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この恋、失速するまでが本番です!

作者: 矢ヶ崎

 

 

 王都にある、由緒正しき神聖なる学舎。

 その中庭の噴水前で、それは──突如として発生した。

 

 薔薇だ。薔薇が、立っている。

 薔薇が人型を持ったのかと錯覚しそうなほどのこんもりとした薔薇の山。

 人間ひとりがすっぽり埋まるほどのクソデカ花束が、ひとりの女生徒を覆い尽くしていた。

 

 彼女は自分の身長を超えるほどの薔薇に埋もれながら、見えぬ視界の向こうに立つ男子へ声を弾ませていた。

 

「ねえ、これ! あたしの気持ち、受け取ってほしいの!」

 

 その笑顔(薔薇に埋もれて見えない)は期待に満ちていた。

 だが──

 

「……いや、その……」

「だって今日、付き合って一週間目でしょ? 特別な日には特別なプレゼント! ね、すごいでしょこれ、千本の薔薇なんだよ!? あたし徹夜で運んだんだよ、これもこれも──」

「ラヴィニア!」

 

 男子の声が割って入る。

 

「えっ?」

「……ごめん。別れよう」

「………………は?」

「だって……その……君、重すぎるよ……俺には、無理だ」

 

 その瞬間、世界が終わった。

 

「……うわーーーーーーーーーーん!!!!」

 

 彼女は次の瞬間には、花束を抱えたままの姿勢で、泣きながら全力ダッシュしていた。

 

「あたしじゃない人とお幸せにーーーーーーーーーー!!!!」

 

 靴が片方だけ飛んだ。

 赤い花が道にこぼれた。

 嗚咽が風に流れた。

 彼女の走ったあとには、恋の残骸のような薔薇の花道が続いていた。

 

 それを遠巻きに見ていた生徒たちは、ため息をつく。

 

「またかよ……」

「ラズベルクさん、マジ全力……」

 

 彼女の愛はいつだって全開だった。

 恋に落ちたら、即・告白、即・全力、即・失恋。

 

 ──こうして、ラヴィニア・ラズベルクは、またひとつ新たな伝説を刻んだ。

 

 

 

 

 肺が痛い。足も、喉も、胸の奥も、すべてが燃えていた。

 

 全力疾走するラヴィニアの姿は、さながら薔薇の暴走列車。いや、咲き誇る感情が行き場を失って暴発する恋の火山とでも呼ぶべきか。

 

 過去の恋の残骸を、足音に変えて踏み鳴らす。

 大地を蹴りつけるたび、脳裏に走馬灯のように思い出がよみがえる。

 燃えるような熱と一緒に、胸の中でかすれた記憶が浮き上がってくる。

 

 

 ──今月最初に好きになったのは、生真面目な騎士家の子息だった。

 

 毎日鍛錬に明け暮れる彼を、ラヴィニアは心から尊敬していた。

 彼の支えになりたいと思った彼女は、毎朝欠かさず──そう、本当に毎朝──スペシャル愛情おにぎりを握って持っていった。

 最初のうちは手のひらサイズ。可愛げのあるボリュームで、彼も「美味しいです!」と笑ってくれた。

 

 ……けれど、それでは満足できなかった。

 

 ラヴィニアは愛情を増量した。日を追うごとに、おにぎりは大きくなった。米の量も、具材の数も、のりの巻き方すら豪奢になった。

 そしてある朝、彼が苦笑しながら言ったのだ。

 

「すみません、これ……おにぎりというより、もう座布団ですね……」

 

 笑顔はあった。優しさもあった。

 でもそれは、「ありがとう」ではなく、「ごめんなさい」だった。

 

 

 次に恋に落ちたのは、学園の温室で珍しい花を育てている園芸部の先輩。

 金髪に薄緑の瞳、白い手袋の似合う王子様みたいな彼が水やりをする後ろ姿に、ラヴィニアの心は一直線だった。

 

 まずは彼の大切にしている花壇の隣に、ラヴィニアは巨大な植木鉢を並べた。

 彼の好きな花を調べ、育て方を学び、同じように水をやり、日々話しかけて応援した。

 

 けれどある日、彼が青ざめた顔で言った。

 

「……あの、僕の丹精込めた花より、なぜその植木鉢の方が……異様に育ちが良いんですか……?」

 

 その言葉に、ラヴィニアは感動した。

 植物への愛が、ちゃんと届いている! 自分の想いも、この花に宿ったのだと!

 そう思って、泣きそうになったのだ。

 

 でも後から思えば。

 そのときの先輩は、「引きつった笑顔」を浮かべていた。

 

 

 そして三度目の恋。

 

 今度は学園近くのカフェでアルバイトをしていた、同級生の男の子。

 彼の真剣な表情と、丁寧にコーヒーを淹れる姿に、ラヴィニアはまたしても「これだ!」と恋の鐘を鳴らした。

 

 そして、やった。

 世界中のコーヒー豆を取り寄せ、すべてラッピングしてプレゼント。

 さらに毎日、客を装ってそのカフェに通い詰め、彼が淹れるコーヒーを一日に十杯、二十杯と飲み続けた。

 

 彼は感謝してくれるに違いない。喜んでくれるに決まってる。

 そう思っていた。最後の最後まで。

 

「ラヴィニアさん……その……売上はありがたいんですけど……」

「毎回“愛の味がする!”ってしか言わないから、改善点がまったくわからないんです……!」

 

 その時、ラヴィニアは悟った。

 ああ、この人も……「困っていた」のか。

 

 

 ──ラヴィニア・ラズベルクの恋は、いつもそうだった。

 

 まっすぐで、過剰で、純粋で、全力で。

 そしてそのたび、空を切って終わる。

 

 けれど、どれほど派手に転んでも、ラヴィニアの恋が終わることはない。

 だって彼女にとって、恋とは生きることそのものだから。

 

 (だって、止まれないのがあたしの恋なんだもん……!)

 

 顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、片方だけ脱げた靴もそのままに。

 涙を風に乗せて、ラヴィニアは全力で、自宅へ向かっていた。

 

 

 

 

「ママあああーーーーーーッ!!!!」

 

 その絶叫は、邸宅の天井を揺るがした。

 しかし──ラズベルク邸の住人たちに、慌てる様子は一切なかった。

 

 侍女は声の調子で察し、用意していた紅茶にミントを一枚追加。

 執事は音量に応じてより丈夫な茶器Bセットに切り替え。

 庭師は剪定を一時中断し、花びら飛散警報の準備を進めた。

 厨房ではあらかじめ用意されていた慰め用コンソメスープを温め始める。

 

 薔薇の花びら、乱れたリボン、くしゃくしゃになったラブレターの断片──廊下に散らばった終わった恋を拾い集める手つきには、どこかのどかな余裕さえあった。

 

 この光景は、ラズベルク家において特筆すべき事件でも、混乱でもない。

 ──つまり、「また始まったか」というだけのことである。

 

 ラヴィニア・ラズベルク、十六歳。

 恋に生き、恋に泣き、恋に燃えて、恋に爆走する乙女。

 彼女が家ごと揺らして大騒ぎを起こすのは、もはや月に数回の恒例行事となっていた。

 

 そう。今回の失恋は、今月に入って三回目である。

 

「失恋したあーーーーっ!!!!」

 

 涙と嗚咽まじりに、彼女は勢いよく階段を駆け上がる。

 制服の裾が翻り、髪飾りが片方吹き飛び、廊下の絨毯をばふばふと踏みしめて突進。

 そのままサロンの扉を突き開けた。

 

「ねえ~~~~ママぁああああああああ!!!!」

 

 優雅な香りが漂うサロンでは、ラズベルク夫人ことベルナデッタがいつものように紅茶を飲んでいた。

 

 ティーセットの湯気と、娘の大嵐。

 そのふたつが同時に存在する空間で、彼女はまったく動じない。

 

 娘が膝に飛び込んで涙と鼻水を擦りつけても肩をすくめることもせず、ドレスが台無しになることにも一切頓着しなかった。

 

「今回は、どれくらい持ったの?」

「い゛っ゛し゛ゅ゛う゛か゛ん゛……!!」

 

 ぐしぐしと鼻をすすりながら、ラヴィニアは叫ぶように答える。

 涙がぽたぽたと、母のスカートに等間隔でしみを作っていく。

 

 彼女はそれを見下ろし、ふむと小さく頷いた。

 

「……あら、まだ甘いわね。私の自己ベストは十五秒だったわよ」

「じ゛ま゛ん゛に゛な゛ら゛な゛い゛よ゛ぉ゛~~~~っ!!」

 

 娘の怒号にも動じず、母は「はいはい」と言いながら、濡れた髪を撫でてやる。

 その手つきには慰めと習慣、そしてどこか楽しげな愛情が滲んでいた。

 

「で? 今回はなんて言われたの?」

「重すぎるって……俺には無理だって……」

 

 ぽつりと落ちた言葉に、ベルナデッタはふっと微笑む。

 

「まあ。懐かしいわねぇ。私も言われたことがあるわ」

「ママも? そのときどうしたの……?」

 

 赤くなった瞳をこすりながらラヴィニアが顔を上げると、母はあっさりと言い放つ。

 

「馬ごと川に落としてやったわ。“あなたは軽すぎるわね”って。ラヴィニアもやってみる?」

「そんなのあたしできないよぉ~~~~っ!!」

 

 悲鳴のような嘆きと共に、再び顔をうずめて泣き崩れる娘。

 母はその背中をぽんぽんと叩きながら、紅茶のカップをもう一度口に運ぶ。

 

 本気か冗談か判別がつかない。

 けれどベルナデッタ・ラズベルクという女には、「嫌いな男との縁談を断るために屋敷の塀を跳び越えて逃げた」とか「恋文を届ける途中でドラゴンに襲われ成り行きで殴り倒した」とかそんな伝説が本気で伝わっているのだから、馬くらいなら本当に持ち上げたのかもしれない。

 

 嵐の乙女──かつてそう呼ばれた母の恋は、豪雨のように烈しく、雷のように荒々しく、そして潔かった。

 

 ラブレターは十通単位。

 返事が来なければ三日三晩詩を詠み続け、相手が王族だろうが平民だろうが、恋の馬車は止まらない。

 

 ──何度も破れて、でも一度も後悔しなかった女。

 

『命がけで恋をして、命がけで泣いたら、あとはケロッと笑えばいいのよ』

 

 ラヴィニアは、その言葉を思い出していた。

 

 つまり、爆走するこの気質──激情も、衝動も、涙も、走る足も、完ッ全に母譲りである。

 

 

 ひとしきり泣き疲れ、娘が母のスカートの上で静かになったのを見計らい、ラズベルク邸は儀式へと移行する。

 

 ──通夜モード。

 

 これは、ラヴィニアが失恋した際に発動される、屋敷をあげての整理整頓と心機一転の行事である。

 恋の始まりと同時に彼女の私室は推しの色に合わせたリボンやクッションに飾られ、時に家具が移動し、時に絵画すら掛け替えられる。

 そして失恋のたび、それらはすべて跡形もなく清められるのだ。

 

「では、カチューシャを外しましょう」

 

 手袋をはめたメイドが、そっとラヴィニアの頭に手を伸ばす。

 淡いブルーの布地に包まれたそのカチューシャは、今回の“彼”の好きな色だった。

 

 外された布飾りは、控えめな金の文字が刻まれた箱へと納められる。

 

「アクセサリー類も、青系ですね。今回の彼は寒色系で統一されていましたから」

「記録済みです。収納完了いたします」

 

 箱の中には、過去に好きになった相手のイニシャル入りブローチや、手作りのお守り、数え切れないほどのリボンが、美しく仕舞われている。

 誰にも触れられぬよう、埃ひとつなく、まるで神殿のように厳かに。

 それは、ラヴィニアの恋の歴史そのものだった。通称、恋の墓標箱である。

 

「お洋服は廊下のラックへ。順次洗濯後、慈善団体にお渡しして」

「了解いたしました。パターン青、失恋処理Cルートです」

 

 ハンガーにかけられたドレスたちは、色も、布の手触りも、タグの位置まで、すべて彼好みにカスタマイズされたものだった。

 けれど、もうそれも必要ない。

 

 通夜は続く。

 

「日記帳と観察記録は──」

「いつも通り、焼却ですね。灰で花が咲くかもしれませんし」

 

 燃やされるのは、ラヴィニアが毎日書き綴っていた「恋の観察記」。

 出会った日から始まり、目が合った回数、微笑まれた角度、声のトーン、全部メモされている。

 

 ──それらはすべて、灰になる。

 

 当のラヴィニアはというと、まだベルナデッタのスカートにうずくまったまま、鼻をすする音だけを発していた。

 だが、それもやがて止む。

 

 涙は、乾く。心は、晴れる。

 朝日が昇るように。花がまた咲くように。

 

 ラヴィニアの失恋は、いつも一晩だけの通夜なのだ。

 

 

「よしよし、大丈夫よ、ラヴィニア」

 

 母の手が、優しく娘の背中をなでる。

 そこには同情ではなく、確かな信頼があった。娘がまた立ち上がることを知っている者だけが持つ、深い余裕だった。

 

「あなたを全部受け止められる立派な男、きっとそのうち現れるに決まってるわ」

「ほんとにぃ……?」

「ええ、本当。だからそのときは、遠慮なんかしなくていいの。愛も、涙も、炎も。全部ぶつけてあげなさいな。女の恋はね、全力でなきゃ──つまらないのよ」

 

 その言葉に、ラヴィニアはぐしゃぐしゃの顔のまま、こくりと力強く頷いた。

 

 次の恋を見据えるような目だった。

 彼女の恋はいつだって、終わると同時に始まっているのだ。

 

 

 

 

 ──翌朝。

 

「いってきまーーーーす!!」

 

 玄関の扉が、ばーん! と音を立てて開かれた。

 静謐な朝の空気を切り裂くような声とともに、陽を弾くポニーテールが軽やかに跳ねる。

 飛び出してきたのは、まばゆいほどの笑顔。

 

 ラヴィニア・ラズベルク、完全復活である。

 

 つい昨日、紅茶の香るサロンで母のスカートに顔を埋めて号泣していた少女とは思えない。

 目の腫れは完璧に冷却され、むしろ肌つやがよくなっている。

 失恋すらも栄養に変えてしまうその生命力は、もはや一種の奇跡だった。

 

 制服はぴしりと整えられ、スカートのひだには気合いが宿り、胸元には新しいリボンがきらり。

 涙と未練と夜の魔物は、すべてふかふかの枕に封印済みだ。

 

 その姿は、新たな恋に生きる乙女そのものだった。

 

「今日も恋が始まる予感しかしなーーいっ!」

 

 声が、空に突き抜ける。

 空が驚いたのか、鳥が数羽ばさばさと飛び立った。

 

 その様子を玄関先で見守っていたのが、ラヴィニアの父──ルシアン・ラズベルクである。

 

「おはよう、ラヴィニア。……あれ、髪型変えた?」

「うんっ! ちょっとだけイメチェン! どうかな、パパ?」

 

 くるりと一回転しながら笑う娘に、ルシアンは目を細めた。

 何があったかは、聞かずとも察している。けれど、そこには干渉も否定もない。

 

「いいじゃないか。よく似合ってるよ」

 

 あたたかい声が返る。

 娘の昨日の様子に口を出そうとはしない。それは失恋を咎めない父の優しさであり、娘の嵐を静かに受け止めるラズベルク家の矜持でもあった。

 

「じゃあパパ、いってきますっ! 次こそは幸せ、掴んでくるからねっ!!」

「うん。気をつけて。あまり、焦らないようにね」

 

 ラヴィニアはひらひらと手を振りながら、もう走り出していた。

 朝陽のさす木々の間を抜け、まっすぐに青空に向かって。

 

 その背中は、恋する乙女というより──もはや、一種の自然災害である。

 風を巻き込み、季節を先取りし、世界に花粉と恋の予感を撒き散らしていくような勢い。

 

「元気なのは、いいことだねぇ……」

 

 ルシアンは小さく笑い、手を振り返す。

 ──今日も、ラズベルク家は平和である。

 

 

 

 

 ラヴィニアは、まっさらな気持ちで朝の光の中を歩いていた。

 昨日の涙も、夜の絶叫も、すべて夢での出来事だったように。

 

 学舎の白い廊下。淡く差し込む陽光が制服の袖を照らす。

 何気ない風景。けれど、それは彼女にとっては久しぶりの静かな歩調だった。

 ──誰にも気持ちを向けていない、誰のことも想っていない、ほんの数時間だけの、空白。

 

 そんなとき、ふいに声がした。

 

「……ラズベルクさん」

 

 落ち着いた、けれどはっきりとした声だった。

 ラヴィニアは、ポニーテールを翻して振り返った。

 

 そこに立っていたのは──ひとりの男子生徒。

 

 淡い銀髪。長くやわらかな睫毛。伏せ目がちで、どこか憂いを帯びた瞳。

 静けさをそのまま纏うようなその雰囲気に、ラヴィニアは一瞬、息を呑んだ。

 

(……見たこと、ある……)

 

 だが、名前は知らない。

 

「……えっと?」

「これ、君のだよね」

 

 彼が差し出したのは──片方だけの、黒いローファー。

 

 ラヴィニアの目が見開かれる。

 

 それは、昨日。

 恋が砕けて、泣き叫びながら走って、途中で吹っ飛んだ──あの靴だった。

 

「……っ!」

 

 ラヴィニアは思わず一歩、いや、半ば駆けるように近づき、両手でそれを受け取った。

 靴のつま先には、土が少しだけついている。けれど、それすら愛おしく思えた。

 

「落ちてたから。花壇の向こうに」

「…………」

 

 言葉が出なかった。

 

 嬉しさ、恥ずかしさ、驚き、なにもかもがいっぺんに押し寄せてきて、胸の中がわあっと騒がしくなるのに、口が動かない。

 

 でも、これはまるで、おとぎ話だった。

 

 落とした靴。拾ってくれた男の子。朝日に満ちた廊下。

 彼の髪が金糸のように輝いて見えるのは、逆光のせいか、それとも──運命の後光?

 

(……これって、まさか……)

 

 ラヴィニアの頭の中では、すでに鐘が鳴っていた。

 恋のファンファーレ、天使のラッパ、扉の開く音──すべてが鳴り響いている。

 

 ただの靴返却イベント? そんなはずがない。

 これは完全にプロローグである。新しい恋の、きらめく幕開け。

 

 そのまま彼は、何も言わずに軽く会釈をして、廊下を歩き出そうとした。

 その背中が遠ざかる──ラヴィニアは思わず声を張り上げた。

 

「ま、待って! あのっ……名前、聞いてもいい?」

 

 振り返った彼は、ほんの少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

 それは、意外だったのか、面倒だったのか──どこか困ったような、けれど優しい顔で。

 

「……ノア。ノア・エーデルフェルト」

 

 その名を聞いた瞬間、ラヴィニアの脳内で光が弾けた。

 

 ──初めまして、ノア。

 もしかして、あなたが……

 

(あたしの、“運命の人”ですか!?)

 

 

 

 

 静寂。紙のめくれる音。差し込む陽光。

 ラヴィニアは図書室の奥、書架の陰にひそみながら、じっと息を潜めていた。

 

(……今日も、いた!)

 

 ノア・エーデルフェルト。

 昨日、靴を拾ってくれた王子様。たぶん運命の人。いや、絶対運命の人。もはや確定演出。

 

 ページをめくる指先の動き、伏せられた睫毛、光の加減で輝く横顔──その全てが芸術だった。

 今この瞬間、世界で一番尊い造形物は彼であると、ラヴィニアは断言できた。

 

 そんな彼を、彼女は今日もノート片手にこっそり観察していた。

 

《本日の観察記録:

 ・髪のふわふわ度、昨日よりアップ(湿度の影響か)

 ・しおりの挟み方が整然としていて知性を感じる

 ・ページをめくるとき指を舐めない(エレガントポイント加算)

 ・総合評価:今日もかっこいい♡》

 

 ちなみに、彼の読んでいる本はもう既に読破済みである。

 感想文も書いたし、暗唱できる箇所もある。抜かりはない。

 

(でも……今回は待つって決めたんだもん)

 

 即アタック即玉砕のいつもの自分を封印し、ちゃんと、距離を保って、焦らず少しずつ──それが今回の作戦である。

 

 忍耐。努力。恋の鍛錬。

 それはラヴィニアにとって史上初の修行のようなものだった。

 

 

 一方その頃──。

 

 ノアは本を読みながら、横目でちらりと視線を送った。

 ──やはり、今日もいた。

 

 最近、やたらと目に入る派手な女生徒。

 髪型も表情もよく変わるけれど、存在感は常に一定。

 ちらちらとこちらを見てくるくせに、話しかけては来ない。なぜかノートを取っている。

 

(……また来てる)

 

 この間までは、ただ変な子だなと思っていた。

 しかし靴を返したときに見せた驚いた顔が、なぜか脳裏に残っていた。

 

(……いつか、また話しかけてくるのかな)

 

 そんなことを思ってしまった自分がいて、そっと自分自身に驚く。

 ページをめくる速度が、ほんの少しだけ早くなった。

 

 

 

 

 その日のノアは、少しだけ疲れて見えた。

 右手を無意識に揉んでいたし、読書を途中で止める様子もあった。

 

(だ、大丈夫かな……!?)

 

 心配が胸をよぎる。けれど──話しかけるのは、まだ早い。

 ラヴィニアはぐっと拳を握りしめ、観察ノートに記すことで感情を昇華する。

 

《本日の観察・特別版:

 ・読みかけのページで止まった(お疲れ気味?)

 ・右手をよくさすってた(心配)

 ・話しかけたかったけど、ぐっと我慢》

 

(……でもいつか、“あの本、面白かったですね”って言える日が来たら……)

 

 恋のアクセルを踏みたくなる衝動を、なんとか両足で踏ん張って堪えた。

 

 

 ──その時だった。

 

「……ラズベルクさん」

 

 静かな声に、ラヴィニアの全細胞が飛び起きた。

 

「え、え、えっ!? な、なに、なにごと!?」

 

 ノアは少しだけ口元を緩めながら、手にしていた本を差し出した。

 

「これ、君が昨日借りてた本だよね。君の感想、聞いてみたいなと思って」

「へ、へええええええっ!?!?」

 

 図書室が震えた。いや、揺れた。ラヴィニアの声量によって。

 

 ノートが、ぴしりと閉じられる音がした。

 観察という名の片思いノート、その十数冊目が終わりを告げた瞬間だった。

 

「……え? い、今の……あたし、話しかけられた!? ノアから!?!?」

 

 この瞬間、彼女の世界は回転を変えた。“見る恋”から“話す恋”へ。

 

「こういう本、好きなの?」

「ひっ……あ、う、えと、あ゛っ、はいっ!!」

 

 ──ラヴィニア、即死。

 

 頭の中ではフルオーケストラが鳴り響き、心拍は限界を突破した。

 もはや語彙は蒸発し、応答はノイズのみ。それなのに、彼のひと言ひと言が刺さる。

 

(ちがう、ちがう、まだ見るだけって決めてたのにぃ~~~!!)

 

 ──でも、話しかけられてしまった。あのノア・エーデルフェルトに。

 それは、抑え込んだすべてをいっぺんに吹き飛ばす、魔法の一撃だった。

 

 

 

 

 それから──。

 

 ふたりは少しずつ、毎日話すようになった。

 

 最初は本の話。次は紅茶。そして、好きな花。好きな時間帯。好きな空の色。

 その会話が、どこまでも続いていくことに、ラヴィニアは驚きながら、夢中になっていた。

 

(え、会話って、こんなに楽しいものだったの!?)

 

 ノアは言葉を選ぶ。目を合わせるまでに少し間がある。

 でも、そのひとつひとつが丁寧で、ラヴィニアはそれがたまらなく愛しいと思った。

 

 

 一方のノアも──。

 

 彼女の話は唐突で、支離滅裂で、意味不明なことも多いのに、不思議と心地よかった。

 観察ノートのことも、ポエムの話も、なぜか引かなかった。

 むしろ、笑ってしまった。

 

 まっすぐで、全力で、けれど人の話はちゃんと聞く。

 その姿勢が、彼にはとても新鮮だった。

 

「明日も来る?」

 

 そう尋ねられて、「うん」と答えた自分に、少し驚いた。

 彼女と、また話したいと思っていた。

 

 ──それは確かに、本音だった。

 

 

 

 

 昼食に向かうべく廊下を歩いていた途中で、それは不意に現れた。

 

「あの、ラヴィニア……」

 

 その声に、ラヴィニアはぎょっとして振り返る。

 日差しの中に浮かび上がる、どこか見覚えのある顔。

 

(……誰だっけ?)

 

 記憶がふるいをかける。名は思い出せない。けれど確か──千本の薔薇を捧げて、盛大に玉砕した……たぶんあのときの元彼だったような気がする。

 

「前はごめん。君のことが……やっぱり忘れられなくて──」

 

 で、出た~~~~~~~~!!!!!!


「ぎゃ~~~~~っ!!!!」


 反射的に、悲鳴と同時に全力ダッシュ。理屈も羞恥もすべて置き去りに、ただ逃げの一手。

 まるでおばけでも見たかのように、否、まだおばけのほうがマシだという勢いでラヴィニアは走り出す。

 

 過去の恋は、もう死んだのだ。

 葬ったはずの黒歴史が、笑顔で復活してくるこの恐怖。

 しかもよりによって、校内、それも昼食どきという油断MAXポイントでの遭遇である。

 

(やばいやばいやばい! 過去からよみがえって来ないで!!)

 

 すでに失恋も供養も終えて、気持ちの墓標は丁寧に建てたはずだった。

 その上に座って「やっぱり忘れられなくて」って、どんなホラー展開なの!?

 

 ──だから彼女は、全力で逃げるのである。

 

 それがラヴィニア・ラズベルクという女の真剣な終わった恋への正しい対処法。

 過去は過去。恋は前だけ。

 

 振り返る余裕なんてない。

 風を切って、スカートをばさばさとはためかせて、角を、曲がった──

 

「っと、大丈夫?」

 

 その瞬間、目の前に現れたのは──ノア・エーデルフェルトだった。

 まっすぐに伸ばされた腕。驚いたような顔。そして、逃げられない視線。

 

「えっ、あのっ、これは、そのっ──」

 

 呼吸が乱れて、言葉にならない。追ってくる足音が近づいてくる。それだけで、また叫びそうになる。

 

 けれど、ノアはちらりと後ろを見やると、迷いなくラヴィニアの前に立った。

 その動きは静かで、でもはっきりと遮るようだった。

 

「……知り合い?」

 

 それだけだった。

 けれどそのひと言に含まれる拒絶の気配は、充分だった。

 

 声は穏やか。でも、冷たかった。

 まるで、「これ以上、関わるな」と言っているかのように。

 

 その瞬間──ラヴィニアは、完全に惚れ直した。

 

(うわあ……すき……♡)

 

 けれど、次の瞬間に現実が殴りかかってくる。

 

(ちょっ、ちょっと待って!? 今の、見られたよね!?!?)

 

 元彼に追われ、悲鳴を上げて逃げてきた女。

 しかも角で衝突未遂。

 

(これ……やばいやつでは……!?)

 

 今まで少しずつ積み上げてきた好印象が、紙の塔みたいに崩れていく音がした。

 

(……あたしの恋……終わったかも……)

 

 

 一方、ノアは──

 

 たまたま昼休みに廊下を歩いていただけだった。

 それが突然、全力で走ってきたラヴィニアと鉢合わせになったのだ。

 

 顔は真っ赤、目には涙が滲み、息は上がって、足元はふらついていて──明らかに何かから逃げてきたというのが、ひと目でわかった。

 

 数秒遅れて現れたのは、妙に気まずそうな青年。

 その時点で、だいたい察しがついた。

 

「……知り合い?」

 

 できるだけ静かに、穏やかに、でもわずかに冷たく。

 その言葉だけで、相手はぴたりと足を止め、すごすごと引き返していった。

 

 それを見届けてから、ノアはゆっくりとラヴィニアの方を振り向いた。

 

「平気? 走ってたけど、怪我は?」

「だ、だいじょうぶ……! ごめんね、なんか、その、見られたくないとこ見られたっていうか……」

 

 彼女はしきりに手を振って笑おうとしていた。

 けれど目は潤んでいて、笑顔も震えていた。

 

 ──その姿を見て、ノアはふと気づく。

 

(……この子、いつでも本気で全力なんだな)

 

 逃げるのも、泣くのも、恋するのも。どれもこれも、取り繕っていない。

 恥ずかしさや体裁を捨てて、全部まっすぐにぶつかってきている。

 

 それが、どうしてか──すごく眩しかった。

 

 

 ラヴィニア・ラズベルクという人間は、たぶん、いつだって全速力だ。

 それがどんなに笑われようと、どんなに失敗しようと、止まる気配はない。

 

 そして、彼女は今、この一瞬のことを、きっと一生分の恥として書き残すだろう。

 だが──それでも。

 その全力は、どうしようもなく、ノアの目に焼きついていた。

 

 

 

 

 翌日の放課後。ラヴィニアはふたたび図書室の扉をくぐった。

 

 その足取りは、軽やかとは言いがたかった。

 足を踏み入れた瞬間、胸がきゅっと縮まる。昨日の出来事が脳裏によみがえる。あの逃走劇を意中の彼に見られてしまったということが、重くのしかかってくる。

 

 だけど、それでも彼に会いたかった。もう一度、あの空気に触れたかった。

 

(──いた……)

 

 窓辺の席。やわらかな午後の陽光が降り注ぐ中、銀髪がほのかに透けるように輝いていた。

 長い睫毛の陰に伏せられた瞳。細く繊細な指がページを繰ってゆく。

 

 ノア・エーデルフェルト。

 

 ラヴィニアは、そろそろと歩を進める。呼吸の音がやけに大きく聞こえるのは、自分の緊張のせいだろうか。

 

 どうか、いつもどおりでいて──そんな願いを胸に秘めながら。

 

「……あ」

 

 彼が、気づいた。視線が重なる。

 その一瞬で、鼓動が跳ね上がる。喉がひりつくほどに乾く。

 

「来たんだ」

 

 ああ、いつもどおりだ。

 

 その声には、昨日の余波などかけらもなかった。驚きも、引きも、気まずさも、なにもない。ただ静かで、あたたかい。

 

「……うん。来ちゃった」

 

 絞り出すように返した声は、ほんの少しだけ震えていた。でも、ノアはそれを気にしたふうもなく、机の上の本をすこしだけずらす。

 

 ぽん、と、隣の椅子を軽く叩く仕草。

 

「ここ、空いてるよ」

 

 たったそれだけの言葉に、世界がふわりと緩んだ。

 この恋が、まだ終わっていないことが、ただ奇跡みたいで。

 

 椅子に腰を下ろしたとき、手がわずかに震えているのが分かった。

 でもそれ以上に、心の奥がざわついていた。

 

(──まだ、“好き”って言ってない)

 

 こんなに近くにいるのに、何ひとつ伝えられていない。

 こんなにも想っているのに、ひとことも口にできていない。

 

(もし言ったら、どうなるの?)

 

(もし言ったら──この時間、壊れちゃう?)

 

 今までの恋だったら、もうとっくに終わっていた。

 

 すぐに気持ちをぶつけて、玉砕して、泣いて、忘れる。それが、ラヴィニアの恋のテンプレートだった。

 

 でも、ノアとは違う。

 言葉を飲み込んで、待って、見て、想って、揺れている。

 

 ブレーキなんて踏んだこともなかったのに、いま初めて、足元を探っている。

 “好き”の言葉が、まだ出てこない。

 

 こわい。こわい。こわい。

 ──これ、どうしたらいいの?

 

 

 彼女が、今日も図書室にやってきた。

 特に何を話すでもなく、ただ本を開き、時折、ちらりとこちらを見る。

 

 不思議なものだ。最初はただ、目立つ生徒だと思っていたのに。

 彼女が自分の隣に座っている。それだけで、図書室の空気が少し変わったような気がする。

 

 彼女のページをめくる指がふと止まる。

 

「……ラヴィニアさん」

 

 名前を呼ぶと、びくりと彼女の肩が跳ねた。

 

「な、なに……?」

 

 目をまるくして、動揺を隠せないまま、それでも視線をそらさない。

 その様子が、らしいなと思えて、少しだけ口元が緩む。

 

 ノアは、静かに言葉を選んだ。

 

「……君のこと、好きだと思う」

 

 その瞬間、まるで時空が揺れたような空気の変化があった。

 

「……っはあああああああ!?!?!?」

 

 椅子ががたんと鳴る。ノートが床に舞い落ち、教科書がひっくり返る。

 

 ラヴィニアの目がぐるぐると回り、顔はどかんと沸騰したように赤に染まる。そのまま頭から湯気でも噴き出しそうな勢いだった。

 

「す、す、すす、すす、すき!? あたし!? え、いつから!? なんで!? え!?!? は!?!?!?!?」

 

 混乱に次ぐ混乱。言葉の洪水。

 そのあまりの慌てように、ノアはひと言だけ。

 

「……図書室では、静かにしないとだめだよ」

 

 真顔。

 それが、なぜかラヴィニアのテンパりに拍車をかける。

 

「そこ!?!?!?」

 

 情緒のブレーキが完全に壊れた。茹であがった顔で突っ伏しそうになりながら、ラヴィニアは頭を抱える。

 どうしてこんなにも、彼の言葉ひとつで心が乱されるのだろう。平静を装いたいのに、できない。

 

 いつもの彼女なら、もうとっくに「好き!」と叫び、全力の恋をぶつけていただろう。だが今は、違った。

 

 彼のまっすぐな瞳が、怖いほどに優しかったから。

 自分の心を見透かされているようで、誤魔化しがきかない。それが、たまらなく怖い。

 

「わ、わたし、その……重いってよく言われるし……!」

 

 思わず逃げ腰になるラヴィニア。

 心のどこかに、また振られるんじゃないかという不安があった。

 

 こんなに嬉しいのに、こわくてたまらない。せっかくもらったこの温もりが、幻だったらどうしよう。

 

 けれど、ノアは迷わず言った。

 

「重くないよ」

 

 断言だった。どこにも疑いの影はなく、ただまっすぐな言葉。

 

 そして、そのまま。

 ラヴィニアの体が、ふわっと宙に浮いた。

 

「……きゃっ……!?」

 

 浮遊感。思考が一瞬、ふっと途切れる。

 気づいたときには、ノアの腕の中だった。

 

 お姫様抱っこ。

 

 あまりに突然で、ラヴィニアは全身を真っ赤に染めて固まる。

 肩に回された彼の腕の力強さと、胸元に感じる鼓動の近さ。すべてが現実味を帯びすぎていて、かえって夢のようだった。

 

 心臓が跳ねる。肺が詰まりそうになる。

 けれど──あたたかい。

 

「うん、ぜんぜん軽いね」

 

 ぽつりと漏れたその言葉に、彼女は息を呑んだ。

 軽い、というただそれだけの言葉が、今の彼女には、信じられないほど重たくて、優しかった。

 

 過去の誰かが「重い」と切り捨てたものを、彼はそのまま受け止めてくれた。

 まるで、それが当然のことだと言わんばかりに。

 

 ラヴィニアはもう、何も言えなかった。

 これは、止まらない恋だ。

 

 今までのように、どこかで勝手に終わってしまうものじゃない。

 自分の意思で止まることも、忘れることもできない。

 このまま、走り抜けられるかもしれない──そんな気がしていた。

 

(やだ……やだもう……この恋……失速しないの……!?)

 

 彼の腕の中で、ラヴィニアはただ、赤くなったまま動けなかった。

 嬉しすぎて、怖すぎて、息をするのさえ忘れそうになる。

 

 でも、願ってしまう。

 この体勢、耐えられない。けど、もっと……もっと、長く──。

 

 そんな中でノアがふと、小さく首を傾げた。

 

「……そろそろ下ろしてもいい?」

 

 またしても真顔だった。さっきと変わらず、静かで、冷静で、ちょっとだけ困っていて。

 

「やだ!!」

 

 反射的な叫びだった。

 自分の声にすら驚くほどの、即答。

 

「えっ」

「やだやだやだ、降ろさないで! このままでいて! 今だけでいいから……!」

 

 必死すぎて、言葉が震える。まぶたの奥が熱くなって、涙が滲んでくる。

 これが終わってしまうのが、たまらなく嫌だった。

 

 ノアは小さく息をついて、それから──ほんの少しだけ、微笑んだ。

 

 そのまま、腕に少しだけ力を込める。

 ラヴィニアを、しっかりともう一度、抱きしめるように。

 

「……あたしも、好きぃ……」

 

 抑えきれずにこぼれた言葉は、かすかに震えていた。

 でも、確かに。ラヴィニアのすべてが、そこに込められていた。

 

 

 直後。

 コツ、コツ、と規則正しく硬質な足音が、奥からゆっくりと近づいてくる。

 

 ──あっ。

 

 ふたりが同時に気づいたときには、すでに手遅れだった。

 

 巨大な本棚の影を抜けて、姿を現したのは──鋭い視線と背筋の伸びた姿勢、その名を聞くだけで生徒たちが身構える人物。

 

「……ラズベルクさん。エーデルフェルトさん」

 

 冷たい声。眼鏡の奥から放たれる光が鋭く閃く。

 それは、学内でも“氷の司書”と噂される、モルヴィア先生だった。

 

「図書室では、お静かにお願いしますね」

 

 そのひと言で、ノアは咄嗟にラヴィニアを下ろし、まるで反射のように頭を下げた。

 

「す、すみません……!」

「うう、ごめんなさいっ……!」

 

 ラヴィニアも慌ててぺこりとお辞儀をしながら、唇の端を引きつらせ、小さな声でつぶやいた。

 

「うわぁ……今の絶対、人生でいちばん甘いお姫様抱っこだったのに……」

「……声が響いておりますよ?」

「ひいっ、ご、ごめんなさーーい!!」

 

 ラヴィニアの大きな謝罪の声に、隣の書架からちらりと顔を覗かせた生徒たちがくすくすと笑い声を漏らす。

 

 彼女は恥ずかしさで耳まで赤く染めながらも、どこか晴れやかな気持ちを隠せなかった。

 

 彼女はそっとノアの制服の袖をきゅっとつまんだ。

 

 するとノアも、何も言わずに自分の手を重ねてくれる。

 その手のひらのあたたかさが、今日という日をそっと包み込む。

 

 ──静寂と紙の香りに包まれた、この場所で。

 今日ラヴィニアはまたひとつ、恋のページをめくった。

 

 

 

 

 週に三日は図書室での逢瀬──というのが、ふたりの最近の習慣になりつつあった。

 

 ノアは、本を読むときとても静かだ。

 その隣で同じ本を読むラヴィニアは、とても……落ち着きがない。

 

「ねえ、ここの言い回しちょっと好き」

「……しずかに」

「えへへ、ごめん……」

  

 そんなやりとりも、もはや定番だった。

 

 あの日、司書にふたり揃って怒られて以来、声量は──一応、控えめになったつもりだった。たぶん。

 そして不思議なことに、ノアの読む速度に合わせて、ラヴィニアのページをめくるタイミングも自然と合うようになっていた。

 

 紙の端をつまむ指先。ふと触れ合いそうになって、どちらからともなくそっと離れる。

 けれど、あたたかな沈黙だけは残っている。

 

(あたし、今すごく幸せだ……)

 

 そう思った、その帰り道だった。

 

「ラヴィニア、やっぱり話を……」

 

 背後から声をかけられる。

 この間中庭で声をかけられた、あの人だった。

 

「ぎょえーーーーーっ!!!」

 

 ラヴィニアは叫ぶやいなや、迷いなくノアの背後に全力ダッシュで隠れた。

 ノアはちらりと彼女を見やり、少しだけ視線を鋭くして、元彼の方へと視線を戻す。

 

「もう、必要ありませんよね?」

 

 静かな声だった。けれど、その一歩は確かに彼女の前へと出ていた。

 

 そのひと言で、すべてが終わった。

 まっすぐで、冷たくて、だけど誰よりあたたかい言葉だった。

 

 元彼が何か言いかけた瞬間、ノアはラヴィニアの手を取ると、踵を返して歩き出す。

 追ってこられる余地なんて、最初からなかった。

 

「……っ」

 

 ラヴィニアは歩きながらちらりと振り返った。

 さっきの元彼は、なぜか今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしていた。

 

 その顔に、もう何の未練もない。

 むしろ、隣の彼の横顔に──

 

(好き……)

 

 心がふわりと跳ねる。

 

(ノア……かっこい~~~~♡)

 

 

 

 

 ラヴィニアは、幸せだった。

 ノアと過ごす日々は、本当におとぎ話の続きのよう。優しくて、けれどそのたびに胸が甘酸っぱく締めつけられるような新鮮さに満ちている。

 

 今日は休日。

 ふたりは街の小さなカフェに腰をおろし、陽だまりのようなティータイムを楽しんでいた。

 ノアは静かに、いつものようにラヴィニアの話を聞いてくれる。ラヴィニアは自然と、いつもよりほんの少しだけ声を抑えて話すようになる。

 

 彼の隣にいると、そうしたくなるのだ。

 落ち着いて、あたたかくて、少しだけ緊張する。まるで特別な時間を、特別な人と分け合っているような気がして。

 

 ──そんな幸福な午後に、水を差すような声が降ってきた。

 

「……ラヴィニア?」

 

 カフェの入り口で、ひとりの青年が呆然と立ち尽くしていた。

 過去にお揃いのブックカバーを贈り合い、やはり運命かもと思っていた元彼──第何号かである。

 

「ああ、ほんとにラヴィニアだ」

 

 気まずそうに笑いながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 ラヴィニアの顔が、ぴしりと引きつった。

 

「やあ……久しぶり。こんなところで会うなんて、偶然だね」

 

 ノアは何も言わずに様子を見ていた。

 けれど、彼の指先がそっとラヴィニアの手に触れる。

 その静かなぬくもりが、彼女の心をゆるやかに落ち着けた。

 

「最近、どうしてるのかって、ちょっと気になっててさ……」

 

 その言葉を遮るように、ノアが椅子を引いた。

 すっと立ち上がり、ラヴィニアの前に立つ。

 

「ご用件はそれだけでしょうか?」

 

 その声音には、凍えるほどの威圧がこもっていた。

 

「え……あ、いや、その……別に、邪魔するつもりとかは──」

「では、もういいですよね。今は僕たちの時間なので」

 

 ひと言ひと言を区切るように、ノアは冷静に告げた。

 元彼はしどろもどろに礼を言い、居心地悪そうに店を後にする。

 

 その背中が店の外に消えた瞬間、ラヴィニアは思わずノアの腕に飛びついた。

 

「ノア~~~~かっこい~~~~~~♡」

「それ、図書室だったら怒られてるよ」

「外だからいいの~~~~!」

 

 嬉しさに頬を染めながら笑うラヴィニアの声が、カフェに明るく響いた。

 その声にまぎれてもなお、ノアの視線はまっすぐに、彼女ひとりを見つめている。

 

 ──その視線があるかぎり。

 ラヴィニアはきっと、どこにいても大丈夫だと思えるのだった。

 

 

 

 

 学舎の中庭には、やわらかな陽光が注いでいた。

 昼休みの時間、ラヴィニアはお気に入りのピクニッククロスを広げ、その上に丁寧に包んだランチボックスを並べていた。

 

 今日のお弁当は、ラヴィニアの本気を込めた力作だった。

 彩り豊かなサンドイッチ。季節のフルーツ。ノアの好みに合わせたハーブティーまで用意した、完璧な布陣だ。

 

「ノア、これ好きかなって思って……その、前に好きって言ってたハーブ、これだよね?」

 

 彼はカップを手に取ると、香りを確かめてひとつ頷いた。

 

「うん。ちゃんと見てくれてるんだね、君は」

「え、へへっ……♡」

 

 ラヴィニアの頬がふわっと緩む。たぶん今、目がハートになっている自覚があった。

 幸せすぎて、顔の筋肉が戻らない。

 

 ──そんなときだった。

 

「やあ、ラズベルクさん?」

 

 聞き覚えのある声が、唐突に空気を変えた。

 

 振り向けば、数か月前に別れた元彼──剣術部の先輩が、ひょっこりと現れていた。

 ひかえめに手を振りながら、しかし妙に馴れ馴れしく近づいてくる。

 

「久しぶりだね。元気そうで安心したよ。最近、ずっと君のこと考えてたんだ」

(うわ、出た……)

 

 ラヴィニアの背筋がぞわりと粟立つ。

 

「……お話、あるならまた今度に──」

 

 とりあえず丁寧にお引き取り願おうとした、その瞬間だった。

 ラヴィニアの目の前で、ノアがすっと立ち上がる。

 

「また知り合い?」

 

 その声は、いつもと変わらぬ低く静かな響き。その目はわずかも笑っていなかった。

 

「えっ、ああ……その、ちょっとだけ……」

 

 ラヴィニアが気まずそうに答える隣で、ノアは無言のまま一歩前へ出る。

 

「申し訳ありませんが、ラヴィニアは今、僕と一緒に昼休みを過ごしています。もし話があるなら、別の機会にしていただけますか?」

 

 声量は抑えられていた。

 けれど、語尾ひとつ揺るがぬその口調は、まるで剣呑な空気をまとっていた。

 剣術部の先輩は、しばしぽかんとしたあと──やがて目を伏せ、しどろもどろに礼を述べて、肩を落としたまま退散していった。

 

 その背に一瞥もくれず、ノアはそのまま席へ戻ってくる。

 何事もなかったように、再びサンドイッチに手を伸ばした。

 

「……ノア……ありがとう、すっごく助かった……」

 

 小声で感謝を告げるラヴィニアに、彼はごく自然な口調で答える。

  

「君が泣かされるの、もう嫌だから」

 

(………………は????)

 

 ラヴィニアの脳内が一瞬で沸騰した。

 頬が焼けるように熱い。

 心臓が、喉の奥まで跳ね上がってくる。

 

(えっ、それ、反則じゃない……!? なにそれ!?)

 

 それまでのすべてが吹き飛んで、ラヴィニアの頭の中にはひとつの事実だけが残った。

 

 ──ノアのかっこいいスコア、過去最高値を更新。

 そしてこの恋は、今日もまた失速するどころか加速中だった。

 

 

 

 

 それから一週間ほど経った、中庭の木陰。

 木漏れ日が芝生にまだらな模様を描く中、ラヴィニアはノアの肩にもたれていた。

 

「……ノアのとなり、落ち着く……」

「そう」

 

 返事はそっけない。けれどその指先は、彼女の髪を優しく撫でていた。

 視線が絡むたび、ふわっと心が跳ねる。甘くて、穏やかで、少しだけくすぐったい。

 

 ──そんな、静かな幸福は。

 唐突に、破られた。

 

「ラヴィニア……」

 

 不意に聞こえた声に、彼女の肩がびくりと跳ねた。

 振り返れば、どこか垢抜けない雰囲気の青年が、緊張と期待を押し殺した顔でそこに立っていた。

 

 それは委員会で出会った、ちょっと頼りなげで落ち着いた年上系男子だった。

 

「今度の恋人とは長く続いてるって、本当だったんだ」

 

 曇りのない瞳で、懐かしむように笑いながら近づいてくる。

 

「ねえ、俺たち……もう一度、やり直さないか?」

(……やめて、お願いだからそういうの……ノアの前で言うのやめて……!)

 

 ラヴィニアの顔が強張る。

 だけど──その前に、別の影がすっと立ち上がった。

 

「……その話、僕の前で続ける気?」

 

 風が止まった。

 ノアの声は、いつも通り冷静だった。けれど、その温度は──氷点下だった。

 

「君は……そうやって優しくされたいときだけ近づいて、都合が悪くなると逃げてきたんじゃない?」

「…………っ!」

「そのたびラヴィニアは傷ついていたと思うよ。僕は彼女にそんな思い、二度とさせたくない。だから──帰ってもらえる?」

 

 言葉はやわらかいのに、拒絶は、突きつけるように強くて。

 

「……彼女は、もう前しか見てないよ」

 

 元彼の足が止まる。しばらくその場に立ち尽くしたあと、何も言わず、逃げるように去っていった。

 

 風が戻る。

 木々がそよぎ、再び穏やかな昼が訪れる。

 

「…………っかっこいい……」

 

 呆然と見つめながら、ラヴィニアの唇から、震えるようなひと言が零れた。

 

 頬が赤い。耳まで真っ赤。

 ノアが彼女に向き直る。

 

「……大丈夫?」

「だめ……もう……好きが……加速した……」

 

 頭を抱えながら、彼女はぐにゃりと芝生に沈んだ。

 ノアは、少しだけ目を細めて──

 

「……そろそろ天井、突き破りそうだね」

 

 その言葉に、ラヴィニアは頭だけ上げて叫んだ。

 

「もう突き抜けて空の向こうまでいっちゃったかも!」

 

 幸せの光速突破である。

 

 

 

 

 別の日の放課後。

 帰り支度を終えたラヴィニアは、リボンを結び直していた。

 今日は一緒に帰ろうって、ノアが言ってくれたのだ──嬉しい。それだけで、ふわっと気持ちが浮く。

 

 けれどその瞬間、不穏な影が視界を遮った。

 

「ラヴィニア……!」

(うわ)

 

 心の中で叫ぶと同時に、記憶の地層から浮上した名もなき幽霊──否、元彼。

 ラブレターを破棄しながら「でも悪いのは君だよね」と言い張っていた最低男だった。

 

「会えてよかった……ずっと考えてたんだ。俺たち、やっぱり運命だったんじゃないかって」

「……は!? えっ、えっ、なに、今さら何言ってんの……?」

「ずっと、君のことを考えてた。君も、俺のこと……忘れられなかったでしょ?」

「いやいやいやいやいや、記憶から削除済みだし!? てか捨てたのあんたでしょ!?」

「俺は、試しただけなんだ。君の本気を」

「はあああああああああ!?!?」

 

 語彙力も理性も今にも爆散しそうになったそのとき──

 

「……邪魔だよ」

 

 すっと、ノア・エーデルフェルトがラヴィニアの隣に立った。

 何の前触れもなく、まるで空気のように自然に壁となって、彼女の前に立ちはだかる。

 

「は? 誰だお前」

「彼氏」

「……はあ!?」

「ラヴィニアに迷惑かけるの、やめてくれる?」

 

 低く静かな口調。けれど、内に秘めた鋭さは隠しきれない。

 しかし、元彼はなぜか鼻で笑った。

 

「彼氏って、マジ? ……っていうかさ、ラヴィニアって、すっごい面倒だよ?」

 

 ──その瞬間。

 ノアの表情が、変わった。

 

「……ラヴィニアを面倒って言ったね」

「いやだって実際──」

「君みたいな人間が、そんな言葉で彼女の何を測れるの?」

「…………え?」

「彼女はね、人の好きなものを覚えて、気を遣って、努力して、たまに空回りして……それでも、誰かをに大事にしようとしてる」

「…………」

「“面倒”なんかじゃないよ。“一生懸命”なんだ」

 

 それきり、ノアは視線を逸らした。

 もう語る価値がないとでも言うように。

 

 うろたえた元彼は、敗北者の姿でその場を去っていった。

 

 ──残されたのは、赤くなった顔で口をぱくぱくさせているラヴィニアだけだった。

 

「……ノア……」

「ん?」

「いまの……惚れ直したんだけど……責任とって……」

「また惚れたの?」

「もう五回目ぐらいかな!? でも今のはランク違い……!」

 

 心臓が壊れそうなほどに鳴っている。ノアの言葉が、全身に残響している。

 

「あとでお礼に、ラブレター書いてもいい……?」

「……静かめにね」

「うんっ♡」

 

 ──こうしてまたひとつ。

 ラヴィニア・ラズベルクの過去が、ノア・エーデルフェルトの手によって、静かに、きれいに清算されたのだった。

 

 

 

 

 その日は噴水前のベンチで、ラヴィニアとノアは並んで座っていた。

 

 何気ない時間。けれど、ラヴィニアにとっては、それが魔法のようにきらきらと輝いていた。

 

「ねぇ、ノア。こういうの、しあわせって言うんだね」

「……そうだね」

「あたしもうずっと、世界一の幸せ者だよ」

 

 そんな甘々バカップル空間に、突如として場違いな声が割り込んできた。

 

「ラヴィニア?」

 

 声をかけられた瞬間、彼女の肩がぴくりと跳ねた。

 視線を向ければ、そこにはさわやか風の男子。

 

「あ、あの……久しぶり」

(うわぁぁぁぁ……)

 

 ラヴィニアは心の中で頭を抱えた。

 たしかこの人は、「君が初恋だった」と三人ぐらいに言ってた常習犯だ。

 

「元気だった? 最近、君のことばかり思い出しててさ。俺たち、やっぱり──」

「ちょっと待ったあー!!」

 

 立ち上がって叫んだのはラヴィニアだった。

 

「なにその“初恋の人は君だけだった”ムーブ!? あんた、他の子にも言ってたよね!?」

「いや、それは、当時ちょっと気持ちの整理が──」

「整理しとけよ!!」

 

 ばしんと手を振り下ろさんばかりの勢いで叫ぶラヴィニア。

 ノアは座ったまま、そのやりとりを見ていた。

 

 そしてふと、目線をあげた。

 

「……ラヴィニアは、君に何を求めたと思う?」

「……え?」

「特別になりたかったんだ。世界でひとりだけの存在として、好きになってほしかった」

「それは……」

「でも君は、自分を“特別”に見せるために、彼女を使った。……違う?」

 

 ノアの声には怒りはなかった。

 けれど、ひどく冷たい静けさと、確固たる拒絶があった。

 

「もう、彼女に話しかけないで」

 

 短く、鋭く。

 そのひと言で、元彼は何も言い返せずに俯いたまま去っていった。

 

 残されたのは、ラヴィニアの火照った顔と、胸の鼓動だけだった。

 

「ノア……」

「ん?」

「もしかして……ちょっとヤキモチ妬いてくれた……?」

「……別に」

「えっ……かわいすぎない!?!?!?!?!?!?!?!?!?」

 

 ラヴィニアは衝動に身を任せ、ノアに抱きつく。

 

「でも、ちゃんと見てくれてて、守ってくれて、かっこよくて……あたしもう……また惚れ直しちゃう……♡」

「何回目?」

「もーっ! 一万回目くらい!!」

 

 ノアは、いつだってラヴィニアの“今”に寄り添ってくれる。

 過去なんてものの存在を、軽やかに踏み越えていけるほどに。

 

 

 

 

 またある日の放課後。雨の匂いが残る廊下を、ラヴィニア・ラズベルクはひとり歩いていた。

 学舎の片隅、静かな空気の流れる書庫の前。

 そこで、懐かしい影と再び出会うことになる。

 

「……ラヴィニア」

 

 足が止まった。

 胸の奥に、どこか遠い記憶の波が打ち寄せる。

 

「あなたは……」

 

 かつての恋人。過去で唯一、もっとも長く続いた相手。

 彼との恋は、短くはなかった。けれど──深くもなかった。


 熱を込めていたのは、いつもラヴィニアのほうだった。

 けれど彼が去ったとき、不思議と涙は出なかった。

 すっと、感情が引いていくのを感じたのを覚えている。


 それなのに、なぜ今──。

 

「君のこと、ずっと後悔してた。……あんなふうに終わらせたのは、間違いだったと思う」

「……やめてよ」

「もう一度だけ……やり直せないか? 今なら、ちゃんと向き合える気がするんだ」

 

 ラヴィニアは目を伏せた。

 雨のにおい。曇った窓。濡れた空気。

 あのときと同じ、季節の気配。


 ──でも、違う。

 あたし、もうあなたのことを──。

 

「ラヴィニア」

 

 そのとき、背中から優しく差し込むような声。

 

「……ノア」

 

 彼は、いつのまにか隣に立っていた。

 ただ、それだけで胸が跳ねる。

 ラヴィニアの“今”は、確かにそこにあった。


 ノアは、まっすぐ視線を向けて言った。

 

「彼女は、今日を生きてる。昨日の恋じゃなくて、もう今日の恋をしてるんだよ」

 

 そのひと言は、言い訳も、後悔も、すべてを押し流すようだった。

 

 元彼が口を開こうとしたそのとき、ラヴィニアが先に言葉を発した。

 

「……あたし、あのとき泣かなかったの。あなたがいなくなったとき、なにも残ってなかったの。不思議なくらい、空っぽだった」

「ラヴィニア……」

「だから──もう、好きじゃないの」

 

 少し笑って、それでも目は真剣だった。

 

「いま、隣にいてくれる人がいるの。すごく好きな人。……だから、もう過去に引っ張らないで。お願い」


 彼ははしばらく何も言わなかった。

 けれどやがて、寂しげに笑い、小さく頷いた。

 

「……そっか。……じゃあ、もう行くよ。……幸せにね、ラヴィニア」

 

 足音が遠ざかる。

 沈黙が残された。

 

 けれど、その沈黙の中で、ラヴィニアはそっとノアの袖を掴んでいた。

 確かな体温。確かな輪郭。

 そこに、未来があった。

 

「……ありがと」

「うん」

 

 それだけ。だけど、それだけでよかった。

 涙じゃなく、笑顔で終われた恋が、彼女をまたひとつ強くした。


 そしてその強さを、ノアはただ、優しく包んでくれた。

 

 

 

 

 陽光が降り注ぐ回廊の先。壁一面のステンドグラスからは淡い色彩が差し込み、花の香りがかすかに揺れる。

 

 その道を、ひとりの花嫁が歩いていた。

 ラヴィニア・ラズベルク。

 レースのヴェールが風にふわりと揺れ、純白のドレスの裾が彼女の一歩ごとに小さく踊った。

 

 ──けれど、彼女の心の中は厳かな雰囲気とは程遠かった。

 姿勢は優雅でも、内側では全力疾走だった。

 

(うわ〜〜〜〜!!!! いま結婚式の真っ最中なんですけど!?)

 

 脳内が警鐘が鳴り響いているかのようにうるさい。

 息が切れそうなくらい、感情が駆け出している。

 でも不思議と、それは怖いものではなかった。

 

 花々に囲まれ、音楽が鳴り響く中、ラヴィニアは歩く。

 これは心象風景でなく、現実の出来事だった。

 

 かつての自分が泣きながら恋に破れ、叫びながら走ったあの日々が、頭の中でぱらぱらとめくられていく。

 

 ──何度も転びそうになった。

 何度も泣いて、怒って、忘れたふりをして、恋に縋った。

 

 でも今、彼女はまっすぐに歩いている。

 その先に、たったひとりの人が待っているから。

 

 ノア・エーデルフェルト。

 

 はじめの頃は目もあまり合わせてくれなかったくせに、ラヴィニアの全部を見ていて、受け止めてくれた人。

 どれだけ走っても絶対に隣にいてくれる、確かな人。

 

 彼が、いる。

 それだけで、世界はこんなにもあたたかい。

 

 胸がいっぱいで、言葉にするにはもう手遅れなくらい幸福で、けれど、どうしても聞きたかった。

 

 ふと立ち止まり、ラヴィニアは小さく笑って、彼を見上げた。

 

「ねえ、ノア」

 

 花嫁の声に、会場の音が一瞬だけ遠のく。

 

「……この恋、いつ失速するのかな?」

 

 ぽつりとこぼした問いは、冗談のようで、本気のようでもあった。

 あまりに懐かしい響きだった。

 

 恋に走って、転んで、終わらせてきた自分の、自分に対する癖みたいな疑問。

 けれど、今回は──返ってくる答えがある。


「失速してもずっと一緒にいるから、何も変わらないよ」

 

 ノアはまっすぐにそう言った。

 ためらいのかけらもない瞳。

 静かな声で、だけど確実に、彼の意志があった。

 

 ラヴィニアは、思わず笑ってしまった。

 なんだろう、胸の奥からふわっとほどけて、あたたかさが広がっていく。

 世界が溶けるように優しくて、涙が出るかと思った。

 

 だから、彼の手をぎゅっと握って、言い返した。

 

「じゃあ、止まらないままでいてあげる!」

 

 その瞬間、会場が拍手に包まれた。

 鐘の音が鳴り響き、祝福の光が差し込んでくる。

 天井から舞い降りた花びらが、ふたりの間に落ちて、未来のようにきらめいた。

 

 誓いのキス。

 つながれた指先。

 祝福されるこれからの音。

 

 ラヴィニアの恋は、もう止まらない。

 何度転んでも、笑って手をつないで、走っていける。

 まっすぐで、一直線で、めちゃくちゃだったけれど──世界で一番、愛おしい恋だった。

 

 この恋、一生加速するみたいです!

 そして止まらぬまま、ゴールイン!

 

 

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ザマァよりも 愛の受け取り方に感嘆しました 報われるだけの下地ありながらもダメ男結構な確率でひきあててて(笑)
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