56 馬車
「サリナ様」
馬車の外から声がかかった。馬車の脇を馬を駆って走る傭兵の声だ。
「何か?」
サリナと呼ばれた女が目を開いた。
艶やかな黒髪をさらりと背に流した女だ。切れ長の妖しい目に血をぬったような赤い唇をしている。妖艶といっていい。
「前方に人が。一人は剣をさげております」
「剣?」
サリナは眉をひそめた。この辺りに兵士はいないはずである。
「他の者は?」
「女のようです。数は四」
「女連れ?」
サリナの眉間に皺が刻まれ。
女連れの剣士など脅威になりうる可能性は低い。が、油断は大敵であった。
「何者かわからない以上、警戒はゆるめないように。それからこちらから手をださないように。いいわね」
サリナは命じた。そして傍らに目をむけた。
そこには女の姿があった。
年齢は十ほど。人形のように綺麗な顔立ちをしていた。
サリナの顔に薄い笑みがうく。やがてサリナは再び目を閉じた。
馬車が近づいてきた。眺めていた俺は違和感を覚えている。
どうも様子なのだ。警護らしい騎馬の男たちの顔つきが殺気だっている。
馬車は豪華な仕様だった。二頭の馬がひいており、施された装飾も精緻である。
一見、富裕な商人が設えたもののようだ。が、警護の騎馬が十騎とは多過ぎた。
「どう思う?」
俺はベアトリスに目をむけた。
「うん?」
興味なさそうにベアトリスは首を傾げた。
その様子に、俺は自身の愚かさを悟った。ベアトリスはあまり物事を深くは考えない性質のようだ。フォシアと違って細かいことを聞いても無駄だろう。
やがて馬車が目の前に迫った。今やはっきりと馬車と騎馬の様子がわかる。
馬車を通すため、俺は道の端に寄った。
目の前を馬車が通り過ぎる。じろりと馬にまたがった傭兵らしき男が俺たちをねめつけた。
なんだ?
訝しく思って、男から俺は馬車に目を転じた。窓が閉じられているので内部は見えない。
おかしい。
俺は思った。
今日は暑い。馬車の内部ならなおさらだ。
ふつうなら窓を開けて風をいれるだろう。それなのに──。
見られてはならない者が中にいる?
疑念を抱いた俺の前を馬車が通り過ぎていった。
「何なんだ、彼らは?」
馬車を見送りつつ、俺は首を傾げた。すると俺と同じように馬車に目をむけていたベアトリスがいった。
「中にいたのは女だったぜ」
「えっ」
驚いて俺は瞠目した。俺には馬車に乗っている者など見とめられなかったからだ。
馬車の窓にはわずかな隙間があった。ベアトリスは馬車が走りすぎる数瞬間に、そのわずかな隙間から内部を視認したのだろう。信じられない視力だ。
俺は寒気を背筋に覚えた。
もしそうであるなら、ベアトリスもまたフォシアと同程度の超人的な能力を持っていることになる。
「うん?」
ベアトリスが首を傾げた。
「どうしたんだ?」
何事かと思い、俺は問うた。するとベアトリスは無言で前方を指し示した。
馬車がやってきた方向。そこに砂塵が舞っていた。おそらく騎馬の集団だろう。
「どうやら騎士みたいだな」
ベアトリスがいった。俺には無理だが、彼女には視認できるようだ。
「騎士?」
俺は目を凝らした。やがて接近してくる一団の姿をとらえることができるようになった。
全員、金属の鎧を身につけ、腰に剣をさげている。ベアトリスが指摘したとおり、騎士の集団だ。
俺はほぅと息をもらした。やっと逃げ延びることができたと安堵したのだ。
ここはエーハート王国。そうであれば、やってくるのはエーハート王国の騎士だろう。ようやく逃げ延びたという実感がわいたのだ。
やがて騎馬の一団が俺たちの眼前で馬の足をとめた。
「おまえたちは旅の者か?」
騎士の一人が口を開いた。訊問といっていい厳しい口調である。
素直に俺はうなずいた。
「モスナ公国から逃げてきました」
「モスナ公国から逃げてきた?」
騎士たちは顔を見合わせた。あまり驚いた様子はない。どうやらモスナ公国の異変はこの地まですでに届いているらしい。
胡散臭そうに騎士たちは俺たちに視線を這わせた。そして俺にむかって別の一人が訊いてきた。
「ここを不審な者がとおらなかったか?」
「不審な者?」
俺は首を傾げた。不審な者どころか、誰ともすれ違わなかったからだ。いや──。
「馬車とすれ違いました。傭兵らしい男たちに守られていたようですが」
「馬車だと!」
騎士たちの顔色が変わった。顔を見合わせると、もはや俺たちに興味はなくしたのか、馬を駆って走り去ってしまった。
馬脚がたてる砂埃を呆然と俺たちは見送った。何がなんだか良くわからない。
「騎士の方たち、どうしたのでしょうか?」
ややあってミーラが声をあげた。するとミカナがぽつりともらした。
「馬車を追っていったようだけれど」
「みたいだな」
俺はうなずいた。嫌な予感を覚えつつ。
馬車に誰が乗っていたのかはわからない。けれどエーハート王国の騎士が追っているのだ。ただ者でないことだけは確かだった。
ともかく関わり合いになるのは真っ平だった。
こちらにはか弱い四人が女性──ベアトリスだけは例外──がいるのだ。やっかいごとに巻き込まれたくはなかった。ともかくミーラたちの安全をはかることが先決だ。
「先を急ごう」
俺は皆を促した。少しでも国境近くから離れるために。
「ふん」
ポリメシアが嘲るように鼻を鳴らした。そして俺をじろりと睨みつけた。
「そりゃあ急ぎたくもなるわよね。たいせつなミーラがいるんだから」
「ミーラだけのためじゃない」
俺は慌ててポリメシアの言葉を否定した。が、ポリメシアの目の憎悪の光はさらに強まったように見えた。
「嘘よ。バレートを見捨ててまで助けたかった女なんでしょ」
「そうじゃない。俺はバレートを見捨てたわけじゃ」
「やめろ!」
面倒そうにベアトリスが怒鳴った。俺とポリメシアをじろりと睨みつけると、
「おまえらに何があったのかわからねえが、こんなところで喧嘩してもしかたないだろ。それよか始まったようだぜ」
「始まった?」
何のことかわからず、俺は慌てて訊いた。
「戦いさ。きっと騎士と馬車の警護の奴らがやりあってるんだろうな」
獰猛にベアトリスはニンマリ笑った。




