第6話 落涙
土地神と思しき声に従って進んでみればこのざまか。
龍の能力を持つものは魔物に狙われると、コトヒラから助言を受けたばかりだというのに。
しかしおかしいな。先ほど訊いた声は邪悪なものではなかったように思えるのだが。
狐の魔物らしきものが半ば身体を引きずりながら、俺の周りを円を描いて歩き始めた。暗い眼窩から黒いどろどろが流れ落ち、地面に闇を塗り広げている。
目の前のこいつからは邪悪な気配が濃厚に漂ってくる。
魔物がくわえた剣太刀に目をやる。
山で狐が目の前を横切る。はっとして荷物を確認すると持ってきた握り飯が消えている。そんな昔話を聞いたことがある。
やれやれ、まさかこんなところで狐に化かされるとはな。
黒い霧が狐の身体から湧き出し、辺りを覆い始めた。視界が悪くなっていく。このまま霧が増えるとまずい。
強く踏み込み、狐に蹴りを放つ。
だが一瞬遅い。魔物は飛び退き、蹴りは空を切った。
姿を見失う。だが気配はすぐ近くに感じる。
一旦この空間から出ることも考えたが、分厚い空気の壁でもあるかのように、外に出ることができない。
奴の狙いはなんだ。俺の得物を奪ったくせに、すぐには攻撃してこない。まるで時間稼ぎでもしているかのように。
『………して、解放…て』
また声がする。この場所に誘いこんだ声だ。狐の魔物の声ではなかったのか。
「おい、どういうつもりだ。俺を罠に嵌めやがって」
どこにいるのかわからない声の主に向かって怒鳴る。
『どうか………』
じゃあじゃあ、と周囲の木々がざわめく。この円形の空間を狐の魔物が高速で廻っているようだ。黒い霧がますます濃くなる。
霧が俺の周囲を覆い、足元が見えなくなった。
霧がまとわりつき、足が鉛のように重くなる。この感覚は、最初に大蜥蜴の死骸から灰色の粒子を取り込んだときと同じだ。
ということはこの霧は、龍素と逆の性質を持つものか。
ヒュッヒュッ!っと小さく空気を切り裂く音が複数聞こえた。
咄嗟に屈み、両腕で急所を庇う。しかし、足をとられているため避け切れず、黒く太い棘のようなものが両足と右腕に刺さっている。深くはないが、刺さった箇所が内側から裂けるような痛みが走る。
間違いない。この感覚は黒い粒子と同じだ。ならば……
「ふぅぅ――」
脱力し、体内に入り込んだ黒い粒子を追い出す様を心に想い描く。
「はぁっ!」
俺の内側から風が起こり、体内に入った黒い粒子だけでなく、足元を覆っていた黒い霧までが吹き飛んだ。
これで動ける。
空気を切る音。また棘が来た。姿勢を低くして走りながら躱す。
奴の荒い息づかいが聞こえる。何か焦っているのか、我武者羅に棘を飛ばしているようだ。
『解放して……』
うるせえな。勝手なこと言いやがって。しかし、相変わらず霧が濃くて動きまわる狐の魔物の姿が見つけられない。
体内に入り込んだ粒子ならなんとかなるんだが。
―――そうか。想像の幅を広げればいいだけか。
走りながら棘を躱し、呼吸を整える。
心と身体が大きく膨らみ、この空間全てを包み込む感覚を持つ。
今起きていることは外ではなく内だ。ならば出来る。
俺の中で想像が形に成った。
足を止め、一瞬目を瞑る。胸や腹に棘が刺さる。
両手を左右に大きく広げ、目を開く。
次の瞬間右手と左手を強くぶつけ、拍手を打った。
パァンッ!――
甲高い拍手の音が鳴り響き、周囲の空気が振動する。
俺を中心に発生した音の響きが円形に広がり、辺りを覆っていた黒い霧を分解するように消し去っていった。
狐の魔物が姿を現した。先ほどは目だけが黒く溶けていたが、今は身体中至るところが黒くどろどろ崩れている。暗い眼窩の奥に悲しい色が見えた。
〈なけ……、おまえもなけ……〉
狐の魔物、その意が直接頭に流れ込んでくる。
『どうか……』
「もうわかった。任せておけ」
狐の魔物。いや、かつて白く美しい狐だったものが、糸で操られているかのように中空を勢いよく飛ぶように向かってきた。
大きく口を開き、目前に迫る。
失敗すれば俺も〝吞まれる〟かもしれない。だがやるしかない。
俺は左腕を前に出し、わざと噛みつかせる。黒く濁った牙が腕に食い込む。黒い粒子が狐の魔物と俺の身体を覆う。
牙がしっかりと筋肉に刺さったところで、ぐっと腕に力を込める。
牙が抜けず、狐の動きが止まった。
右の五指を真っすぐ伸ばして貫手を作り、狐の腹に差し込む。ぞぶりと嫌な感触が伝わってくる。
「これで繋がったな」
俺は想い描く。狐と俺が一体となり、心身にまで入り込んだ黒い粒子を追い出す様を心に描く。
「破ッ―――――」
瞬間、強い光で目が眩み、視界がゼロになった。
目を瞑って耐える。
少しずつ、目を開く。
身体を覆っていた黒い粒子はもう無く。木々と、ただ円形の空間。
そして足元に、小さく痩せ衰えた白い狐の死骸があった。
「これが正体か」
かさかさと草が揺れる音が聞こえ、見ると淡い赤の毛並みが美しい一頭の狐がいた。
淡赤の狐は白い狐の死骸のそばに身を寄せ、その顔に頬ずりした。愛おしそうに。
淡赤の狐は居住まいを正し、俺に向かって深々と頭を下げた。
途端に鳥のさえずり、虫の声が聞こえ始めた。目線を空に向け、また足元に向けたときには二頭の狐はいなくなっていた。
代わりに、木々の枝に様々な種類の果物が生っていた。陽当たりがよく、風が心地よい。
『ありがとう……龍訊の人よ……』
静かな、穏やかな声が微かに耳に触れ、森の奥へ遠ざかっていく。
それ以後、問いかけても返事はなかった。
最初に触れた大木に、剣太刀が立て掛けられていた。
見慣れぬ紐が巻き付いている。太くしっかりとした紐が、陽を受けて白く煌めく。
俺は剣太刀と紐を取り、鞘と腰に巻き付け、剣太刀を佩いた。
これまではベルトとズボンの間に差し込んでいたが、これでようやく正しい形になった。
「紐と果物が礼というわけか」
リンゴや梨、ブドウ。地面に近いところにはイチゴもある。
しかし、俺のいた世界の果物とは見た目や雰囲気が少し違う。
近くにあったイチゴそっくりの果物を1つ手にとってじっくりと見る。大きさは普通のイチゴと同じだが、赤みが強く、パンパンに張っていて、少し触っただけで破裂してしまいそうな印象だ。
潰さないように、そっと口に入れ、噛んでみる。
おおっ、これは。強い…!
甘みと酸味、食感。とても美味いしいのだが、それ以上に強い。
ものを食べて「強い」という感想を抱いたのは初めてだ。
咀嚼して飲み込むと、覚えのある感覚が少しだけ身体に行き渡る。この感じ、これは…、龍素か。
身体に受けた傷を見る。もうすでに血は止まり、痛みも引いている。
そうか、この果物には微量の龍素が含まれているのか。なるほどな。
では有り難く、俺とコトヒラの分と、予備の食料としていくつかもらっていくとしよう。
袋も鞄もない。上着のシャツを脱ぎ、これに包んで持って行くとする。
木の枝に実っているもの、地面に近いところに生っているもの。出来るだけいろんな種類の果物を、シャツで作った即席の風呂敷に包んだ。
よし、これぐらいでいいだろう。コトヒラの待つ場所に戻るとしよう。
「じゃあ、またな」
誰もいない穏やかな森に声をかける。風の音だけが応えた。




