15話 兄との出会い
突然だが、兄さんはバカだ。
靴下を反対に裏返したまま履いていることにまったく気づかないくらいにはバカだ。おまけに左右で長さまで違う。分かりやすいように同じ種類、同じ長さでまとめていたのにどうしてこうなってしまうのか、私には理解しがたかった。
そんな兄さんに最初に出会ったのは、私が小学2年に進級したばかりの頃だった。当時のことを私は今でもよく覚えている。
いつもの通り、父が家に帰って来る音がしたため私は出迎えに向かった。玄関には毎度黒いスーツ姿に身を包んだ父の姿があった。だが、その日は父以外の人物がもう一人だけいた。
「今日から家族になる駄咲だ。仲良くしてやってくれ」
父は特に詳細な経緯を語るでもなく、めでたく歓迎会をするでもなく、簡素に名前の紹介を済ませただけだった。その時の兄さんの表情は死んだ魚のような目をしており、およそ感情というものを持ち合わせた人物には見えないといった印象だった。
「よろしく……」
私がそう言うと、兄さんは父に背を軽く叩かれ、挨拶の代わりに小さくお辞儀をしただけだった。
そして父、兄、私の三人の暮らしが始まった。
当時の兄さんは本当に寡黙で、何を考えているか全く分からず、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。私もそんな兄さんに特別関わろうとはしなかったし、思わなかった。声をかけても大した反応が返ってこなかったから、という理由もある。正直つまらない人だと思った。そうして私たちは何をするでもなく、月日は流れていった。
そんなある日のこと。
私はいつものように登校していた。兄さんは私と同じ学校に転入生として通っており、毎日私の後ろをトボトボと付いて歩くだけだった。そんな兄さんは登校中さえも、周りの班の子達から気味悪がられていたようだった。
けれどこの日、事件は起きた。
兄さんが車に轢かれてしまったのだ。
原因は草むらから逃げたバッタを追いかけ自らも道路に飛び出してしまった他の生徒らを助けるためだった。
普段と変化ない通学路、人通りが少なく、車の通り自体もそれほど多くないため油断してしまった。助けなければならないのに、突然のことで体が思うように動かない。
でも、兄さんは違った。
兄さんはそれを目にした途端、一目散に走りだして生徒たちを車道外へと突き飛ばす。そこまでは良かった。だが、兄さん自身は間に合わなかった。
今まで聞いたことがないような耳を劈く音を車が立て、次の瞬間兄さんは車に跳ねられてしまった。その光景を見て、背筋がぞっとした。それほど仲も良くなく、大した会話もしたことが無い兄さんだったが、とはいっても家族だ。家族が車に跳ねられるなど一体誰が予想できただろうか。
「兄さん……!」
私は跳ねられた兄さんの元へ急ぎ駆けつけた。あたりには血が飛び散っており、それを見ると恐怖で心臓が高鳴る。兄さんの手や足は関節からあり得ない方向に曲がり、口や身体から酷く出血していた。
幼い子供が見ていいものではなかった。
こういった時、まずどうすればいいのか。普段ならすぐに解答を導き出せる私も恐怖で平静を保てずにいた。周囲の生徒らも言葉を失ってしまっている。
気づくと、兄さんを跳ねた車はいなくなっていた。轢き逃げをしたのだ。つまりここに大人はおらず、電話で救急車を呼べる人がどこにもいなかった。体からは出血が止まらず、今にも死に絶えそうな兄さんの表情に、ますます私の血の気は引いていく。
「いてぇ……」
「え……?」
そんな時だった。兄さんの口元が小さく揺れる。
喋ったのだ。
「兄さん……?」
血まみれの兄さんはそのままゆっくりと私の膝元から体を起こす。
そして何事もなかったかのようにあの人は平然と歩き始め、道の端に落としてしまったランドセルを背負い直した。
兄さんはその後、じっとこちらを見つめていた。何を言い出すのかと構えていたが、どうやら私が歩き出すのをただ待っていただけのようだった。
私は兄さんに対する考えを改めなければならないかもしれない。そう思った。この人は異常だ。何かがおかしい。自分も変わった人間だと自負しているが、この人は自分よりも得体の知れない何かを孕んでいるようだった。
しばらくは私はこちらをぼーっと見つめてくる兄を呆然と見つめ返しているだけだった。
その日からだったか、通学路の血まみれ少年という都市伝説が噂されるようになったのは。
その日の内に私は父さんに相談した。
「兄さんが車に跳ねられたのにピンピンしている!」と。
すると父さんはため息をつき、私に事情を説明してくれた。
兄さんの境遇、そして秘められた力について……。
あれから私は兄さんに対し興味を持つようになった。平凡だと思っていた兄さんが、特別な人物だと知れたからだろうか。私は度々、寡黙な兄さんにちょっかいをかけるようになった。
「兄さん、1+1=?」
人気の格闘ゲームで遊んでいる最中の兄へ、私は問いを投げかける。
「うーん……」
「え……」
兄さんは首を傾げた。
1+1=? 答え、田んぼの田。
そんなしょうもないふざけた質問を投げかけただけのつもりだったのに。兄の困惑した態度に私は一瞬思考を止めてしまう。ここは大体真面目に2と答えるか、ふざけた回答のどちらかを選択するはずだろう。
「えっと……」
「いや……分からんが」
ふざけた私の質問にどう答えようか考えているだけかと思ったが、どうやら兄は本気で分からなかったらしい。ゲームをプレイしながらだったため、あまり頭が回ってなかったのかもしれないが、これくらいの質問は普通、答えられるはずである。
兄さんは――バカだった。
後から聞いた話によると、兄は周りからバカにされないためにあえて寡黙な人間を演じているだけだった。だから私は言った。普通にしている方が兄さんはいいよ、と。その日から兄は私に対し、寡黙な人物を気取らず、普通に話をしてくれるようになった。感情を失ったようなロボットのようだった兄さんに喜びや怒り、悲しみなどの感情を教えた。兄は人としての感情を少しづつだが、取り戻すことが出来た
。
そしてやっぱり、このほうが断然いいと私は思う。その方がどうしても人間味があり、またちょっかいのし甲斐があるのだ。そんな兄さんを見ていると、自然と安心できた。決して自分の引き立て役としてなどといった悪い意味ではなく、ただただ温かみを感じるのだ。
私は兄さんに一つ提案をした。
これから一緒に勉強していこうと。
そう言うと、始めて兄さんは笑顔を見せた。
そして本当の意味で私たちは家族になれた気がしたのだ。
「実里ィー! 助けてくれェー!」
兄さんの助けを呼ぶ声。
そんな情けない兄の声を聞く度に、やれやれしょうがないなと思いつつも、どこか嬉しく思っている自分がいた。
――あれから随分と時が経った。
「ただいまー」
いつものごとく兄さんが家に返ってきた。ただ今日はいつもより遅かった気もする。私はソファーでくつろいでいた体を起こし、玄関へと向かう。
「――ッ!」
……は?
私は兄さんを見て驚愕した。兄さんが人を家に連れてきたのだ。
友達がおらず、ときどき本屋で漫画や児童書を買って帰って来るだけの兄さん。そんな彼が突然、見るからに綺麗な女の人を家に連れてきた。動揺もする。
「ああ、この人は学校の~……」
「へー……」
いつものごとくヘラヘラとした口調の兄さん。
今の私は彼の言葉をあまりまともに聞くことが出来なかった。
……彼女? いや、あり得ない。
第一あの兄さんに彼女なんて。友達すらいないのに。顔はモテそうでモテなそうな微妙なラインだが、単純に性格から見てまずモテないだろうと私は思っていた。
しかし――なぜだろうか、胸騒ぎがする。こんな事、今まで無かったのに。
「ど、どした?」
兄さんの怪訝な表情に思わず心臓が跳ね上がる。
初めて兄に心の中を見透かされているんじゃないかと思ってしまった。
「いや……別に」
私は思わずその場から逃げてしまった。
客人に取るべき態度では無かったが、気持ちがどうしてもそういう対応をさせてくれなかった。
何か声が聞こえる。
私はこっそりドアに耳を当てて、声を拾おうとした。
どうやら兄さんはさっきの人から勉強を教わっているらしかった。
私がいつも教えているのに、どうしてわざわざ他人に教えて貰っているのだろうか。やっぱりあの人は彼女だったりするのだろうか。でも兄さんにそんな……。
頭の中で憶測が浮かんでは過ぎ去っていく。
「実里、カレーできたぞ!」
「カレー?」
突然何を言い出したかと思えばこの人は……。
兄さんにカレーなんて作れるはずがない。包丁で自分の指を切断して、「指型ウィンナー」とかいう本気で笑えないレベルの冗談をかます人だ。
でも、テーブルの上にあったのはカレーだった。
どうやら兄さんの連れてきた女性が作ってくれたらしい。
まさか料理まで作るとは……これはもう、確定してしまったのかもしれない。
兄さんに……彼女が……。
あれ?
なんだろうこの感覚は……。
喜ばしいことのはずなのに……なぜか素直に喜べない自分がいる。
食欲はわかなかったが、出された料理を無下にもできない。
私は覚悟を決めて二人と食事をした。
食事をしている最中、兄さんと翔華という名の女の人はそれほど会話をすることがなかった。付き合っているのならもっと愛らしい会話一つや二つするものなのに、どこか思っていたことと違っていた。
それどころか、翔華さんは兄さんがカレーを混ぜていることに文句をつけ、兄さんよりもどっちかというと私に声をかけてきたのだ。服の話だったり、よく通うお店だったり、学校の事だったり……いろいろと話を聞かれた。肝心の兄さんは隣でごちゃ混ぜのカレーを食べつつ、ニヤニヤと一人の世界に入っているようだった。
どう見ても、恋人という風には捉えられなかった。
しかし、兄は普通じゃない。
ならば普通じゃない人の彼女もまた普通じゃなくても理の当然。
結論付けるのはまだ早い。
食事を終え、翔華さんが家に帰るらしい。
私と兄は玄関まで見送る。
しかしもう8時だ。外は暗い。
こんな夜中に女性が一人でいるのはちょっと危ない。
だが、兄さんはぼーっと突っ立っているだけで、何もしようとしなかった。だがら私が代わりに兄さんに送ろう伝えてしまった。なんで私がこんなことを言わなければならないのか。まったく。
結局翔華さんは一人で自転車に乗って帰っていった。
翔華さんが帰っていくのを確認すると、兄さんはどさっとその場に倒れ込んだ。心底疲れた顔をしている。
「兄さんは翔華さんのこと、どう思ってるの?」
なんとなく今しかないような気がして、私はふと考えていたことを尋ねてしまった。
「ん? 仲間だってよ。よくわかんねーよな」
「そ、そうだった……」
兄さんはただ仲間だと答えた。食事中に翔華さん自身もそう言っていたからそうなんだけれども。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「い、いや別に」
「?」
はぁ……私は一体何がしたいんだか。
兄さんのバカさ加減が自分にも移ってしまったのかもしれない。
よく分からないもやもやを抱えたまま、結局その日は過ぎていくのだった。