってくることになるのだが――それはまた、別のお話。




