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――雨になるのはわかっていた。でも、まさか、こんなにいきなり激しくなるなんて……
突然降り出した雨の中を笑は全速力で走った。
両脇に田んぼが広がる細いあぜ道――ここが何処よりも近道だ――を一気に駆け抜ける。一閃、稲光が奔る。稲の穂も、地面も、白く弾けた。轟音――
「何だって?」
「この先の田んぼ道で片岡笑が雷に撃たれたそうです」
その一報が届いた時、A高校陸上部員は雨を避けて全員体育館内にいた。
「目撃した人がいて……救急車で市民病院へ搬送されたとのこと」
「わかった、私もすぐ行く――衣笠!」
陸上部監督は主将を振り返った。
「詳細がわかり次第、知らせるから、それまでここで皆と待機していてくれ」
「監督、笑は大丈夫ですよね?」
既に監督は職員とともに駆け出している。その後姿を見つめながら衣笠行人主将は真っ青な顏でつぶやいた。
「馬鹿な……だいたい、なんだって笑はそんなとこにいたんだ? あいつ、風邪で今日は、学校を休むって言ってたのに」
ドサッ
背後で鈍い音がして、一人、床に昏倒した。
「あ、清水センパイ……?」
「歌織?」
「歌織!」
片岡笑の親友、清水歌織だった。
「嘘だ、姉ちゃん……」
雨は止んで、月が皓皓と輝いている。
濡れたあぜ道に立ち尽くす少年――小5の弟、片岡駆は身動ぎもせずに真っ黒い地面を見つめている。
「ここで? 笑ねぇが死んだなんて、そ、そんなの嘘だっ!」
突っ伏して泣きじゃくる。両手で滅茶苦茶に地面を掻き毟った。
「嘘だ、嘘だ、嘘だーーー!」
突然動きが止まる。何かが地中で指に当たった。
「?」
掘り出して、凝視する。その頬に再び涙があふれた。泥だらけの拳を握りしめて少年は絶叫した。
「姉ちゃんーーー!」
10年後、初夏の空の下。
体育館前のコンクリートの階段に足を止めて駆は校庭を見下ろしている。
視線の先には、三年間汗を流したトラック、懐かしきホームグランド……!
駆の姿に気づいて監督が手を振る。ほとんど同時に部員たちがドッと駆け寄って来た。
「片岡先輩っ!」
「カケルさんっ!」
「駆せんぱいっ!」
「あ、すみません、練習の邪魔しちゃって。終わるまでこっそり見学するつもりでした」
「何言ってる、おまえが顔を見せてくれるなんて、最高のサプライズプレゼントだぞ!」
若き監督は満面の笑顔で駆の肩を叩いた。
「よく来てくれた、片岡。おまえは今や我がA高校の誇りだ。インターハイ前の部員たちにも何よりの刺激になる」
取り巻いた部員たちが先を争って口々に叫ぶ。
「素晴らしかったです、片岡先輩!」
「正月は皆、TVの前で声を張り上げて応援してましたっ!」
「先輩の雄姿、目に焼き付けましたよ!」
「一年生で、箱根の花の三区激走、7人ぶっちぎって――しかも区間賞なんて! 凄すぎです!」
駆は、頬を染めて大いに照れながら、
「それもこれも衣笠監督のおかげです。ここで三年間みっちり鍛えてくれた。ほんとに感謝しています」
「カッコよかったね、カケル先輩!」
更衣室を出る時も女子部員の間で賞賛の言葉は尽きなかった。話題は駆一色だ。
「在学中もカッコ良かったけど、一段とすてきになったあああ」
「もう雲の上の人だもんね。日本中の陸上ファンがその名を知ってるアスリート」
「ってーーちょっと、ちょっと和奏」
ドン、と背中を押されて和奏は顔を上げた。校門の前にその人、雲の上のアスリート、片岡駆がいる。
「おう、和奏、待ってたんだ、一緒に帰ろう」
気を利かせた他部員たちが足早に去って行く。ようやく和奏は口を開いた。
「駆先輩……」
「カケルでいいよ。いつもそう呼んでたくせに」
「やだ、それは子供の時だよ。中学・高校はずっと『先輩』って言ってたでしょ」
「だっけ? でも、二人の時はカケルだった」
駆はまっすぐに一歳年下の和奏を見つめる。
「俺たち、ずっと一緒に走って来たよな?」
「四人でね」
和奏は訂正した。
「歌織ねぇと私」
駆が言葉を継ぐ。
「そして、笑ねぇと俺」
未だ暮れ残る空を見上げて和奏は大きく息を吸った。
「でも、あの日以来、笑さんはいなくなって――歌織ねぇは走るのを止めた。陸上部も辞めちゃった」
「歌織さんは笑ねぇの親友だったからな。ショックが大きすぎたのさ。だけど、俺たち――俺と和奏は違うだろ? あれからもいつも一緒に練習した」
「カケルには全然ついて行けなかったけどね」
「えー、手加減してやったのに」
「手加減しても無理だよ。素質が違うもん。それはともかく――突然顔を見せて、吃驚したよ! K大学の夏の強化合宿用宿舎が隣りの県で良かった! 近いから帰省には便利だもんね」
「〝近さ〟か、それもある。でも、何よりナイスタイミングだと思ってさ」
ポケットを探る駆。
「地元開催の全国高校総体が、いよいよだな。だから、直接渡したかった。これを――」
差し出した駆の掌に小さな水色の袋が乗っている。凸凹の針目、御世辞にも上手とは言えない。まるで小学生が縫ったような……
「?」
「お守りだよ。俺、今年、箱根でもコレを付けて走って好成績出したんだ。だから、今度は和奏に貸そうと思って」
「私に?」
「あれ? なんで泣くんだよ? 俺がいじめてるみたいじゃないか。人が見てる、ほら、さっさと受け取れよ」
「あり、ありがとう。だって嬉し過ぎるんだもの。カケル、超有名人になって、私のことなんか忘れちゃったと思ってたのに」
「バカ、忘れたことなんかねーよ!」