14 運命を変える蒸気
相変わらず、リディアはヘイゼン修理工房に入り浸っていた。
音の悪いラジオが、ノイズ混じりに告げる。
「昨日、国境空域で不明機を撃墜」
リディアはそれを聞き流し、黙々と魔導圧縮ボイラーの蒸気漏れを修理していた。
歯車の軋み、蒸気の漏れる音、油の匂い——そのすべてが、彼女を現実から遠ざけてくれる。
グレゴールは朝から客人があるとかで主任室にこもっており、姿はまだ見ていない。
一方で、整備士の大半は〈飛空艇〉の修理にかかりきりだった。
飛行船とは比べものにならない規模――数十人を乗せ、遠征にも耐える巨艦。
鉄の外殻に魔導推進器を備え、軍の支援も受ける特別機だ。
広い工房にはリディアの工具の音だけが響いていた。
何も考えたくなかった。
子爵邸にいると、色々と考えてしまうから。
黙々と機械に向き合っている時だけが、静かな心でいられるのだ。
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「……お姉様! お姉様ったら!」
「え!?」
突然の声に振り返ると、煤に煙る工房の中に、あまりにも場違いな美しさが立っていた。
エミリア——その名を呼ぶ間もなく、彼女は腰に手を当てて姉を睨んでいる。
「ずっと呼んでいましたのよ?」
リディアは工具を置き、箱に丁寧に戻す。
「なぜここに? 中まで入ってくるなんて珍しいね」
「今日、いらっしゃるとグレゴールさんが教えてくださったの」
「誰が?」
エミリアはじっとリディアを見つめた。青い瞳がまっすぐに光る。
「お姉様の運命を変える力を持つ人」
「……何それ?」
その時、主任室の扉が軋みを上げて開いた。
グレゴールと、彼の客人が姿を現す。
「え……」
リディアは思わず立ち上がった。
淡いベージュのスーツに身を包んだ男。
金褐色の髪が蒸気の中でゆらめき、森の深みを思わせる蒼の瞳が、工房の隅々までを見渡す。
ルカ・アストレイン。
そして彼の視線がリディアに留まり、口角が上がる。
「あぁ、君が――」
言葉の続きを聞く前に、エミリアが小さく囁いた。
「ほら、お姉ちゃんの運命を変える人、彼でしょ?」
リディアの頬がぱっと赤く染まる。
ルカは軽く手を挙げ、笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
「ははぁ、それが君の素の姿か。ドレス姿もいいけど、その姿もいいね!」
「ルカ様……」
「ル・カ。“様”はいらない」
「ルカ……どうしてここに?」
「グレゴールさんに頼んでる。スカーレット・ウィングの部品をね」
リディアがグレゴールを見ると、彼は工具を拭きながら当然のように頷いた。
「お前さんの図面、あれをもとに部品を仕上げてる」
「……そうだったの」
その時、エミリアがリディアの肩をつつく。
「お姉ちゃん、ちゃんと言うのよ」
「な、何を?」
「“私を連れてって”って!」
「え!?」
「言うの!」
背を押され、リディアは思わずルカの前に一歩進み出る。
見上げた先で、ルカの蒼の瞳とぶつかる。
彼の笑みには、自信と誇り、そして空を知る人間だけが持つ静かな強さがあった。
――“婚約がなくなれば、もうお姉様を縛るものなんてなくなるじゃない”
――“この青空を、自由に飛びたまえ”
――“お前は、自由だよ”
リディアははっと息を呑み、エミリアを振り返る。
「エミリア、まさかあなた……!」
「早く!」
リディアはルカに向き直り、拳を握った。
「ル……ルカ……!」
そして、一歩前へ踏み出す。
「ルカ! 私を――あなたのエンジニアチームに入れてください!!」
その言葉に、ルカの瞳が見開かれた。
天才パイロットは、静かに妹の方を見る。
エミリアは胸を張って言った。
「姉の婚約は解消されました。もうこの国に縛られる理由はありません。
どうか姉を連れて行ってあげてください」
グレゴールも頷き、低い声で言う。
「彼女の腕は保証する。ヘイゼン修理工房でも、一、二を争う整備士だ」
ルカは蒼の瞳を輝かせ、満面の笑みを見せた。
「彼女を連れて行ってもいいんだな? ――それに、グレゴールお墨付きときた。完璧だ!」
彼は手を差し出す。
「リディア! おいで!
君を俺のエンジニアチームに迎える!」
リディアはその手を取った。
力強く、確かに握られた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
ルカの笑顔を間近で見たリディアは、頬を染め、無邪気に笑う。
その背後で、エミリアとグレゴールが目を合わせ、静かに微笑み合った。
工房の奥で、蒸気の弾ける音がひときわ大きく鳴った。




