8 一番欲しいもの
ピストンの唸りと、油の焦げる匂い。
ヘイゼン整備工房の天井からは、蒸気の白い帯がいくつも漏れ出している。
壁際には大小の魔導炉、作業台の上には真鍮製のレンチや魔導ドライバー、リベットハンマーが整然と並び、油に濡れた床を歩くたび、ブーツの底がぺたりと音を立てた。
「ねぇ、親方。ひどいと思わない?」
リディアは地べたに座り込み、膝の上で工具箱を抱えながら、先日の夜会の出来事を延々と愚痴っていた。
グレゴールは修理に持ち込まれた飛行船の下に潜り込み、拡大ゴーグルを額に上げたまま、手元のボルトを魔導スパナで締めている。
リディアとグレゴールが修理しているのは中型の〈飛行船〉だった。
上部の巨大な気嚢で浮力を得て、下部に取り付けられた操縦席と客席を支える構造だ。
二人だけでも点検できるほどの小型機で、街と街を結ぶ連絡便として使われている。
「おい、トルクリベット・レンチ」
「はい」
リディアがレンチを手渡すと、グレゴールは黙ってそれを受け取り、再び機体の奥に潜り込んでしまう。
「ねぇ、聞いてる?」
「そういや、この間お前が見せてくれた魔導飛行機の設計図、なかなかいい線いってたぞ」
「え……本当?」
「あれ、しばらく借りていいか」
「なにに使うの?」
「専門家に見せる」
「え!?」
リディアの膝の上で工具箱がガシャンと鳴った。
「おい、魔導圧着プライヤー」
「え、ちょっと待って、専門家って誰!?」
「おい! よこせ!」
「は、はい! ごめんなさい!」
慌てて工具を渡すと、グレゴールはまた中へ引っ込む。
「おい、ガキ。お前は反対側へ回れ。整備してみろ。あとで俺がチェックする。ネジ締めすぎんなよ」
「触っていいの?」
「早くやれ」
「はい!」
リディアは工具箱を床に置き、自分用の棚へ走った。
拡大ゴーグルを首にかけ、魔導ランプ付きヘッドライトを装着。
自分の工具箱を開け、整然と並んだレンチとスパナを確認する。
「よし!」
箱を抱えて反対側に回り、台車に乗って飛行船の下へ潜り込む。
呼吸を整え、ネジ一つ、パイプ一本を慎重に確認していく。
リディアの長い金の髪が汚れた床に触れたが、気にも留めなかった。
汗が頬を伝い、ヘッドライトの光にきらめく。
金属のきしむ音、蒸気の唸り。
その中で、彼女の青い瞳だけが夢に向かってまっすぐ輝いていた。
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リディアは緊張しながら待っていた。
グレゴールが彼女の整備箇所をチェックしている。
手持ち無沙汰にブーツの紐を結び直し、髪をきゅっと結び上げた。
ガラガラと音を立てて、グレゴールが台車に乗って出てくる。
「親方! どうだった!?」
彼は黙ったまま立ち上がり、ゴーグルを外す。
「どうだった!? ねぇ!」
「うるせぇな……
――腕があがったんじゃねぇか、クソガキ」
「……ほんと?」
グレゴールの口角がにっと上がる。
「それとな、嬢ちゃん。お前の婚約者のことなんざ俺ぁ知らねぇ。
だけどな、何でもかんでも手に入ると思っちゃいけねぇよ。
何が一番欲しいのか、ちゃんとてめぇの心に聞いてみな」
「え?」
リディアが顔を上げた時には、もうグレゴールは背を向け、他の整備士たちに指示を飛ばしていた。
油と蒸気の匂いが漂う工房の中で、リディアはただ、飛行船の巨大な気嚢を見上げて立ち尽くしていた。
「……一番、欲しいもの?」




