12 歯車の刻む決意
子爵邸の執務室。
分厚いオーク材の扉をくぐると、室内は薄い蒸気の匂いに満ちていた。
壁際には真鍮の装飾を施した書棚が並び、重厚な革張りの椅子の背には、家紋を刻んだ鋲が光っている。
ランプは魔導灯で、ほのかに青白い光を灯し、机の上の歯車式時計がジーッと唸りをあげていた。
時を刻む音が、まるでこの家の呼吸のように響く。
その執務机を挟んで、エミリアは父と向き合っていた。
「お父様――お姉様を自由にして差し上げたいのです。
政略結婚は私が引き受けます。
どうか、ロイド様との婚約解消を認めてくださいませんか」
撫でつけた金の髪がランプの光を受けて、柔らかく揺れる。
父は肘を机に置き、考え込むように宙を見上げた。
「……エミリア。私も父親だ。リディアの夢をかなえてやりたいと思っている。
だがな、魔導飛行機は所詮軍用機だ。
海の向こうの大陸では、小国同士の国境紛争だって続いている。
戦争はすぐそこにあるんだ。
そんな危険な世界に、愛する娘をやりたい父親がどこにいる?」
「お姉様に、伯爵夫人なんて務まりませんわ」
「リディアは賢い子だ。……務まらないことはないだろう、多分」
エミリアは机に手を置き、父を真っ直ぐに見つめた。
「お父様、この国にはお姉様の幸せはありません」
父は息をつき、椅子の背にもたれて天井を仰ぐ。
壁の時計の歯車が、ゆっくりと音を立てた。
一つ、二つ、時を刻むその音を聞きながら、二人の父は静かに息を吐き出し、エミリアをまっすぐに見た。
「……寂しいな。だが、わかった。書類にサインをしよう。
お前は下がれ。代わりにリディアを呼んでくれるか」
エミリアは静かに一礼し、退室した。
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――これでいいのよ。何も、間違っていない。
エミリアは重い足取りで廊下を歩く。
長い回廊にはステンドグラス越しの夕陽が差し込み、床の赤い絨毯の上に歯車の影が落ちていた。
――どうして、お姉様は魔導飛行機なんて好きになってしまったの。
――どうして、あんなに素敵なロイド様にきちんと向き合えないの。
――どうして、遠くへ行ってしまうの。
胸の中で次々に浮かぶ声を、エミリアは振り払うようにして壁に手をつき、呼吸を整える。
――お姉様を空へ行かせるって決めたのは、自分でしょ。
――弱気になってどうするの。
青い瞳に力を込め、再び歩き出した。
リディアの部屋の扉を叩く。
「はい」
「お姉様、お父様が執務室でお呼びです」
「はーい。今行きます」
姉の声を聞き、エミリアはその場を離れた。
――涙の跡を、見せたくなかった。
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リディアが執務室に入ると、父は机上の書類に目を落としていた。
「あぁ、リディア。来たね」
顔を上げた父の目は、どこか寂しげで優しい。
「お父様、お呼びと伺いましたが」
「うん、呼んだとも」
父は一枚の書類を軽く掲げた。
「向こうの家から、婚約解消の申し出があった。……話は聞いているかい?」
リディアは息を呑み、組んでいた手をぎゅっと握りしめた。
「いえ……ですが、察しておりました」
「……解消してしまって、いいのかい?」
「エミリアに、ロイド様を譲るためですよね?」
「えっ!? ……あ、そういう話になっているのか。
まぁ、あながち間違ってはいないが……」
父が書類を落としそうになり、慌てて持ち直す。
リディアは深く頭を下げた。
「長女でありながらお役目を果たせず、申し訳ありません」
「リディア……違うんだ、それは――」
「いえ、私が不甲斐ないばかりに……」
「リディア……」
父の呼びかけを遮るように、リディアは一礼した。
「失礼いたします」
そして、そのまま足早に去っていった。
残された父は、額に手を当てて小さく呻く。
「まったく……うちの娘たちは、どうしてこう頑固なんだ」
窓の外では、古い時計塔の鐘が鳴り始めていた。
歯車の音が、静かに、止まることなく刻み続けている。




