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実家に戻ると玄関に男物の黒い革靴があった。母がエプロンで手を拭きながら飛んでくる。
「行人さんがいらっしゃってるのよ! 仏壇に手を合わせて、もうお父さんと盛り上がってるわよ」
母は、今度はエプロンで目尻を拭った。
「ありがたいわねぇ。行人さん、監督として高校に戻って以来――そして、あんたが卒業してからもこうしてしょっちゅうやって来て、笑の位牌に手を合わせてくれるのよ。もう充分だから、早く可愛い彼女を作って新しい人生を歩き出せって私もお父さんも言ってるのに」
居間に入るや、上機嫌の父の声が響き渡る。
「おう、駆、遅いじゃないか! 母校を覗きに行くと言ったのに、その監督の方が先に我が家へやって来てくれたぞ! 何処で寄り道してた?」
「ハハハ、駆君は今や我が校のヒーローですからね。部員たちが取り囲んで放してくれなかったんですよ。なあ、駆?」
「さあ、おまえも一杯やれ!」
息子のグラスになみなみと酒を注いで父は笑う。
「知ってるか? 日本には古来から『雷は稲を育てる』『雷の落ちた田は稲が良く育つ』と言い習わされている。それ故、雷のことを〈稲妻〉とか〈稲光〉と言うのだ。だからあの時期、あんな場所――田んぼの真ん中を突っ切った笑は稲の神様に持って行かれた、これはもう宿命だったのだと俺は諦めたよ」
「親父、またその話か」
苦笑する駆を優しく目で制して、行人監督が父の盃に酒を満たす。父は一気に飲み干した。
「それでもなぁ、田んぼが実る季節が廻って来ると稲穂のきらめきの中に笑がいる。あの子の命が吸い込まれ満ち渡ってる、と思わずにはいられないのさ……」
「すみません、監督。親父、酔うといつもあの話だ。もう耳タコですよね?」
監督を送って夜道を歩き出した駆は即座に謝った。
空には月が出ている。あの日と同じように。
「それにしても、笑ねぇは幸せ者だな! 母ちゃんも感謝してました。行人さん――いえ、監督がこうやってしょっちゅう訪ねて来て、父ちゃんと酒を酌み交わして愚痴を聞き、励ましてくれるって。姉ちゃんが逝ってもう十年になるのに」
改めて駆は頭を下げた。
「笑ねぇのこと、忘れないでいてくれてありがとうございます」
「励ましてもらってるのはこっちだよ。それに――」
それまで微笑んだままずっと無言だった行人が突然足を止める。
「忘れるつもりはない」
「え」
「俺はアスリートだぞ。あんな風にいきなりダッシュして俺を抜き去って、置き去りにした最愛の人をそのまま見送るつもりはない。一生追いかけてやる。追いつくまで」
「あ、親父以上に酔っていますね、監督?」
「俺は素面だよ、片岡」
「やっぱり、笑ねぇは幸せ者だな!」
駆は満面の笑顔で言った。
「俺、インターハイ、応援に行きますからね! そのつもりで特別休暇をもらって帰って来たんです」
《陸上女子100mに新星!》
《地元A高校3年清水和奏(17)優勝! 11秒57は歴代7位のタイム》
《快心の弾丸スタートで一気にゴールを突っ切る……!》
【202X年A県開催・全国高校体育大会/陸上の部 各社新聞~web版より】
「遅くなってごめんなさい。せっかくうちの和奏を祝ってくださるって言うのに――」
地元の老舗喫茶店〈リアノン〉、その最奥のブース。
遅れてやって来た姉、清水歌織は顔を伏せ、謝りながら席までやって来た。
「こっそり開いた内輪だけの祝賀会だから、そうシャチコバらなくていいよ」
衣笠行人が監督ではなく元同級生の顔で迎える。
「それにさ、こんな機会でもないと信用金庫のマドンナ歌織ちゃんを引っ張り出せないもんな」
「お久しぶりです、歌織さん!」
立ち上がって挨拶をする駆。歌織が妹の横に座るのを待って腰を下ろした。つくづくと皆を見回して、
「ほんと、こうして顔をそろえるの久しぶりだな!」
事実、あの事故の日以来、四人が一緒になるのは初めてだった。歌織はショックのあまり寝込んでしまい笑の葬儀にも出なかったから。
正直、駆は吃驚した。自分の記憶にある歌織とは面影が全く違っている。ともに幼馴染み同士。和奏の姉で、自分の姉の親友でもあった歌織は筋肉質で小麦色の肌が眩しいエネルギッシュな人だった。ところが目の前のその人は色白でほっそりして、身長も縮んだ気がする。
「では、全員揃ったところで――」
衣笠行人が乾杯の音頭を取った。
「和奏クンの勝利に乾杯っ!」
「おめでとう、和奏!」
「おめでとう」
和奏はカルピスコーラ、他三人はビールのグラスを掲げる。
「素晴らしいレースだったぞ! とはいえ、今回の勝利は奇跡じゃない、当然の結果だ。この三年間、練習に励んで来たおまえの努力と実力だ」
「ひゃあ、監督に真顔でそんなこと言われると照れちゃう! でも」
ペロッと舌を出す和奏。
「実力だけじゃないんです。種明かしすると――やっぱり、コレのおかげだよ」
和奏はポケットからそれを取り出した。まず監督、それから、その横に座っている駆にはちきれんばかりの笑顔を向ける。
「駆、ありがとう!」
「なんだ、それ?」
訝し気に覗き込む行人に、
「お守りです。駆が貸してくれたんです。ほんとにありがとう! 効果抜群だったよ! はい、ちゃんとお返しするね」
「いや、実は――これは俺の持ち物じゃない。ていうか、俺ももらったんだ、姉ちゃんから」
「笑?」
「笑ねぇ?」
「笑だって?」
思わず、歌織、和奏、行人、三人の声が重なった。
「和奏、お守りの中を見てみたかい?」
「やだ、勿体なくて、そんなことしてないよ」
駆は返却されたお守りの袋を開けて中身を掌に乗せた。
白い小枝?……海底に揺らめく純白の珊瑚? あるいは、砕けた波がそのまま凝結したような……
「綺麗……」
見蕩れる和奏に微笑み返して、駆は言う。
「これ、笑ねぇが雷に撃たれて倒れた場所にあったんだ。正確に言うとあぜ道の地中に埋まってた。あの夜、悲しくて悔しくてどん底で、俺、地面に突っ伏して転げ回り、土を滅茶苦茶引っ掻いた――その俺の指に当たったんだよ、これが」
駆は視線を戻して手の中の白い欠片をじっと見つめた。
「それ以来、俺、これは笑ねえが俺に残してくれた贈り物と思って――大切に持ち歩いてる」