001:慟哭・マッチョ・髪飾り
第49回月波学園祭、二日目。
僕とビャクちゃんは梓、朝倉、キシさんのいつもの五人組で学園祭を回っていた。
今年の僕らのクラスの出し物は射的ということで、去年のコスプレ喫茶とは違って事前準備さえしっかりしていれば、当日は比較的自由に学園祭を見て回ることができるシフトとなっていた。飲食店ほどの派手さや集客率は望めないものの、きっと今頃は僕が監修した本格的なエアガンによる射撃体験が中等部男子たちを熱中させていることだろう。
「まずどこに行こうか」
「もうそろそろお昼だし、軽く何か食べようよ」
「オッケー。この辺りのエリアだと何があったかなー」
梓が学園祭のパンフレットを取り出し、皆に見えるように開いた。それを覗き込みながら、各々気になる店をチェックする。
「やっぱ学祭と言ったらクレープっしょ! 出店申請で見たけど、チェス研のキングクレープが謎にガチっててあたしのオススメ!」
「初っ端から甘味など阿呆か。最初はもっと腹にたまる物を食わせろ。例えば、そう、インド語研究会のオリンポスカレーなどどうだ。制限時間以内に完食で賞金だぞ」
「……そこ、昨日来ていた二口女ちゃんがたくさんおかわりしたせいで、二日目にして閉店だそうですよ……」
「どういうことだ!?」
インド語研の大盛カレーか、結構本格的らしいから行ってみたかったんだけどな。そういや去年も大盛チャレンジ系の店に謎の二口女を連れた四人が襲撃したって噂があったっけ。今年はそれを教訓に、さらなる大盛を追求するか、大人しく敗北を認めて大盛家業から撤退した店の二つに分かれたらしい。
などと考えながらパンフレットを眺めていると、今までこの学園祭ではありそうで見かけなかった文字を発見した。
「中華研の激辛麻婆豆腐チャレンジ……?」
中華研と言えば、例年は満漢全席チャレンジとかいうイベントをやっていた大食い系の出店だったはず。それが今年は毛色を変えてきたということは、ここも二口女の被害に遭ったのだろうか。
「ほう、中華か」
と、意外にもキシさんが僕の呟きに真っ先に反応した。
「良いではないか、中華。腹にたまるし、何よりこの激辛麻婆豆腐チャレンジというのはそそられる」
「えー……私辛いのそんなに得意じゃないんだけどなあ……。あ、でも月餅あるんだ」
「別に無理に激辛麻婆豆腐にしなくていいと思うよ……わたしは胡麻団子食べたいな……」
「いいね。あたし春巻」
「僕は東坡肉がいいなあ」
「ふん、つまらん奴らめ」
「大盛カレーにも反応してましたけど、もしかしてキシさんお金ないんですか?」
「……貴様らが放課後に連れまわすせいで出費がかさむんだろうが……!」
ぎろりとただでさえ悪い目つきを一層鋭くするキシさん。そういうことなら断りゃいいのに。別にそれで疎遠になるわけじゃあるまいし。
ちなみに僕は最近、羽黒さんに依頼に連れ出されることが多いので財布事情については不自由がない。朝倉も、たまに藤村先生経由で魔導書の解析の依頼を任されているらしい。梓は――と、気付き、少し言葉に詰まる。
あの日、喉を傷めて以来――言霊を上手く紡げなくなった梓は、全ての妖刀を手放した。言葉に変なものが混じらないよう、普段の生活では特殊なマスクで口に封をしている。
それは八百刀流「瀧宮」術者としての事実上の引退を意味した。
「なに?」
「……いや、なんでも」
気付いたのか、僕に視線を向ける。
慌てて否定した僕を少しの間訝しげに見ていたが、しかし梓はすぐに興味をなくしたのかパンフレットに目を向ける。
一度は僕よりも短く刈った亜麻色の髪は、今や少し首を傾げるだけではらりと動くほどに伸びてきた。それが煩わしいのか、髪の毛をかき上げるのが最近の癖になっていた。
その所作が妙に似合っていて、以前よりも魅力的に見えて――哀しくなった。
「んじゃ、中華研に行くってことでいいわね?」
「問題ない」
「いいよー!」
「……胡麻団子、楽しみ……」
梓の号に合わせていそいそと移動を開始する三人。その背中を見ながら、僕も「東坡肉、東坡肉!」と努めて明るく、軽く口にしながら駆け寄った。
「ハーイ、春巻と東坡肉、胡麻団子と月餅お待ちどうサマー!」
中華研の出店ブースに到着し、わざとらしい、いかにもなチャイナドレスを着たウエイトレスに注文をお願いする。するとものの数分でキシさんを除く全員分のメニューが運ばれてきた。ある程度作り置きできるから早いのだろう。いや、届くと同時に「いたっきまーす!」と春巻にかじりついた梓の口元からはザクっと軽快な音が聞こえてきた。あっちは揚げたてらしい。
「おい、俺の分はどうした」
「チャレンジメニューはチョト時間かかってマスね。少しお待ちくださいネ」
と、自分の前に何も置かれなかったキシさんが不満げな声を上げる。しかしこれまたわざとらしい訛りのウエイトレスは笑みを崩さないままさっさと次のテーブルへと注文を取りに行った。
「ちっ……まあ、そういうものか」
「そういうものですよ。んじゃ、お先に頂きますね」
「先頂いてまーす。んー、うまっ」
「見りゃ分かるわ阿呆が」
挑発するように、梓はわざとキシさんの耳元で春巻を齧る。それを煩わしそうに睨むキシさんに一言断ってから、僕も自分の箸を手に取る。
照り照りの飴色に煮込まれた豚のバラ肉は、箸の先が触れるだけでほろほろと崩れていく。それを慎重に摘まみ、そっと持ち上げて口に運ぶ。
まず最初に感じられたのは、ふわっとした中華風の香辛料。普段は姉さんが作る和風の豚の角煮ばかり食べているのでこの香りはとても新鮮な気分になる。そして次に、箸で摘まんだ時点でその柔らかさは十分に分かっていたが、舌の上に乗せたことでより鮮明に感じられるとろけるような触感。よくテレビなどで歯がいらないとはよく聞くが、まさにこのこと。舌と口蓋だけで十分だ。それでいて豚肉本来の強烈な旨味としっかりとした食べ応えが感じられる。全てのバランスが神がかっている。
次は付け合わせの青梗菜と一緒に、中華風の蒸しパンに挟んで食べてみる。
「おお」
思わず声がこぼれる。
東坡肉の濃い目の味付けのタレと、青梗菜のさっぱりとした香りが柔らかな蒸しパンに包まれ、また違った味わいになる。これは最初からこうして食べるのが正義なのではとすら思える。いやしかし、肉をそのまま食べるのも捨てがたい……!
「わあ、美味しい!」
「……胡麻が香ばしい……!」
ビャクちゃんも朝倉も、自分たちが注文した月餅と胡麻団子に舌鼓を打っている。いいなあ、これ食べ終わったら僕も「ハーイ、激辛麻婆豆腐チャレンジのオキャクサマお待ちどうネ」「お、来たな」追加で甘い物でも注文しよ目が痛あああああああああああああああああああああ!!??
「ああああああああなんだこれ!?」
「ふにゃああああああああああ!?」
「ビャクちゃ……!? ぐぷっ……!?」
突如眼球に粉末唐辛子を練り込まれたかのような激痛が走る。涙でぼやけるしかいの中、ビャクちゃんが悲鳴を上げて遠くに逃げるのが見え、朝倉も眼鏡を外して目を抑えている。
キシさんの前に置かれたのは、手のひらに乗るくらいの小さな壺だった。キシさんが壺の蓋を開けた途端、周囲に異臭と呼ぶのも生温い刺激物が飛散したのだ。
「ちょっと何よこれ!?」
「ご注文の激辛麻婆豆腐ネ。シュコー」
梓がブチ切れながらウエイトレスに詰め寄るが、彼女はいつの間に被ったのかガスマスクを装着していて表情が読めない。何故だか笑っているような気がする。
「そんなの被らないと運んでこれないモン食わせるな!?」
「デモそーゆーコンセプトネ。シュコー。メニューにも書いてるヨ」
涙を拭いながらメニューをまじまじと見直すと、確かに端の方にちっさい文字で「視覚、嗅覚に問題が生じても自己責任でお願いします。当サークルは一切の責任を負いません」と書いてある。こんな使い古された詐欺の手口を今時目にするとは!!
「うわ、なにあれ……!?」
「目が、目がァ……!!」
周囲にいた客も席から立ち上がり、安全圏からこちらを眺めている。その中心にいるキシさんは、どういう神経(物理)をしているのか、涙の一滴、汗の一筋も垂らさずに「うむ」と頷いて蓮華を手にした。
「食べるの!? キシさん食べるのそれ!?」
「やめときなさいって!! いくら死神のアンタでも……!」
「絶対やめた方が……ここで散ったら、リンさんも悲しむ……!」
僕ら三人が制止するが、キシさんは蓮華を持つ手を止めない。それどころか妙に自信ありげな表情を浮かべる。
「問題ない。俺はこれでも辛い物には強い」
「キシさんは辛いのに強いんじゃなくて舌が馬鹿なだけです!!」
前に獏の肉を美味いと言って食っていたし!
「それに自ら注文し、出された物に手を付けずに残すのは道理に反する。いただこう」
「あぁ……!?」
キシさんが壺に蓮華を突っ込み、中身を持ち上げる。
どろりとしたとろみを伴って姿を現したのは、多分、豆腐。
赤い。赤いし黒い。
狭い壺から一掬いだけ解放されただけで、刺激臭は更に強さを増す。心なしかギャラリーとの距離も増した。
そしてその一掬いを、キシさんは何のためらいもなく――口に運んだ。
「ふむ」
一体どういう体構造をしているのか、キシさんはその劇物豆腐を信じられないことに口の中でゆっくりと味わい、時間をかけて呑み込んだ。
「「「…………」」」
ごくりと生唾を飲みながら、僕と梓と朝倉が見守る。
そしてキシさんは、
「うむ、なるほど」
と何かに納得したように頷く。
「く、食えるのか、意外と……?」
「ンなわけないでしょ、あんな見るからにヤバいもん……!」
「……でもキシさん平気そう……?」
いや待て。
よく見れば、キシさんの仏頂面が徐々に赤く……いや、青く……いやいや、どんどん白く……!?
「……なるほど」
そしてキシさんは再び頷き――バターン! と椅子から倒れた。
「キシさああああああああん!!」
「ちょ、アンタ大丈夫……って、急に汗がすごいことに!?」
「保健室……! 救急車……!? リンさん……!!」
地面に倒れ込み、さっきまで全くそんな素振りもなかったのに急に滝のような汗をかくキシさん。慌てふためく僕らを余所に、ガスマスクのウエイトレスは「アヤー、このオキャクもダメだたか」と呑気なことを口にする。そしてパチンと指を弾くと、どこからともなく現れたガスマスクを被った拳法服を着た筋骨隆々な大男二人が担架を担いで現れた。
「白沢先生のところに連れてくネ」
「「我得到了它、老師」」
テキパキと無駄に完璧な手際で担架に乗せられて運ばれるキシさん。後には茫然と立ち尽くす僕らと、変わらず劇物を大気中に散布し続ける麻婆豆腐のような物体が残された。
「オキャクサン」
と、ウエイトレスがこちらを向く。
「シュコー。激辛麻婆豆腐チャレンジは失敗のようネ。本来なら罰金――と言いたいところダガ、今回は特別に我がサークルの部費増額で手を打ってやってもイイね」
「!?」
梓の表情が険しくなる。それを見たウエイトレスは「クフフフフ……」と笑いながら、キメ顔でガスマスクを外した。
「目があああああああああああああ!?」
そんで自滅した。
何だこいつ。
「あ、思い出した!! こいつ、去年高等部卒業した留学生の李雨桐だ!!」
「梓、知ってんの?」
「もみじ先輩が2年の時の生徒会選挙で惨敗した噛ませ犬よ」
「誰が噛ませ犬ネ!!」
ガスマスクを被り直し、声を荒げるウエイトレス――雨桐。ガスマスク越しの上に若干鼻声になっていて声が聞き取りにくい。
「高等部からのぽっと出の新参者のクセに、ワタシが着くはずだた生徒会長の座を奪いやがった白銀め……シュコー。その取り巻きである現生徒会にはいつか痛い目を見せてやると心に誓ったネ! 在学中は白銀が怖すぎて行動できなかたガ……シュコー。進学もせず結婚して街を出てフラフラしてる今なら雪辱を晴らせるヨ! シュコー」
すげえ、こんなテンプレな噛ませ犬っているんだな。ていうか留学生ならあんたも高等部からの新参者なのでは。
「我が中華料理研究会が扱う食材には本国から取り寄せるフカヒレや干しアワビも含まれてるネ! シュコー。部費はいくらあっても足りることはない! サア、退場した友達に代わって罰金を支払いたくなければ、部費の増額を――」
「言っとくけど、あたしに言っても部費はどうこうできないからな?」
「エ? 嘘?」
梓が据わった表情を浮かべ、謎の上から目線だった雨桐が呆けた声を上げる。そりゃそうだ。梓は確かに生徒会副会長だが、実際に会計業務を担当するのは3年会計の白川さんと、2年会計の寺田だ。さらに部費の決裁を行うのは生徒会長の日野原さんと生徒会顧問の先生たちだ。梓の一人でどうこうできるものではない。
「クッ、せっかく生徒会に一泡吹かせられると思ったのに……!」
「まあそういうことだから。キシが目を覚ましたら罰金を払わせるから、それで満足してね。んじゃ、ごっつぉさん。春巻美味かったわよ」
言いながら梓は自分の食べた分の料金を財布から取り出す。話も終わったようなので、僕と朝倉もそれに倣って財布を取り出そうとした――しかし、「まだヨ!」と雨桐は性懲りもなく食い下がる。
「何? 部費はどうにもできないって――」
「今日のこのこと、衆目にはどう映るカシラね!」
「……は?」
梓が眉を顰める。
「何が言いたいわけ?」
「生徒会役員、中華研のチャレンジメニューに敗北した上に罰金を払わずに無理やり帰った! シュコー。そう見える人もいるんじゃないかしらネ!?」
「はあ?」
思わず頓狂な声がこぼれた。
「何言ってんだよ。チャレンジに失敗したのはキシさんで、梓じゃない。それに罰金だって後から――」
「住口! 生徒会は清く正しく美しくあらなければならない。今期の生徒会も一見すればそうデショウ。シュコー。でもそれは硝子珠のように繊細で、ほんの少しヒビが入るだけで割れてしまう儚いものヨ! そのヒビを見て見ぬフリして捨て置こうというのなら、瀧宮副会長! シュコー。アナタは生徒会に相応しくないネ!」
「そんな屁理屈――」
「…………」
ぐいっと、僕は梓に襟首を掴まれた。
きゅうっと喉から変な音を溢しながら振り返ると――梓が、無表情で雨桐を見つめていた。
その瞳はとても冷ややかで、それでいて熱く、底の見えない威圧を感じた。
「黙って聞いてりゃ、ピイピイと……」
「……ヒッ!?」
その空気に圧されたか、喚き散らしていた雨桐が初めて一歩引いた。
それに対し梓はさらに一歩踏み込む――ことはせず、キシさんが据わっていた席に着いた。
「お、おい梓……」
「梓ちゃん、まさか……!?」
僕も朝倉も梓のしようとしていることに気付き、慌てて止めに入る。
しかし一歩遅く――梓は壺をひったくり、蓮華で中身を掻き出して直接口に流し込んだ。
「ナっ!? やめなさい! ソレはそんなふうに食べていい物じゃ……!」
「五月蠅い」
ダン! と梓が壺をテーブルにたたきつける。その衝撃と梓の握力に壺はひび割れ、パカリと真っ二つになった。
中身は空っぽになっていた。
「赤唐辛子と豆板醤の強烈な辛みと、花椒の痺れる辛味。それでいて挽肉の凝縮された旨味と濃厚な鶏がらスープが決して引けを取らない。そしてなにより滑らかでありながら噛むことができる歯ごたえの豆腐……ふーん」
「梓!? なんか食レポしてっけど、お前、辛いのそんなに得意じゃ……!」
「…………」
眉間にしわを寄せ、目を瞑って腕を組む梓。額にじわじわと水滴が浮かび上がり、そしてあっという間に全身が雨に降られたかのようにずぶ濡れになる。
「……あっつ」
徐に梓がシャツのボタンに手を伸ばす。それを見た朝倉がぎょっとして慌てて止めに入るが、梓の怪力に非力な朝倉では対抗できず、振り払われてしまう。
「ふう……」
そしてシャツのボタンを全て外し、年頃の女子高生とは思えない勢いで脱ぎ捨てると――中には何故か、スポーティなデザインのビキニを着ていた。
「午後にミスコン予選の水着審査の司会進行があってさ、あたしも脱がなきゃいけないから着てたんだよね」
言いながら、シャツを雑巾か何かのようにきつく絞る。するとジャーっとコップをひっくり返したかのような量の汗が滴り落ちた。
いや、あの一瞬でその量の汗が出るって、そういう毒物か何かだろあの麻婆豆腐。
「さて」
朝倉がポーチからヘアバンドを取り出し、梓に手渡す。そして汗の伝う亜麻色の髪をかき上げてまとめると、脱いだシャツを肩にかけ、茫然とする雨桐に向き直った。
術者を引退しても衰えない、否、それ以前よりも無駄なく引き締まった腹筋を衆目に晒しながら、梓は爽やかな笑みを浮かべている。
「麻婆豆腐チャレンジはクリアしたけど、賞金は?」
「……ッ!!」
「どっか行っちゃったビャクちゃんとも合流したいし、運ばれたキシも気になるから、手短にお願いしますね――李雨桐先輩?」
「……~~~ッ!!」
ガスマスクの上からでも分かるほど顔を赤くする雨桐。
それを見て梓はクスクスと――悪戯っぽく笑った。