11 錆びついた檻の中で
「お前、また工具散らかしてんじゃねぇか!
エンジニアなら工具を敬え! 床が見えねぇじゃねぇか!」
「あとで片づけるよ! 今が一番面白いとこなの!」
エンジンの唸りを背景に、リディアとグレゴールの怒鳴り声が飛び交う。
ピストンの音、圧縮蒸気の抜ける音、鉄を打つ槌の響き――それらすべてが混ざって工房はひとつの交響曲のようだった。
「夢中になりすぎだ。恋でもしてんのか?」
「してるさ! こちとら片思いなんだよ!」
その一言に、グレゴールが大声で笑う。
「なんで笑うのさ!」
リディアが振り向けば、金の髪に煤がつき、頬も額も油で汚れている。
グレゴールは何も答えず、肩を震わせながら笑い、背を向けて歩き去った。
「……何なんだよ」
リディアは再び魔導エンジンと向き合う。
油と鉄の匂い、焼けた金属の熱気、作業灯の光。
遠くで整備士たちが叫び合い、床はいつものように汚れていた。
――だけど。
香水よりも、楽団の音楽よりも、これが好きだった。
この世界のほうが、ずっと自分らしい。
ここで、自分の腕で生きていけたらいいのに。
視界がかすみ、リディアは汚れた革手袋でそっと顔をぬぐった。
一度大きく息を吸い込み、再び手を動かす。
金属の振動と魔導圧の鼓動が、胸の奥まで響く。
その瞬間だけ、身分も婚約も、何もかも忘れることができた。
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作業を終えた夕刻。
リディアが工房の扉を押すと、そこにエミリアが立っていた。
襟元にフリルを重ねた紺色のドレスに、黒革のコルセット。
整いすぎた妹の姿が、煤だらけのリディアにはまぶしく見えた。
――だけど、最近の妹はどこか変だ。
「エミリア、何しに来たの?」
エミリアはまっすぐにリディアを見つめる。
「お姉様、まだこんな場所に入り浸っているのね。……恥ずかしいこと」
「なんてこと言うの!」
「この場所が恥ずかしいんじゃないの。
貴族令嬢として――その手が油まみれになっていることが、恥ずかしいのよ」
リディアは視線を外し、油に濡れた床を見つめた。
「……わかってるよ」
エミリアは一歩近づき、静かに告げた。
「お姉様。私ね、ロイド様のことが好きになってしまったの。
だから――ロイド様は、私にくださいな」
「……え?」
夕陽を受けたエミリアの瞳は、まるで溶けたガラスのように青く光っていた。
「どうせお姉様は、ロイド様をお慕いしているわけじゃないのでしょう?
とっとと婚約を解消して、エストリアにでも――ルカ・アストレイン様にでもくっついてどこかへ行っちゃえばいいのよ」
「どうしてそんな言い方をするの……」
「だって、婚約がなくなれば、もうお姉様を縛るものなんてなくなるじゃない」
リディアは息を呑んだ。
「……縛るものが、なくなる?」
「そうよ。気づかなかったの?」
妹の声は静かだった。
「エミリア……私、歩いて帰る。頭を冷やしたいから」
「……そう」
ふらりと歩き出す姉に、エミリアは道を譲った。
燃えるような夕陽の中、リディアの影が長く伸びていく。
――お姉ちゃん、踏み出して。貴女は自由に生きていいのよ。
エミリアは唇を噛み、ただその背を見送った。
「エミリア、お前も素直じゃねぇな」
背後からグレゴールの声が落ちる。
「うるさいわよ」
エミリアは振り返らない。
やがてリディアの影が見えなくなると、彼女は静かに馬車へ乗り込んだ。
夕陽に溶けるその横顔は、どこまでも切なく、美しかった。




