6.巡り合わせ③
ビアードの馬車が迂回路に入り、静寂が戻った。聞こえるのは、馬車の軋みと、葉を濡らす微かな雨音だけだ。
御者台に座るビアードは、前方を見据える表情を崩さない。彼の視線は、森の奥深くへと向けられていた。
馬車の中。コーネリアスは、別れ際に手を振った興奮から一転、静かにオフィリアの眠る様を見つめていた。
「ビアード様。」コーネリアスが小声で呼びかける。「ロイズ様たちは、本当に良い方々でしたね。楽しかったので少し寂しいです。」
ビアードは手綱を握ったまま、短く答えた。「あぁ。状況が違えばよき友になれたやもしれぬな。」
「いつかそんな日がくるといいですね。」
コーネリアスは、姫の薄い毛布を優しく直した。 「今は安全に姫様を送り届けなきゃ。」
ビアードは一度言葉を切り、周囲の森を見回した。
「少し馬車の足をはやめよう。雨の中では視界も悪い。なにより、この領内の雨は静かすぎる。国境付近の豪雨とは対照的だ。」
馬車の外の単調な雨音は、むしろ静かな森に潜む危険を予感させていた。
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馬車は、その後もしばらく森の中を走り続けた。道はさらに悪くなり、馬の蹄が深い泥濘に取られそうになる。
ビアードは警戒を怠らない。彼は馬を操りながらも、周囲の木々、馬の様子、そして湿度の変化まで注意深く観察していた。
この雨の静けさはあまりにも異様だった。
馬は、森の静けさに反して、時折いななき、落ち着きなく首を振った。ビアードの顔つきが一段と険しくなる。
そのとき、馬車が湖畔の縁に近い曲がり角を抜けた瞬間、ビアードの視界の端に、フードを深く被った少女のような人影が映った。
ビアードは反射的に前方に注意を戻したが、一瞬のうちに再び湖畔へと視線を戻した。
しかし、雨粒と水煙が織りなす空間の中、影は既に消え去っていた。水面は、ただ単調な雨粒の波紋を広げているだけだ。
(見間違いか……。たしかに人影がいたように見えたが……)
ビアードは疑念を振り払うように手綱を強く握りしめ大きく深呼吸をした。
そして馬車が再びスピードを取り戻そうとした、まさにそのとき、前方の茂みが激しく揺れた。
「なにかくるぞ。」
泥濘をものともせず飛び出してきたのは、荒々しい牙と黒い影を水溜まりに浮かべた、水でできた巨大なアクアハウンドだった。その体が、馬車目掛けて飛びかかり爪を振り下ろす。ビアードは即座に剣を抜くため、柄に手をかけた。
しかし、剣が鞘から抜かれるよりも早く、全ては一瞬で終わった。
アクアハウンドの咆哮が、突然喉の奥で詰まった。
魔獣の体が、まるで透明な水嚢に包まれたように、一瞬で大量の、極めて純粋な液体に覆われた。
淀んだ水でできたアクアハウンドは、自らの体が水で構成されているにも関わらず、
内部から力を奪われ窒息状態に陥った。魔獣はもがき、その水嚢を掻き破ろうとする。
ジュ バ ッ!
そして、間髪入れずに、アクアハウンドの胴体が一筋の水の刃によって両断された。
魔獣は、断末魔の声を上げる間もなく、液体となって泥の中に沈んだ。
ビアードは、剣を抜ききることもできず、**馬車の御者台で呆然としながらも、手綱だけは放さなかった。
**馬は恐怖で駆け出そうと暴れたが、ビアードは手綱を強く引き続け、速度を維持したままその場を通り過ぎた。
馬車が走り抜ける中、ビアードは思わず湖畔へと視線を投げた。
そして、彼は見た。
雨と水煙の向こう、先ほどと同じフードを被った幼い人影が、静かにこちらを見つめているのを。
その光景は一瞬で、再び森の木立に遮られて消えた。
「大丈夫ですか!!なにかありましたか!!」
コーネリアスがビアードに訊ねる。
「いいや、大丈夫だ。ただ馬が少し驚いて暴れただけです。」
ビアードは全身から冷たい汗が噴き出すのを感じた。
(幻ではない。確かにいた……そして、あれが今、魔獣を始末したのか? 対峙すべきではない。一刻も早くここを立ち去るべきだ)
長年の騎士の勘が、この直感を確信に変えた。
周囲には、ただ、単調な雨音だけが響いていた。
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馬車が通った場所から、わずかに森の木立に遮られた湖畔。
フードを被った幼い影は、水面から足を上げ、切り株の上に立っていた。馬車が去っていった方角を見ながら首を傾げる。
???「あぁー!!もう行っちゃった。ざんねーん。馬車の中、不思議な力を感じたのにぃー。」
???「でもまぁー、いいっか!無事だったし。」
???「またいつか会えるよね。(ボソッ」
少女は少し不満げに微笑んだ。彼女の周りの湖水だけが、微かに青く光り、水面に波紋を広げていた。




