002:機密保持・迷子・新しい靴
約二年ぶりに帰ってきた月波市の歓楽街は相変わらずの賑やかさだった。
人妖入り混じって笑い合い、肩を組み、酒気を帯びながらふらふらとまた次の店を探す。三月という節目の時期ということもあってか、俺の記憶よりも人気が多い気がする。
俺はその人混みを抜けながら、指定された店を目指す。
徐々に減っていく人の影を傍目に、より人気のない路地へと足を踏み入れる。
特定の道を特定の順路で通ると、あれだけ賑わっていた歓楽街の裏路地はついに俺一人だけとなる。遠くに人々の歓声を聞きながら、そこからさらに人気のない方へと足を向ける。
夕方も過ぎて薄暗くなった裏路地。街灯もないが、人気がないにもかかわらずなぜか窓々から仄かな明かりが足元を照らしてくれているため足取りは止まらない。
そうしてしばらく歩みを進めていると、不意に目の前に赤い提灯が現れた。
居酒屋「迷子」と書かれた赤提灯――さらに今日は「本日貸し切り」と札も掛けられていた。
俺はその札を気にせず扉に手をかけ、ゆっくりと横にスライドさせる。
カランカランとドアベルを鳴らしながら暖簾を潜ると、無人であるが温かなカウンターテーブルが俺を迎えてくれた。そしてその奥の大テーブルに、今日この日の為に集まった面々が俺の到着を待っていた。
「お、来た」
「羽黒お兄様、待ちくたびれましたわよ!」
「……ふん」
「…………」
こっちに気付いてケータイから顔を上げた梓と手を振る白羽。そして相も変わらずむっつりとした仏頂面の親父殿と、対照的にニコニコとした笑みを浮かべるお袋。
「よう」
軽く手を上げて応える。
……はは。この五人だけで顔を揃えるのって、本当にいつぶりだ?
「先に始めてても良かったんだぞ」
「何をおっしゃいますやら。羽黒お兄様がいないと始まりませんわよ。……お母様は、ちょっとフライングしていますが」
「…………」
白羽が苦笑を浮かべると、お袋は何食わぬ顔で空になった徳利をフリフリとこちらに見せつけた。顔色が変わらないため分からないが、既に二、三本は空けていそうだ。
俺もため息交じりに空いている席に着く。と、そこで気付く。普段は上座やらなんやら小うるさい親父殿が最下座に腰掛けていた。上座についているのが今日の主賓というのは分かるが――ああ、そうか。わざわざ俺たち兄妹の席を近くしてんのか。
「……なんだ」
「いや何も」
ちらりと視線を向けると、親父殿はぶすっと鼻息を荒げる。まあ別に突いてやるほどこっちも意地悪ではない。ありがたく気遣いを享受させていただこう。
「それでは羽黒お兄様も揃いましたし改めて」
白羽が自分の飲み物が入ったグラスを手にし立ち上がる。それを見て俺も、いつの間にやら目の前に置かれていたなみなみとビールの注がれたジョッキを手に取る。
「梓お姉様の月波学園高等部卒業と、月波大学教育学部の合格を祝して――乾杯! ですわ!」
「乾杯!」
「…………!」
「……乾杯」
俺は声高らかに、お袋は朗らかな笑みを浮かべ、親父殿は大変珍しく口角を持ち上げ、それぞれ乾杯と口にする。
そして今日の主賓である梓は、どこかこそばゆそうに「ありがと」と小さく笑みを浮かべた。
梓が無事に月波学園高等部を卒業し、教育学部への進路が決まった報せを受けた時、俺は再び活動拠点を国外に移していた。
元々は死神局長の謀で月波市に戻ってきていただけだ。例の浄土管理室長の計画が失敗に終わったことで多少時期外れたが無事に学園を卒業したもみじが、いつの間にやら役所に提出していた婚姻届けを盾に新婚旅行に連れ出されたのだが、それをきっかけに再び街を離れたのだった。
そして出先を転々としながら瀧宮家からの依頼に応えたり、どこぞの狸親父からの裏仕事を渋々受けてやったり、どこぞのクソガキの活動に気まぐれで手を貸したりしながら生活をしていた。
そんなこんなで二年近く世界中を、たまに世界を超えてフラフラしていたのだが、最近になってちょっとした事情で腰を落ち着かせる場所を探していた。そんなところに、白羽からの梓卒業の報が入ったのだ。これもいい機会だし、この街ならばもみじも落ち着けるだろうと帰ってきたのだった。
「じゃあまたしばらくこの街にいんのね」
「ああ。向こう数年は落ち着くつもりだ」
「ふーん」
しばらく見ない間に髪を長く伸ばした梓が、毛先が入らないよう髪をかき上げながら自分の皿に取った料理を口にする。……あの日以来、術者としては完全に引退してから大人しくなったというか、大人びてしまった愚妹を見ていると、口に運ぶ酒がいつもより苦く感じた。
「そう言えば羽黒お兄様は最近何をなさってるんですの? 結構忙しそうにしていましたが」
「ノーコメント」
「ケチですわ」
「機密保持だ」
「どの口が言ってるんですの」
対して白羽の方は以前よりズバズバとモノを言うようになった気がする。それこそ、口の悪さ最盛期の梓を彷彿とさせる。お前はお前でお淑やかさという物をお袋から学んでくれ。
「あー……」
だが、このことは言っておかねばならんだろう。
俺がこの街に戻ってきた――数年は腰を据えられる拠点を探していた理由。
「そういや報告がある」
飲みかけのジョッキをテーブルに置く。それを見て、勘のいい親父殿とお袋は何かを察したのか、黙って俺たちの会話に耳を傾けていた二人が姿勢を正した。
「…………」
俺は一つ、呼吸を整える。
はは、この歳で今更こんなに緊張するとは思わなかったぜ。
「子供ができた。今、二カ月だ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
親父殿とお袋は神妙に、妹二人はポカンと俺の顔を覗き込んできた。
その場の視線を一手に受け、俺はらしくもなく喉が渇くのを感じ、飲みかけていたジョッキを一気に干す。
そしてそれをテーブルに置いた瞬間、白羽がぱっと顔を輝かせた。
「おめでとうございますですわ! わあ、白羽、この歳で叔母さんになるんですのね……!」
「あー……なるほど。マジか……えっと、おめっとさん?」
一瞬遅れて我を取り戻した梓も、口元を抑えながら祝を述べる。少し前はもみじと連れ立っている俺にいい顔をしなかった梓だが、最近はそれも過去の話になっている。
そして――親父殿は渋い顔をし、お袋も心配そうに俺を見ていた。
若い時に何かがあったらしく、この街では珍しい妖怪嫌いの親父殿はともかく、諸手を挙げて祝福してきそうなお袋までもがこの表情ということは、当然この二人は知っているんだろう。
「……産むのか」
親父殿が短くそう問うてくる。
それに対し、俺も短く答える。
「ああ」
「そうか」
親父殿は、ちびちびと舐めるように飲んでいたグラスをぐいっと煽る。それを見たお袋はぎょっとした顔を浮かべたが、すぐに苦笑を浮かべながら俺のジョッキに次のビールを注ぎ、親父のグラスにも僅かばかりの酒を注いだ。
「……大変だぞ」
「だろうな」
「ふん」
親父殿がグラスを差し出し、俺も応えるようにジョッキをごつんとぶつけた。
俺はジョッキを一息で飲み干す。それを見た親父殿も、大して強くもない癖に再びグラスを空にする。
妹共は何のことだかいまいちピンときていないようで、目をぱちぱちさせながら俺たちのやり取りを見ていた。
俺が新たに数年単位で腰を据えられる拠点を探していた理由――もみじの、懐妊。彼女自身が望んたことだし、俺にも身に覚えがあることだから間違いなく俺の子ではある。
とは言え、「子供が欲しい」「よしきた」とできるわけではない。
なにせ相手は吸血鬼――不死者の王にして、かつて異世界を単身で滅ぼしかけた伝説の魔王級である。
「あなたも分かってると思うけど、あの子との間には簡単に子供はできないわ」
俺たちが「新婚旅行」に発つ数日前、急に俺を呼び出した月波学園養護教諭の白沢の言葉を思い出した。
彼女はいつものふざけた色めく口調を引っ込め、俺が今まで見たことないほどの真面目な表情で俺に諭していた。
「そもそも、種族的に異なる人間と妖怪の間で子供ができる理由は分かるわよね?」
「ああ。妖怪が俺たち人間に合わせてんだろ」
この街の妖怪に限らず、古来より妖は人に化けてきた。その理由は様々だ。狩りのため、悪戯のため、食事のため、そして――子を成すため。
朱に交われば赤くなる。
人と交われば人となる。
雪女を筆頭に世界各地に異種間の恋愛譚はごまんとある。それが成り立つのは妖怪が、人外が、人に化けることができるからだ。いや、もしかしたら人が妖を人に変えてしまうのかもしれないが。
ともかく、本来、人としか子を成せない人と子を成すため、妖は己を人と化した。
言うなれば、それは究極の人化だ。
それは人と妖の距離が近いこの街においても変わらない。
「その通り。この街は毒気のない瘴気に中てられて湧いた妖と人とが交わり、奇跡的に今日まで繁栄してきたわ。この街では当たり前のように人と妖が子を成しているけど、それはここ数百年のお話。この街の妖は生まれた時から人として生きてきたから、人とも簡単に子を成せるようになった。最初の数世代は子を成すのも難しかったようよ」
「はっ。この街が興った時はまだいなかったろうに、流石は何でも知ってるんだな」
「ええ。私は何でも知ってるわ」
俺が茶化すと白沢も茶化し返す。しかしすぐに白沢は表情を硬くする。
「人と近しいからこそ、この街の妖にとって人と子を成すハードルはそれほど高くない。でも彼女は――白銀もみじは違うわ。彼女は限りなく原初に近い人外。ただ交わるだけで子が成せる可能性は低い」
「……元々は人間だったらしいぜ?」
「だとしても尚更よ。元が人間だったとしても、今現在吸血鬼なのだとしたら、既に人間としては死んでいる。死体が子供を産めるわけないでしょう」
「…………」
「そして奇跡的に妊娠することができたとしても、出産までは棘の道よ。なにせ彼女は元々終わった世界に生まれた子。時の流れから取り残されたあの世界で旅したあなたなら分かっているでしょうけど、この世界では彼女は常人の約五倍の速度で時が進んでいる。彼女自身は不老不死だから見た目には分からないけれどね」
「……ああ」
そして五倍の速度で時が進んでいると言うことは、彼女の胎に宿った子が十月十日を経て生まれてくる間、もみじの肉体には五倍の、約五年分の負担がかかるということだ。それも子を成すために完全に人化している状態で、だ。
俺は男だし、女の妊娠期間の負担なんか書物の文字で読み取るしかできない。それでも妊娠は肉体に大きな負担をかけるということくらいは理解しているが、それが通常の五倍の期間となると想像もできない。
「それでも私は、羽黒、あなたの子供が欲しいですよ」
「…………」
「あら」
心臓が口から飛び出るかと思ったわ。
いつの間にか、もみじが俺の隣に座って白沢との話に口を挟んできた。流石の白沢も驚いたのか、目を丸くしている。
「この世界に来て、この街で暮らして、改めて人について学びました。人に混ざって日々を過ごし、何の縁か、生徒会長という人の子の進む先の象徴とも言える肩書までもらいました。羽黒、あなたと一緒にこの街で暮らしたのはほんの一年くらいでしたが、あなたを待っていた二年間を含めて――楽しい、とても楽しい学園生活でした。ふふ……少し前まで、人なんて餌としか思っていなかった私がですよ? あなた以外の人がこれほどまでに愛おしい存在になるなんて、思いもしなかった」
「……もみじ」
「羽黒。私は人間が大好きです。あなたのことはもっと大好きです。自分で胎を痛めて、産み、育み、愛したいほどに好きなんです。だから私は人間の、あなたの子供が欲しい」
「だが、体への負担が――」
「だからどうしました? 普通の人よりも少し長くお腹に抱えているだけではありませんか」
「お前、本当に分かって……!」
思わず声を荒げそうになった。
もみじの顔を見て、目が合って――俺は溜息を吐いた。
その夜空のように深く澄み渡った黒い瞳が、本気であると訴えていた。
「……ま、そう言うだろうってことは知っていたわ。ええ、知っていた。だから今日は旦那さんに改めて自覚してもらうために呼び出したんだけどね」
白沢が徐に自分のバッグを手に取る。中を何やら漁っていると思ったら、白い紙袋を取り出してもみじに手渡した。
「はい、これ」
「……? 何ですか? これ」
「この街にも長年人と交わらずに暮らしていた原初に近しい妖はいるのよね。そんな子たちが子供を産むための手助けをするお薬――人化補助剤よ。本来は妖の性質的に人とかけ離れていたり、そもそも人化が得意じゃない子たちが人として暮らしていくためのお薬なんだけど、その性質上、女妖の不妊治療薬としても使われてるわ」
「何だその薬。長いことこの街で暮らしてるが知らんぞそんなもん」
「人間の男の子が普通に暮らしてたら知らないわよ。それにその性質上、複数回の診断と面接を重ねたうえで処方するものだし」
「そんなモンをぽんと出すな」
「とっても強いお薬だから用法容量は必ず守ってね。あなたの妖としての力を考えると、一度の服用はどうしても多くなってきちゃうから。副作用として体が重く感じたり怠くなることがあるけど、それは人外の性質を無理やり人の器に落とし込んでいるからだから、そのうち慣れてくるわ」
「分かりました。その他注意すべきことはありますか?」
「聞け、人の話を」
「当然ながら服用期間中は人化は解かないように。解いちゃうとまた一からやり直しだし、人の体になりかけていたところに妖の力が溢れちゃうと単純に体調を崩すわ。細かい注意点については冊子を入れておいたからしっかりと読んでね。何か分からないことがあれば遠慮なく連絡して頂戴。私の番号は分かるわよね?」
「はい、在学中に控えていましたので」
「おい、だから聞けって。嫁の不妊治療の話に旦那を無視か?」
思わずそう口にして、はたと気付く。白沢がにっこりと笑みを浮かべてこちらに向き直った。
「ふふ……旦那の口からその言葉が出た時点で、今日のところはギリギリ合格よ」
「…………。……あっそ」
「それじゃあ今日は帰って大丈夫よ。――お大事に」
「――い様。羽黒お兄様、起きてくださいな」
「ん……ああ。悪い。ちょっと落ちてたわ」
「羽黒お兄様が酔われるなんて珍しいですわね」
白羽が差し出してきた水の入ったグラスを口に運ぶ。久々に家族だけでの食事ということで浮かれたのか、隣で飲んでいたお袋にペースを乱されたのか、今日は酒が回るのが早かった気がする。
「って、何だこの惨状」
水を一口飲んだことで少しは頭が冷えて視界がクリアになったが、別の意味で眩暈を起こしそうだ。
酒に強くない親父殿は苦虫を潰した顔で舟を漕いでいるし、お袋も空になった大量の徳利の口を指でなぞりながら、何が面白いのか一人でひたすら笑っている。そして何故か梓までもが顔を赤くしながらテーブルに突っ伏している。
「あ、こいつ。俺の酒飲みやがったな」
「そのようですわ……」
俺がうたた寝をする直前に飲んでいた焼酎のグラスが梓の近くにあった。見た目は水だし、お袋が滅茶苦茶飲んで酒の匂いで充満していて、匂いでも気付かなかったようだ。
「というわけで白羽一人ではどうすることもできなかったんですわ……」
「だろうな……」
とっくにラストオーダーは済ませたが、唯一素面の白羽に支払い能力はない。親父殿と梓が潰れ、お袋も酩酊。これは酷い。
「はあ、とりあえずタクシー捕まえるか。白羽、梓を表通りまで運んでくれ。俺は親父殿持ってくから」
「らじゃりましたわ!」
言うと白羽は妙に手慣れた様子で梓を背に担ぐ。元々梓は背は高くないが、白羽はこの二年間で筍みてえににょきにょきと背が伸び、今や梓を背負うぐらいは任せられるほどの体形になっていた。
「先に行ってますわね」
今夜の飯代の会計を済ませ、先立って店を出る白羽を見送る。それから俺は親父殿に肩を貸し、もう片方の腕をお袋に差し出す。
俺の記憶の中よりも痩せていた親父殿と、随分と小柄になったような気がするお袋を支えながら人気のない路地裏を進む。
「……はは」
思わず笑みがこぼれる。
俺が、人の親か。
昔馴染みにはやいのやいの揶揄われそうだし、仕事相手には何の冗談だと言われそうだ。俺自身、この街を出て行った頃を考えると想像もできない未来だ。
全く、どう転ぶか分からんな。
だから人生は――面白い。
「ったく、気が早えわ」
「ふふ、可愛いじゃないですか」
後日。
改めて月波市に移り住んだ俺たちの元に、小包が届いた。
送り主はなんと親父殿。
中身は、子供向けの新品の靴だった。