5話 俺は今
「はぁ……最悪だった……」
雨降る通路の中を俺は濡れて帰る。
あの後、西上さんたちに見捨てられてからはゴリラ野郎と少しだけ戦っていた。と言っても相手の力がとんでもなく、俺は何度も漫画のキャラクターのようにぶっ飛ばされ続けていただけだったが。
そのあとレンジャーたちがすぐに駆けつけてくれたのだ。
レンジャーは探究者と国が作り上げた自衛組織だ。
彼らのおかげで俺は事なきを得た。
そしてボロボロになってこうして帰っているというわけである。
その途中で西上さんたちには出会った。最初は顔面でもぶん殴ってやろうかと思っていたが、いつもより報酬が良かったのでチャラにしてあげた。金は大事だ。
「はぁ……」
しかし、結局ため息は出る。
今日はいろいろあって精神的に疲れてしまった。
早く家に帰って休みたい。
まだ日課のトレーニングもできていない。
実里に勉強も教えてもらっていない。
ふと帰り道に公園のベンチがたまたま目に入る。
……俺、このままでいいんだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまう。
今日戦ったあの男、あいつにはどうやら夢があるようだった。
人に迷惑かけるような夢は正直気に食わないが、夢を持つということ自体は俺にとって羨ましい限りだった。
俺も昔は夢を持っていた。
俺の夢、それは徹おじさんのような立派なレンジャーになることだった。
徹おじさんは昔、自衛隊の幹部でもあったらしく戦闘経験はあり得ないほどに豊富だった。そんな人がレンジャーでも活躍できないはずがない。幼かった俺にはあの人が輝いて見えた。
* * * * * * * *
「俺、徹おじさんみたいになりたい!」
これは俺が昔、あの人に放った言葉だ。
小学4,5年せいくらいの時だろうか。
あれは確か近くの公園で3人で遊んでいた時のことだ。
なぜかこの日のことは今でも鮮明に覚えている。
「……どうして、そう思うんだ?」
「だって、カッコいいじゃん!」
子供が親の仕事に興味を抱くなんて、普通の事だろう。
俺もその例にもれず、同じことを思ったのだ。
最初はそれだけの事だったのだ。
「そうか、実里」
徹おじさんが名前を呼ぶ。
俺より2歳も年下の実里が、徹おじさんの脚の後ろからひょこっと顔を出した。
「み、実里なんか呼んでどうしたんだよ……」
「今から二人で戦ってみろ。この円から出た方が負けな」
徹おじさんはそう言って、公園の砂利の上に木の棒で少し大きな円を描いた。
「実里とぉ~? おじさん、それはさすがに俺をナメすぎだって!」
「まぁやってみろ。実里、いいな?」
「うん」
徹おじさんが実里の肩に軽く手を乗せると、実里は小さく頷いた。実里のその余裕そうな表情や素振りが俺を苛立たせる。
「よーい、始め!」
「だあああ!」
徹おじさんの合図とともに、俺は実里の懐へとびかかる。
腰回りに飛び込んで、そのまま力づくで円の外まで押し込んでやろうと思ったのだ。相撲取りの要領でいけると考えた。
だが、そう上手くはいかなかった。
「え?」
実里の姿が消える。
正確には俺の視界から消えた。
おれは勢い余って、円の外に出そうになる。
実里は素早い身のこなしで、俺の動きを回避すると真横からとっさに俺の腕を掴んでくる。
おれは体のバランスをとるのに必死で対処の余裕がなかった。
「てやっ!」
実里の掛け声。
あまりにも一瞬の出来事で、俺には理解が追い付かなかった。
気づけば俺は、場外で地べたにあおむけで寝転がっていた。
実里に投げ飛ばされたのだ。
俺よりも小さい実里に、だ。
「分かったか、駄咲。人には向き不向きがある。お前までわざわざ無理して戦うことは無いんだよ。お前はただ普通に過ごしてさえくれれば、俺はそれだけで嬉しいんだ」
徹おじさんが、倒れた俺の手を掴んで体を起こしてくる。
「で、でも……」
「駄咲、俺と同じ道になど進んでは駄目だ。その考えは金輪際あきらめてくれ。頼む」
徹おじさんに説得される。
なぜか自分が悪いことでもしてたかのような気分になった。
「……分かった」
その日からだった。
俺は徹おじさんにずっと探求者になることをあきらめるよう聞かされ続けてきた。
何度も、何度も、何度も……。
その度に俺に超えられない壁を見せてきた。
そして同時に思い知らされた。
徹おじさんは遠回しにこの仕事は無理だと、俺に現実を突きつけてきているのだ。俺は幼いながらにあの人の意図を理解した。
「駄咲、お前は何もする必要はないんだ。お前はただ普通に人として暮らしていけばそれでいいんだ。絶対にこちら側へ来るなよ。だからな、兄としてこれからも実里の面倒見てやってくれ。よろしく頼んだぞ、駄咲」
「うん……」
* * * * * * * *
あの日以来、過度に期待を膨らませたり、大きな夢を抱いたりすることはやめた。
ただ、正直胸の内が楽だったりもする。
何も考えず、目の前のことに集中すればいいだけなのだ。
俺のような性格の人間には、正直今のような生活の方があっているのかもしれない。だから、俺は徹おじさんに感謝している。
俺はただ普通の高校生活を謳歌するだけなのだ。
……ふ、普通の生活を頑張って謳歌するところから始めないといけないが。
「ただいまー」
びしょ濡れのまま、俺はマンションの三階まで上がっていき、玄関へと入っていく。
鍵は開いたままだった。
たぶん俺が返ってくることを見越して、実里が開けていてくれたのだろう。
時計の針はすでに十時を告げていた。
龍戸市からここまで歩いて帰ったので、結構時間をかけてしまったのだ。
「兄さん! だ、大丈夫なのそれ!」
実里がリビングの方から急いで俺のいる玄関まで駆け寄ってくる。実里はすでにパジャマ姿だった。ピンクと白の縞々模様の肌触りの良さそうなやつを着ていた。髪の毛も濡れている。多分風呂から上がったばかりだったのだろう。
「あーだいじょぶだいじょぶ、気にしないでくれ」
俺は男から取り上げた上着を脱ぎ、外に顔を出して軽く絞る。
雑巾を絞ったときのようにドバッーっと水が出てきていた。
これはなかなかに気持ちいい。
「俺、このまま風呂入る。あとでお前の髪もついでに乾かしてあげるから来てくれよ」
「はーい」
実里は俺とは比較にならないほど優秀な妹ではあったが、いまだに髪の毛は俺が乾かしてあげている。もう自分でできる年齢だとは思うんだが、そこはお子ちゃまだなと思いつつ、俺はほんの少しだけ優越感に浸るのだ。
風呂に入ると、いろいろ考えていたことも同時にきれいさっぱり洗い流された。明日からまた普通に頑張れそうである。
その後パジャマに着替えた俺は脱衣所に実里を呼び、ドライヤーで頭を乾かしてやった。ついでに渡したいものもあったのだ。
「実里、これあげる」
「え?」
俺は実里に茶色い長形の封筒を渡す。
それを受け取った実里は中に指を入れて覗き込む。
中にはお金が入っているはずだ。確か6万円くらいである。渡す前に一応確認はした。雨に打たれている時も、これだけは濡れないよう庇っていたのだ。
「なんでこれを……?」
「俺バカだからこれくらいでしか実里のこと応援してやれなくてな。今日稼いだやつだから実里が有効的に使ってくれ」
徹おじさんが失踪してからほぼ一年。
あの人から仕送りは来るものの、金銭面に関しては少し心もとなかった。普通に生活するだけならまだしも、何か好きなものを買ったりする余裕はないのだ。
俺は実里に楽しく学校生活を過ごしてほしいのだ。
俺の稼ぎで少しでも実里が笑顔になってくれるといいのだが。
「……兄さん」
「よ、喜んでくれたか……?」
「ありがたいけど、気持ちだけ受け取っておくよ……」
「え?」
実里からの予想外の一言。
俺は一瞬固まってしまう。
前は受け取ってくれたじゃないか。
一体どうして。
「これ、兄さんが稼いできたものでしょ?」
「そ、そうだけど……」
「じゃあ兄さんが使うべき。私なんかじゃなくて」
「いや、でも……!」
それじゃダメだ。
俺にはいらないんだ。
だって俺はこれまでもずっと実里のためを思って……。
「私、実は前に貰ってたやつもまだ使ってないんだ」
「な、なんで……?」
「決まってる。兄さんに使ってほしかった」
「なっ……!」
どういうことだ。
俺は思考が追い付かなくなる。
俺の悪い癖だ。
予想外のことが起きるとこうして固まってしまう。
「でも徹おじさんの急にどっか消えるし、あの人の適当な仕送りじゃ……実里だって頭抱えてたじゃないか」
「あれ? 兄さんちゃんと話聞いてなかった? 父さんは今海外出張中ってだけなんだけど」
「え?」
……何ということだ。
今日一の、いや今年一の衝撃である。
そういえば、そんなことを言っていたような気がしなくもない。
ただあの時は自分の周りをプンプン飛び回るハエのせいで、まったく徹おじさんの話に集中できなかった。
随分と深刻そうな顔をしているなとは思っていたが、まさかそんなことを話していたなんて。ハエめ、許すまじ。いつかとっ捕まえた時には羽だけむしり取って、虫かごの中で無様に飼ってやる。
「それに私が困ってたのは、父さんがお金以外にいらないものばかり送り付けてくるから処分に困ってただけ。別にお金自体にはそんなに困ってない」
「まじかー……」
じゃあこれまで俺はなんでテレビをつけずに手動でコツコツ電気溜めてラジオを使ったり、スマホじゃなくて通信料の安いガラ携帯を使ってたりしてたっていうんだ……!
まるでバカみたいじゃないか!
………。
あ、俺バカだったわ。
「だからこれまで前の分のお金も返すから、兄さんが欲しいもの買いなよ。例えば、スマホとかさ」
「ス……スマホ……!」
その言葉に俺はビクッと反応する。
「なんで俺がスマホを欲しいって……」
「何年一緒にいると思ってるの? 兄さんの考えてることくらいなんとなく想像できるよ。だから、兄さんは自分のために生きていいの」
「あっ……ああっ……」
俺はその場に泣き崩れる。
これまでの苦労が報われるかのような気分だった。
「ほら、兄さんのこのお金でなんでも買いに行って。これは命令ね」
「わ、分かった! 俺、スマホを買ってくる!」
こうしてはいられない。
俺はすぐさま玄関前へと移動し、外へと向おうとする。
「今日はもう遅いから、明日ね」
「アッハイ」
――次の日。
「うおおおお! 実里! 俺はスマホを買うぞおぉぉ!」
「学校あるから、学校終わってから行ってね」
「アッハイ」
実里は既に制服に着替えており、玄関へと向かっていく。
「じゃあ私、今日はちょっと早いから先行ってる」
「おう! 気をつけてな!」
一足先に学校へと向かう実里を俺は見送る。
やばい。
そわそわしてきだぞ。
人生初の自分だけのスマホだ。
楽しみでならん。
と、とりあえず学校に行ってからだな。
まずいな。ただでさえバカなのに、スマホのせいで授業に集中できなくなりそうだ。
あれ? 俺ってスマホ持たない方がいいんじゃ……。
まぁいいか、そんなことは。
一度決めたことを何度も考え直しては駄目だ!
俺は学校の帰りにスマホを買う!
そう決めたんだ!
「ん?」
俺もちょっと早めに学校へ行こうと思い、着替えの制服を探す。
が、いつもかけているクローゼットの中にもどこにもない。
家中どこを探し回っても見当たらない。
別に間違って洗濯してしまったわけでもないのにどうしてだ?
『消えろ!』
昨日の男の言葉を思い出す。
そうだ、俺は昨日あいつに全裸にされてしまったんだ。
その時にジャケットの下に着ていた制服も一緒に消されてしまったんだ。
予備の制服なんてあっただろうか。
多分なかった気がする。最悪だ。俺はどんな格好で学校に行けばいいというのだ!
俺は家の固定電話の受話器を手に取り、大道寺先生へ急遽連絡する
「……大道寺です」
「あ、先生。おはようございます、俺です。兎山高校1年F組、神野駄咲です」
「おー駄咲か。こんな朝早くにどうした。珍しいな」
「いや~それがあのですね」
俺は先生に事情を説明する。
さすがにあのバイトのことは話せないので適当に、川で転んで制服が流されてしまったということにした。さすがの俺でもなかなか無理のある話だと思ったが、俺のような人間にとっさに思いつける嘘なんて限界があった。
「……そうか、わかった」
「せ、先生! じゃあ今日はもう俺休みで……」
「体操服で来いな、じゃあ」
通話が切れる。
「え?」
この人、マジで言ってんのか。